その先にそれはあるのだが、こちらとあちらとを分かつ境を成しているそこから、影になっていっそう仄暗いそこから、いやさらにその向こうから、というのは閉て切ってある襖だが、こちらが客間とすればあちらは仏間ということになるか、徐ろに気配が立ち、こちらより一瞬先に感じ取ったらしく振り返るというよりは僅かに傾がせてそちらのほうへ耳を向けるとこちらに残した眼差しで背後を窺いながら聞き入る様子で、それに呼応するようにゆっくりと移動するらしく左から右へすっすっと足を送るような音がしているが、ちょうど真ん中辺りに差し掛かったところで不意に途絶えたのはそこで立ち止まったと思しく、そのまま身を潜めるかに気配が薄れ、消え、自ずとこちらも息を潜める形になってしばらく襖一枚を隔てて互いに聞き耳を立てるような牽制し合うような張り詰めた空気に包まれて身動ぐこともできないのを、手足に絡まり沈んでゆくのを、暗く翳ってゆくのを、闇深いそこで藻搔きながら尚幾許か喘いでいるうちに風に鳴る枝葉の響きさえ届かなくなって、それまでもたしかな響きを耳にしていたわけではないがあまりの静けさに耳を塞がれて滞るらしく、それから幾時間もが過ぎたような気がするがもちろんそんなはずはなく、恐らくほとんど間を置かずに為されたと言っていいが、つまりほんの一瞬の静寂を挟んだだけなのだが、果てのないくり返しのなかで徐々に変質しているのかもしれず、いやたしかに変質していて、なぜといって不意に笑みが、怺えきれず零れるというように、それとも嘲るようにか、といって声にはならず、小刻みな震えに肩が揺れているのを、その余波が皺を伝って胸に腹に腰に順次送られてゆくらしいのを、さらに四囲へ拡がるというか散るというか静寂の内に流れてゆくだろうことを、そうして均衡が破れたからには向こうにも何らか動きがあって然るべきだがそうしたものは見られず、尚も静まりのうちに幾時間が過ぎ、その間もこちらでは高まり低まりしながら笑いが尾を引いて、そうして一頻り笑って笑い尽すと息を吹き返したように深く吸い込み、次いでゆっくりと吐きだしながら改めてこちらへ向き直るその面相にそんな兆しは認められないが、なかったはずだが、それでも予感はあった、小刻みな震えのうちに胚胎していた、いやもっと前、気配に耳を傾けたそのときからすでにして機を窺っていたのではないか、とそう言ってよく、その予感を過たず読み取って僅かに右左と振れながら前へ倒れ掛かるそれは反動だろう、倒れ切る前に持ち直してそのまま上へ伸び上がり、少しく翻る裾の下から膝がひかがみが狂おしく跳ねながら何度も何度でも、それとも笑い収めることもなく笑みを漏らしながらだろうか、例えば四囲に満ちた不穏さを中和するというか祓うというかするように、そうして踏み抜くのではないかというほど勢いよく踏みつけながら、ほら、と膝をひかがみを脹ら脛を臑を、ほら、と尚も誘い掛けながら軋ませながら、それはいつのことか、もとより問うまでもないが、それでもいつのことかと問うのは、問わざるを得ないのは、問うことで辛うじて露わになり見えるようになるからだろう、薄いヴェールの向こうに見え隠れするそれが、とはいえほんの一瞬のことですでに跡形もなく、それがそれであったことを窺わせるものは何ひとつ、というのは白さが、さっきまでは辛うじて残っていた当の白さが、代わって前面に押しだされて膜というかヴェールというか薄く覆いを掛けるように、というのは黒さが、尤も黒といってもそれほど黒いわけではなく、どちらかというと青に近いだろうか、黒っぽい深みのある青、湿っぽくひんやりした冷気が降りてくるような、青黒い塊となって四囲に満ち渡るような、いずにせよ白さが黒さに、その分壁が迫っていくらか狭くなる、もちろん狭くはならないが、なるわけがないが、それでも狭くなってゆき、そうして手の届く範囲に悉く収まってこぢんまりした佇まいに、それとともに響きも遠退いて影が濃く、誰もいない、誰ひとりいない、ここには、少なくとも今ここには、それなのにずっとそこにいたような素振りで腰の辺りかそれより少し向こう、人の形をした影か、それとも影の形をした人か、疲れているようにも見えるが寛いでいるようにも見える、あるいはそうしたものを超えて束の間狂躁に振れる殺気立つような、笑いながら人を殺めるような、今殺めてきたとでもいうような、そんな気配を滲ませながら、それでも全体としては穏やかな寛ぎの内にあるらしく、憂いを湛えた笑みさえ浮かべてそこに、息を切らしているのか、僅かに肩が上下しているがすぐに収まって、素知らぬ顔で笑みを、というかその余韻を、そうして左のほうへ、こちらからは右になるが、ほんの僅か傾けるとそれを合図に寄せるというか流れるというか、間(あいだ)を吹き抜けながら匂いをこちらのほうへ、押し留められていた分を取り戻そうとするかのように濃密な、花のような草のような青臭さでそれは鼻腔に留まって何某か喚起するらしく、明滅する光のなかに茫と浮かび上がる姿として凝結し掛かるのを捉えようと凝らすとゆっくりとそれはこちらのほうへ、それにつれ少しく身を乗りだしながら差し伸ばすとさらにこちらのほうへ。
ところがそれが現前するよりも前に、たしかな手応えとともにその形なり色なりが定着するよりも前に、その先を越して当の匂いを搔き消すように、見てほら、とこちらのほうへ傾げると像が重なってどちらがどちらなのだか、ちょうど流れのなかへ入る恰好になるのか、少しく踊ってほつれながら幾筋か頬の辺りを行ったり来たり、ほら、と語を継ぎながらさして気に留めるふうもなくしばらく戦ぐままにしているが、どこから現れたのだか徐ろに伸ばされた手が幾度か空を切ってほつれているのを捉えると鬢のほうへ持ってゆき、押えるというか添えるというか触れるか触れないかのところを横に流すように二度三度、何度も見たことのある、それでいて一度きりの、なぜといって同じ軌跡を辿ることは二度とないだろうからで、尤もまったく同一の軌跡を辿ったとしてもそうと分かるはずもないが、そんなあり触れた唯一無二の仕草はもう、あるいはまだ、とにかくそうした仕草のうちに胚胎しているのだろう、また踊りだすのかと危ぶむのを弄ぶように尚もゆらゆらと揺れながら、ほら、と翻し、ほら、と押さえつけ、ほら、と漂わせ、そのたびに縦に長く幾本もの皺が刻まれて胸の辺りから腰へ掛けて蠢きながら伝い流れ、微かにその向こうが透けて見えるのを、その姿に艶めくものを、そこから艶めくものが滲み出ているのを、滴っているのを、溜まりを作っているのを、足先に触れるそれは生温かくぬめりを帯びて影のように黒く青く、脚が重いのか纏わりつくそれが重いのか俄には判然としないが泥濘んだそれのほうへ向かい掛けるとその分だけ薄れるというか霞むというか今にも消え入りそうになって、そのまま青黒い溜まりのなかへ沈むと見えて黒さが青さが艶めきを覆い隠してしまうのを、青黒い溜まりの青黒さに呑まれるというか染まるというか、全部がそれ一色になってしまうのを、もちろんそこにも幾段階かの差異を認めることができないわけではないが、さらには無限の階調をさえ見出すことが可能だろうが、原理的にはそうかもしれないとしても実際的にはそうはいかないのであって、凝らしても眇めてもただ一色をしか、同じような青黒さをしか認められないのであり、無限の階調とまでは言わないがほんの僅かでもそこにある、あるだろう明暗なり濃淡なりを捉えようとさらに凝らすというか眇めるというかしてようやく見えてくる体のものだろう、尤もそうしたことに拘泥しているのではないがいくらか気を取られていたのだろう、ほら、と尚も言い募って指差し示すのに気づかず、ほら、と重ねて顎で促されてようやく示されたほうへ向き直ると湿った土の噎せるような匂いが掠めて、土などありはしないのに、それでも匂いが掠める以上そこにそれはあるのであり、というかここに、それがそれとして、例えば冷房の効きすぎた屋内から生温い塊のなかへ投げ込まれたような気怠さに辟易しながら、それでも少しく陰になっているからだろういくらか涼しい根方に並んでしゃがみ込んで、ほら、と屈曲した脚の踝から脹ら脛に掛けてのひしゃげた膨らみを何とはなしに眺めながら指し示す当のものへは一顧だにしていないのを、ほら、と再三促されてようやくそちらを眺めやるとそこには干涸らびて動くことのない骸というか抜け殻というか、小さな、ほんの小さな、掌に乗るくらい小さな、カサカサと乾いた音を奏でるものが裏返しになっているらしく、なぜといって幾本もの細い棒というか針というか、鉤状の、先のほうで二股に分かれているのが内側へ丸まりながら角みたいに突き出ているからで、いくつもの枡に仕切られた複雑な形状を晒して粉を吹いたように白っぽいそれは風もないのにカサカサと音を立てているような気がして仕方なく、いや風は吹いていて、いつでもそれは吹き寄せ吹き抜けてゆくのだから、右から左へ、そうして鬢の毛をほつれさせ靡かせながらあることないこと吹き込むのだから、というのは太腿と脹ら脛の間に挟み込まれた布地が襞を寄せなが踝の辺りまで垂れ下がっているのを、身動ぎするたびにそれが艶かしく蠢くのを、干涸らびたそれよりも艶やかなそれのほうに釘づけられてしまうのを、そんなありもしない光景をだが、もちろん見てしまったからには最早ないとは言えないし、つまりそれはあり得ただろうことで、あり得ただろうことはあり得たに違いなく、そうとすればたしかにそれはあったと言ってよく、搔き混ぜると底のほうから浮かび上がってくる澱のように、沈殿というか堆積というか、積もり積もった積年の汚穢としてあるそれがそこに、というかここに、見たいような見たくないようなそれを前にしてちょっとためらい、といって閉じても開いてもそこにあってこちらを刺戟して已まないそれはカサカサと奏でつづけるのだから見たかろうと見たくなかろうとカサカサと奏でるのを聞くよりほかになく、それはそうと溜まりのなかへ差し入れて掬い上げ、碗状に窪ませたところに収まっているそれを浴びせ掛けるというかそこへ軽く浸すというか、そんなふうにして落とすのだが毎日のことでほとんど意識することなく行っているからだろう、その手順を改めて辿ろうとするとすっかりヴェールに包まれていて何が何やら、それでも何度か辿り返すうちには何某か、ただ上っ面をなぞっているにすぎないにせよ一連なりの道筋めくものが、雫を滴らせながら、滴るに任せながらその上を、そしたら淀んでいたのが流れだすのだろう、少しずつ明晰になってぼやけていたのがくっきりと、それこそ細部に至るまで見えてくると言ったら言いすぎか、そんなわけで艶かしく蠢くのを食い入るように見つめる眼差しは襞の向こう、押し潰された膨らみのさらに奥へと突き進んでそこに隠されてあるものを全部、微かな震えとともに全部、暴くというか晒すというか、そこから滴り流れる一筋を辿ってさらにその奥へ、近いようで遠いその道のりを、往路でもあり復路でもあるその道のりを行くというか帰るというかするのだが、進んでも進んでも近づかないというか近づけないというか、隔たりが、それはもう遥かな隔たりが、どれほど近づいても、それこそ隙間なく密着していてもその間には底深い淵が拡がっているらしく、だから何が一跨ぎなのだか、その遥かな隔たりを見定めようとすればするほど当の隔たりはいっそう拡がってゆくと見え、風が吹くたびに煽られのめりながら目が眩むほどの高さというか深さというか、とても越えられそうにないそれが黒く濡れて光っているのを、煌めきながら滴らせているのを、どこをどう辿ってゆけばそこへ至るのだか、もちろんそんなことは問題ではなく、なぜといって一跨ぎなのだから、つまり最終的にそこへ至るのであればどこをどう経由しようと構わないわけで、一跨ぎなのだから、軽やかに飛び越えてしまうのだから。