果してそうだろうか、もちろんある意味ではそうなのだろうしそのようにしてやり過ごせるものならそのほうがよほど楽に違いなく、そして大概のことはそんなふうにしてやり過ごせるとしても大概のことであって全部ではないからそうした局面に至ってさてどう切り抜けたものかと思案に暮れてしまうことも当然あるわけだが、かかる停滞というか澱みというかから抜けだす継起なり転換点なりがあるとして、もちろんあるに違いないがどこになのか、振り返って何某か見出されたとしてその見出された当のものが事後的に仮構されたものではないということを示す根拠はあるだろうか、ないとすれば収支が合っているようで合っていないということになりはしないか、そうかといって無理やり収支を合わせようとして却って混乱を来すとすればそのまま手をつけずに置いておくよりほかないのでは、いつか収支が合うことになるかもしれないし、かかる認識それ自体が無効になるかもしれないし、果して本当にそうだろうか、もちろんそうではないということも否定できず、否定できない以上そうと断定することはできないだろう、いや当然できないはずで、ゴム製ではないのだし、尤もゴム製だからそれで万全というのでもなかろう、加熱すれば溶けるし刺し貫けば穴も開くし、抑も違うとか違わないとかそういうことではなく、違うと言えば違うし違わないと言えば違わないのだが、そんなことは今さらどうにもならないと割り切れるものではないにせよ今さらどうにかしようともしていないというのが正直なところで、なぜといって比較すること自体が意味を為さないというか、意味を見出すことに意味を見出せないというか、何かを意味しているからといってそれが何だというのか、抑も意味するとは何なのか、意味を持つというからには外からやって来るというか齎されるというかするのを己がものとして摑むというか手中にするのでもあろうか、それとも内から発するのをそれ自身の内に置くなり据えるなりするのだろうか、指示でも表出でも意義でもないとしても廻り廻って元へ戻ってくるかあるいはどこへも辿り着けずに彷徨いつづけるかのいずれかだとすればそのいずれにも与するわけにはいかないだろう、それよりもっとほかにすることがあるだろう、例えば腰を浮かすとか様子を窺うとか鼻を啜るとか瞬きするとか息を継ぐとかやさしく呼び掛けるとか口を窄めるとか舌で歯の裏を探るとか掌を返すとか、尤も瞬きは意識せずとも勝手にしているだろうからいいとして、もちろんそれ以上に瞬く必要があるなら、埃や何かが入って違和感があるというようなことになれば瞬くことに吝かではないが、何しろ埃っぽく乾燥しているからいつそうなっても不思議ではなく、というかすでにそうした事態に陥っていてそれまでの平均を上廻る回数で瞬きしているのかもしれないが、そうでなくてもこの退屈な時間が、これ以上の退屈などあろうはずもないこの退屈窮まりない時間が劇的に変化するというのならいくらでも瞬いてみせるがそんなことは期待できそうになく、ただ鼻を啜るよりはティッシュを使うほうがいいかもしれず、尤もティッシュの用意があるとしてだが、それも手を伸ばして届く範囲にだが、というのはそのほうが衛生的だし衛生的であることを求められてもいるだろうからで、といって明示的にそのような指示を受けることもなければかかる行為を非難されることもないのだが、だからといって容認されているとか黙認されているとか特別に許可されているとかいうのではなく、抑もそんなことは気にも掛けていないらしく、つまりそれ自体規範の埒外にあっていずれとも決することができないのであり、それなのに須く不衛生は排すべしというような、それが犯すべからざる禁忌でもあるかのような、そんな空気が漂っているのもたしかで、それから掌を返すといっても字義通りの意味であってさしあたりそれ以外のいかなる意味もないのであり、もちろん意味が正しく意味しているかぎりに於いてだが、いずれにせよほかにもっとやるべきことが、例えば徹底するとか割り切るとか数え直すとか清算するとか、拝借するとか返還するとか頂戴するとか進呈するとか、横にするとか縦にするとか透かしてみるとか翳してみるとか、少しだけずらすとかずらしたのを元へ戻すとか、まだほかにもいろいろとやることが、例えば繋いだり切り離したり混ぜたり取り分けたり刺したり抜いたり、閉じたり開いたり濡らしたり乾かしたり沈めたり潤したり、さらには温めたりほぐしたり冷やしたり拭ったり注入したり排出したり、まだまだもっとあるに違いないがひとつひとつ挙げてゆけば切りがないからこれくらいにするとして、実際のところそんなことできるのだろうか、本当の意味でそうした細々したことが為し得ると言っていいものだろうか、それらを為し終えることがつまり完了させるというようなことが、精度の問題ではなく況して練度の問題でもなく本当に本当の意味でできるものなのだろうか、ぐったりと腰掛けながら、それとも横になりながらだろうか、全体どちらが上でどちらが下なのだか、もう上だの下だの前だの後ろだのといった区別も、さらに言えば表だの裏だのといった区別も曖昧で、それでも一定の姿勢を保ちながら、保っていると言ってよければだが、細めたり見開いたり時どき眇めたり、もちろん閉じたりもするが、というかほとんどそれは閉じているが閉じているまさにそのときに閉じているという覚えはないに等しく、閉じていると知りながら閉じていることはだからほんの僅かな時間にすぎないのだが、それでもそれなりに長い時間ではあって、なぜといって長いと感じるのだから、意識がそう意識するのだから、尤もそれは主観的な長さにすぎないからほんの一瞬を無限に長く引き延ばしているだけなのかもしれないのだが、かといってすべてを一瞬の内に押しやり詰め込んで万事足れりとするつもりは更々なく、何某かの長さをそれは有しているに違いないとさしあたり認めてもいいというか認めているというか。
いずれにせよこちらに応じてあちらが応えるのかあるいはあちらに応じてこちらが応えるのか、相和し相紡ぎと言えば聞こえはいいが、まあそれなりに近しいとは言えようがそこまで睦まじい関係でもないらしく、以前は睦まじかったが今はそうでもないということか、それとも未だかつて睦まじかったことなどないということなのか、彼らに取って絶対に必要なものは御互だけで、その御互だけが、彼らにはまた充分であったということであれば申し分ないのだが、抑も関係しているのかどうかそれさえ定かではなく、関係なき関係、関係を超えた関係とでも言えばいいのか、といってまったくの無関係つまり無関係という関係ではないはずで、とにかく少しく距離が何某かの隔たりが、それはもうあるかなきかのほんの僅かなものにせよあるというか、そうと意識することでそうと意識されるのであり、そうして意識されたものをさらに意識するというようにどこまでもいつまでも引き寄せ手繰り寄せては矯めつ眇めつすることに、その果てもないくり返し、そしてまた、いつかまた、もう二度と、それでも尚、とにかくそれはほんの僅かな隔たりでありながら無限の隔たりでもあり、無限に隔たっているのにすでにして掌中にあるようでもあり、とはいえなぜそんなことになるのだか、横目にそれを睨み据えつつただ首を傾げるばかりだが、傾げられればの話だが、もちろん傾げられるし現に傾げているのだが傾げているつもりになっているだけかもしれず、そんなわけでいつも一跨ぎというかいつでも一跨ぎで軽々と飛び越えるそれは溝というか切れ込みというか筋というか裂け目というか、細く長いその窪みの奥に何があるのか、全体に黒いというか黒っぽい灰色の、あるいは灰色っぽい黒の、いくらか緑掛かってもいて、所どころ白い斑点や筋状に煌めくものが現れたり消えたりしている一時も形の定まらない即ちどんな形でもないその面上からは到底窺い知れないが、その際の際まで進んで靴先というか爪先というか、縁に引っ掛ける要領で左足を前に右足を後ろに構えて踏ん張り、といって殊更気負いとか気合いとか何かそういったものによって力を溜めているのではなく、一連の動作の始めというか端緒というかに於いて必要な構えというくらいなものだから程よく力は抜けていて、その脱力の加減が成否を左右すると言っても過言ではないが前傾姿勢になりながら右足に掛けていた体重を左足へと移してゆき、その間に少しく呼吸を整えるというか大きく吸ってはゆっくりと吐きながら勢いよく蹴りだすとともにほんの一跨ぎでこちらからあちらへあちらからこちらへ雑作もなく為し遂げられるとまったく以ておめでたいことに何の疑いも懐いていないのだから、いなかったのだから思い返すたび背筋が寒くなるが、というのは曲げたり伸ばしたりに面倒な手順が、しかも日を追うごとに複雑になってゆく、それこそマニュアル車のギアチェンジにも比すべき手順が要る萎縮し強張った背筋がだが、そうして温めながら揉みほぐして探り探り動かしてゆくわけだが、それなのに大して動かないというか動けないというか、通路が狭まってゆくのを、意志の統御から逃れてゆくのを、それでも辛うじて繋ぎ止められている細い糸を手繰り寄せながら、いやよくよく思い返してみると引き込まれるような吸い込まれるような、ほんの一瞬恐怖というか怖じ気というか掠めるらしく、それでいて意識がそうと意識したときにはもう背後へ流れ去って曖昧に滲んでいてどんな感覚なのだかまるで覚えていないのであり、またそうであればこそ何度も何度でも同じことをくり返すことができるのでもあって、尤もここで言う同じことが厳密に同じことなのかどうかは異論もあろうがそれは今措くとして、そうして何度でもくり返すうちに少しずつ麻痺してゆくらしく、つまり一定の刺激に対する反応性は徐々に低減するからだろう、元もとそうした作りになっているのだろうから、つまり進化の過程で獲得した仕組みなのだからそれなりにというか大いに利するところがあるだろう、そのこと自体を嘆じるつもりはないが、見誤るというか踏み損ねるというか、いつかしくじるときが、つまりほんの僅かな狂いがバランスを崩れさせ、一連の動作のその最後の最後で大きなズレとなって跳ね返ってくるということだが、そんな漠然とした予感さえ懐いていないのだから、いなかったのだから。