それはそうといつまで経っても呼ばれない、掛かるはずの声が掛からない、いや声はするがべつの誰かを呼ぶのだろう、耳馴れない名が飛び交うばかりで、それとも聞き逃したのだろうか、耳馴れた名も馴れない場に置かれるとそれだけでべつの名と言っていいほどに変質して耳馴れない名のように響くということか、あるいはそうかもしれないが、それとも耳馴れない声のせいだろうか、鼻に掛かったような甘たるい、それでいて冷やかでもある、媚びているのか突き放しているのかよく分からない響きのせいで既存の意味が剝ぎ取られるかべつの意味が付与されるかするのだろうか、同じく待機を命じられているのだろう、生気のない眼差しをどこか一点に据えたまま動かない影がいくつかあり、それが次々呼ばれて立ち去ってゆくのにこちらは一向に、そうして影がひとつ動くたびに空気が揺らいで少しく風が立ち、施設特有の薬品臭さとともに病み疲れた身体から滲み出る類いの温気がゆっくりと拡がりながらもう幾日も、そうかといって席を離れている間に呼ばれるかもしれないから立つに立てず、居心地の悪さに耐えながら盗み見るというか垣間見るというか、控えめな眺めやりで眺めやるそこは、というかここは、白を基調とした明るい配色に統一されて一点の曇りもないと見え、それなのにどことなく翳りを帯びているのは隅々まで光が及ばないからだろう、もちろん風も隅々まで及ばないから隅のほうほど澱みくすんでいるに違いなく、そうして翳りのほうへ澱みのほうへ腰掛けながら横たわりながら少しずつ、流れ出るというか漏れだすというか、塗れるというか染まるというかそこから、というかここから見ているのだが白さがいっそう際立って眩しいくらいで、細めると細めたその分だけは弱まるものの風が弱まることはないからだろう、吹き寄せ吹き抜けてゆくそのたびに白く膨らませるのであり、膨らませ波打たせるのであり、つまり波打ち翻るのだが、翻り煌めくのだが、そうして匂やかに通り抜けてゆくのだが、通り抜けながら撫でてゆくのだが、それでいて撫でられたのか撫でられていないのかたしかなことは分からないし、麻痺したように垂れ下がる手の指先から汗というか雫というか滴る液体が床に溜まりを作って一秒に一滴か二秒に一滴かのペースながら途切れることなく滴りつづけているし、それの刻む音だろうか微かに反響するのを聞くというか聞かされるというか、それは鼓膜を震わせつづけるから常に響いていて、それでも常に聞こえているわけではなく、聞こえたり聞こえなかったりするのは回路が遮断されるからだろう、遮断した覚えはないのに勝手に為されるというか為されてしまうのであり、意志とは関係なく、とにかく何もかもを沈めてしまうというか沈めてしまったというか、その底にありながら尚風が吹き抜けるこちらからあちらへ、腐った水の臭いを微かに滲ませながらこちらからあちらへ、右から左へ窓から窓へあるいは窓から扉へ、まあどちらでも同じことだが、いや決して同じではないがさしあたり同じと見做して差し支えないから同じと言ってしまうが、そこに影が、ひとつだけ影が、帰るタイミングを逸してか、今にも消え入りそうな灯(ともしび)めく儚さで揺らいでいると見え、揺らぎながらも尚留まる様子らしく薄らかに風に靡きながらひっそりとそこに、声も立てず大人しやかに、右のほう、歪んだ菱形というか台形というか、枠取られたそこから寄せる風に膨らみ翻り煌めく様を、その微かな調べに耳傾けているといった面持ちで、尤も影に面持ちなどないが、それでも細め凝らしてゆくうちに密度が増すというか霧が晴れるというか影が影の装いを逸してゆき、つまり影が影ではなくなるということで、要するにフラットな像に凹凸が生じて奥行きが出てくるとともに細部の造作も露わになって、そうして面窶れした姿が浮かび上がってくるにつれ何してんのほら、と艶やかな声が微かに反響しながら狭い空間に余韻を残し、曖昧に頷きながらそちらのほうへ少しく身を乗りだすと衣擦れに紛れて途切れ途切れに二度、さらにもう一度、金属めく軋みが微かに響いて、響きそれ自体はすぐに搔き消えて跡形もないが、それなのに間に挟まっているようないつまでも居坐って響きつづけているような、ほら、と促す声にそれは取り憑いてそれと同化しひとつになり、ほら、が金属的な響きを伴ってこちらのほうへ、無機質なその呼び声とともにそれはこちらのほうへ、そのせいか妙に切迫した焦りめく気配が滲んで波立ち揺らぎ、徐々にそれが波及してゆくにつれそれまでの静けさが一転して四囲を圧するほどの、騒ぐような、不穏さに包まれて、穏やかな流れが濁流となって押し寄せるのを、すぐそこまでそれは迫っていると思しく、いやまだしばらくは猶予が、と押さえ込み押し返して静けさを取り戻し、仄白く翻らせ膨らませて滞りなく流れを、そうして開いたり閉じたりしながら手繰り寄せて端のほうを抓むと四隅を揃えるように整えるが、その際内に籠っていたのが拡がるらしく温気とともに饐えたような臭いが鼻先を掠め、少しく背けながらある程度逃がすと再度四隅を揃えるように整えて、もちろん少しくらい乱れていてもどうということはないし抑も乱れることはほとんどなく、それでもかかる所作によって切り替えるというか切り替わるというか、べつの時間と言ってもいい、流れだすのであり、だからそれなりに必要な儀式なのであって、儀式というほど大仰なものではないにせよ、とにかくそうすることで差し伸べる手が差し伸べられる手を、差し伸ばす手に差し伸ばされる手が、触れているのかいないのか、もちろん触れているたしかに触れているのだが、どうにも不確かというか、触れるということの意味それ自体が霞んでいるからだろうか、それとももう長いこと触れていないからなのかどんな感触だったのかさえ失念しているらしく、硬いのか柔らかいのか大きいのか小さいのか、それでも尚触れることに固執するのは退屈だからか、たしかに退屈には違いないがもっとほかにすることがあるのであって、それを差し措いて何を今さら、と嘯いてみても蟠りがほぐれることはないというか、少なくともあちらからこちらへ視線を移動させるようにはいかないらしく、尤もあちらからこちらへ視線を移動させるのだって相応の努力と決意と忍耐とその他諸々を要するのだが、なぜといって見ないでもいいものを、見たくもないものを、見てしまうことになるのだから、とにかく触れることで何某か変化が生じるだろうことを、前進というか進展というか、何であれ変化を求めているのだろう、飢えていると言ってもいい、だから差し伸ばす手も差し伸ばされる手も貪欲に求め合うことになるのか、相手を飲み込もうと迫る勢いで。
ところでそれはどこから射し込んでくるのだか、さしあたり視野のどこか端のほうからと言っていいが、そちらを眺めやってもやはりそれは端のほうから射し込んでくる、さらにそちらへ向けても同じことで常に端のほうから射してくるのであり、当のそれを真正面から捉えることはだからついに叶わないが、横からにせよ斜めからにせよ知らず知らず目に留めているうちにある種の刷り込み効果だろうか、よく見知ったもののような馴染みのもののような、そんな気がしてくるらしく、さらに重さはなく、軽さの印象もないのだが、腕や脚や腹や胸にも絡みつき纏わりついてちょっとやそっとのことでは離れない離れそうにない、とそんな気もしてくるのを、そのうちひとつに結び合わされて自他の区別というか自他の境界というか、それさえ危うくなるというのではないにせよ食い込むというか浸蝕するというか、外が内へと反転するのだろうか、そうとすればそれは内なのだが、それでもやはり外であり、それなのに内でもあって何が何やら、まあいつものことで、いつものことだからと気にも留めないが、その割に常に片隅にあって折に触れ顔を覗かせてはこちらのほうへ、だからそれなりに気に掛かってはいるらしく、一旦意識に上ったそれを遠ざけることは難しいのだろう、何か強い刺戟を受けるのでないかぎり、尤も強張った背が何かに当たっている感触がちょっと前からあり、いや常にそれはあるのだが、あるに違いないが、意識によって常に意識されているわけではないから意識されるまでは意識できないらしく、つまり何かの拍子に上るというか捉えられるというかしてはじめて意識できるようになるわけで、これも変化の内なのだろうがその程度の刺戟では斥けることができないらしく、もっと強烈な、それこそ天地を揺るがすほどの巨大な、未曾有の天変地異とも言うべきものが、とはいえそんな物騒なことは考えたくもないが、だから考えないが、考えないようにしているが、向こうからやって来るのを押し留めることはできないらしく、というのはまたひとつ影が、滲み出るというか映しだされるというか、揺らぎながら穴を空隙を埋めようとこちらのほうへ、音もなく忍び寄るそれはさっきと同じものなのか違うもなのか、同じと言えば同じだし違うと言えば違うのだが十把一絡げにうっちゃっておけない何かが見え隠れしているようで、匂いだろうか、どこか覚えのある、それでいて捉えどころのない、掠めてゆくのを、とにかくそこにあってこちらを窺っていると思しいそれは顔と見え、もちろんそれ以外の何かである可能性も否定はできないにせよ、つまり長年の染みや汚れが模様となって光の加減で様々に変容して見えてくる可能性だが、というかそうした可能性のほうがよほど本当らしく思えもするが、それがそれであることは、顔が顔であることは疑い得ず、なぜといって目があり鼻があり口がありその周囲には額や頬や顎が拡がってその際(きわ)というか枠というかの内に綺麗に収まっていて決してその外へ食みだすことがないからで、それでもいくらか影の様相が残っているのか、どんな面相なのか俄には判じがたいそれはゆっくりと近づきながら絶えず変化しているらしく、というのは翳ったり明るんだり盛り上がったり窪んだりだが、その変化を捉えようと凝らしてみても少しく隔たっているからだろううまく捉えられず、もっと近づけば捉えられると待つうちに徐々に鮮明に、明るいところはより明るく暗いところはより暗く、いっそう顔らしさが露わになって、刻々と移りゆく様を具に捉えることもできるようになると殊更意識しなくても向こうから勝手に流れ込んでくるように、そうして程よく開きながら適度に通過させ、通過させながら震わせて、その振動が音となるつまり声となる、さらには高低や強弱を伴いながら様々に組み合わされて何某か意味を、意味のある語を、語の連なりを、齎すというか降らすというか下すというか、一挙に溢れてくる、それはもう受け止めきれないほど厖大な束というか嵩というか、とても処理しきれないからそのほとんどは吟味されることなく右から左へあるいは左から右へ受け流されて、ほんの僅か手元に残った残り滓を嘗め取るくらいがせいぜい、それで何が分かるかというとほとんど何も分からない、分かるわけがない、分からないのに答えている、不思議とそれで成立しているらしく、いや成立しているというよりはただ流れてゆくだけで、つまり流れてゆくから波風も立たないということか、殊更流れに逆らい棹差して波風を立てるのも本意ではないからそれはそれで構わないが釈然としないのもたしかで、見交わすだけで互いに通じてしまうある意味理想的とも言える関係に似ていなくもないが、それとは似て非なるものだろう、通じているようで何ひとつ通じてはいないのだから。