面々連れ立って戻ってくる八木に気づいて紀子は書類束から顔を上げるが自分の期待が彼らのプレッシャーになることを怖れて努めて事務的に「お帰りなさい」と一旦向けた視線を再度書類束に戻して言えば、それに答える「ただいま戻りました」に続いて気の抜けた声を上げて「あれえ駒井君」と呼びつけて人手が足りぬからといって「何も藤崎さんにまでやらせるこたないだろ」と八木に叱られるが、常ならきちんと説明するところを反論もせずしおらしくしている駒井を見兼ねて「あの違うんです」とすぐ間に割って入った紀子の説明で事情を把握すると「まそういうことでしたら」仕方ないと渋々だが八木は承諾するが何かを暗示するかに鋭い一瞥を呉れつつ「頼むよ駒井君」と言い、その何か含むところのある物言いに「それは分かってますから」と駒井は答え、二人のその遣りとりに自分の知らぬところで何らか計画されているらしいことを紀子は確かに知るがはぐらかされるに違いないから敢えて訊くこともなく、それより捜索の進み行きはどうなっているのかと問えば、特に動きもないし収穫もないとの報告に接してなかばそれを予期してはいたものの落胆し、「ま、そうすぐってわけにゃ」いかぬと言う八木に組織力はこっちのほうがあるしいずれ尻尾を掴むから心配することもなく、焦っても仕方ないから「気長に待ちましょう」と慰められ、それがしかし当てにならぬから不安なのだし極秘の計画のあるらしいことでさらにも疑念が増したとも言えず、これから夜間の捜索に備えて仮眠をとるという彼らの尽力もしかし分からぬではないから曖昧に胡麻化して逃げるように帰り仕度をはじめ、送るという八木の申し出を固く辞して紀子は帰途についたのだが、馴れぬ事務仕事のせいか昨日にも増した疲労で頸椎から肩に掛けてそれが集中したように現れて寝違えでもしたように首が廻らず、かなりの時間揉み解しもしたのだが大した効果もなく、疲労も凝りも癒せぬまま紀子は座卓とベッドの間の定位置について瞑想でもするかに半透明の恵美の霊を経由にしてか神棚を経由にしてか自身分からぬながら一日も早い帰還を願うその思念を知恵美へと送り続けるのだった。どこからも誰からも紀子のその思念に答えてくれる者はしかしなく、そう思うと虚しさを感じてまたネガティブに落ち込みそうなのをこれではいかんと不意に思い立ってスケッチブックとパステルを紀子は足繰り寄せ、正面に半透明の恵美の霊を坐らせポーズも指定して鞭打ちのギプスでも嵌めたように廻らぬ首で幾度かスケッチを試みるも知恵美の淡い光がないからか巧いこと描けず、薄ぼやけた模様みたいな掴み処のないものばかりで、幾枚もの反故を前に紀子はなかば自棄糞でさらにも描き殴るが一枚としてものになるスケッチはできず、知恵美の淡い光がなければどうにもならぬことを思い知らされて紀子は已むなくパステルを置き、丁度神棚の真下の位置に当たる整理ダンスの最上段左の引出しにスケッチブックぐるみ封印してしまったのも、何をしても知恵美の不在へと還流してしまうと気づいたからで、いくらかでも快方に向かっているかと思えば全然そうではなく、振り子みたいに二極を行きつ戻りつしているような極端に不安定な状態だということを紀子は改めて知り、よほど慎重を期さねば二極分化を来す怖れもないとはいえないと自我の崩壊が絵空事としてではなく地続きの現実として想像され、それもすぐそこの角曲がったところくらいの異様な近さで感じられたから急に怖くなり、端的に半透明の恵美の霊の出現がその分離の最初の徴候だったのかもしれないと紀子は思い、そうとすれば自分以外のものにも視認されたことが説明できないが霊的存在自体が客観的証明とは無縁なのだからどうとも解釈は可能で、そう思うとさらにも恐怖は増してそっちに眼を向けることさえできなくなり、凍結するかに急速に強張っていく筋肉を紀子は意識しつつそれが濃厚に感じる気配によるものか単に疲労と凝りによるものか自身判別も困難で、こうやって人は狂っていくのだろうかと僅かに思いながらもどうにか回避できないかと懸命に思惟を巡らせる。如何なる打開策もしかし見出すことはできず、ダンテみたいに再上昇は見込めぬかもしれないが落ちるとこまで落ちるより他ないのかと居直るというのではないが紀子はそう思い、絶望による諦念ともしかしいくらか違って一切の無駄な抵抗を一旦やめて虚心に流れていけばいずれ次なるステージへとそれが如何なるものかは分からぬながら行き着くだろうから抵抗しつつ闇深い暗渠にいつまでもとどまっているよりはマシとの判断で、見てやれと両眼見開いて凝視すれば「えっ何? どうしたの怖いよその眼」と半透明の恵美の霊は怯んで身を退き、それでいくらか勢いづいて訊いてやれと脳天気さの欠片もないドスの利いた低音で「恵美ってあたしなの?」と詰め寄れば「何? わけ分かんないよそれ」と逃げ腰で、その怖がりように生前の恵美を見るような気がして勝敗は分からぬながら怖さは急激に冷めていったから「冗談冗談」と紀子は宥め、知恵美のいない今紀子だけが「頼りなんだから」と泣きベソ掻く半透明の恵美の霊の駄々捏ねるような物言いに恵美以外の何ものでもないものを紀子は見てただ自己の不安やら怖れやら疑念やらをぶつけていただけだと気づき、抑も知恵美の灼かな霊験が顕現せしめたのだからそれを疑うことは知恵美への裏切りに他ならず、分身というなら紀子のではなく知恵美のそれは分身と解すべきで、正座し額づいてどうかしていた「ゴメン」とそのあまりにも粗忽な振る舞いを紀子が詫びると恐縮したように「別にそこまでしなくったって」と半透明の恵美の霊は言い、そのような感情の起伏の激しさ自体が紀子らしくないと言うのも尤もだがこうでもせねば納まらぬと紀子は自身気が済むまで詫び続けるのだった。
あらゆる面で均衡が崩れてしまってどこをどう修正すればいいのかさえ分からない状態だから敢えて何もせぬことを紀子は選択したのだが、一切を放棄したということではなく、何気ない視線の移動で知恵美のいない神棚を捉えるたびその不在を突きつけられるようで心苦しく、何か魂ごと揺さぶられるような感覚で真面にそれと向き合えず、といって眼の届かぬ押入れの奥に仕舞ってしまうこともできぬからそれに馴れることだけは最低限しておかねばならず、神棚に馴れることをとりあえずの課題として早速実践を開始し、座卓所定の位置に横座りになって気息を整えつつ俯けていた顔を徐々に上げ、チラと見てはすぐ眼を逸らし、またチラと見ては逸らしというようなタッチ&アウェイを幾度かくり返し、馴れるより先にしかし眼がやられて大聖みたいにこめかみ引き絞られるような痛みを感じたため訓練は中止を余儀なくされ、キッチンに非難するとともにタオルを濡らして患部全体を覆うように当てて冷やしつつ様子を見るが「無理しないほうが」いいとの半透明の恵美の霊の忠告を容れてそれで終了とし、それでも毎日外出時と帰宅時に今も変わらずその習慣を守る半透明の恵美の霊に倣ってその帰還を祈念する意味で柏手打って拝むことだけは何とか成し遂げたのだった。落ちているのは確実に分かるがどの辺なのかもう底は近いのかそれともまだまだずっと深くまで落ちねばならぬのかと「お休み」と床についたあとも紀子は思いを巡らせるが、周囲の闇が浸食するかに底などないのかもしれない無限に落ち行くだけなのかもしれないとの疑念が湧いてきて、その判断を誤ったかといつまでも迷いを吹っ切れぬから昨日とは反対に全然眠れず、明け方近くに浅い眠りに落ちるが不快な夢にすぐ目醒めさせられ、その詳細は記憶に残らないが不快感だけは長く尾を引いて紀子を悩ませるからそれからの二週間は実に長く、目醒めてから眠りに就くまでが延々引き延ばされるかに果てしなく感じ、一向に進展しない捜索の進み行きとも相俟って遂に気が触れたかと自身疑うほどそれは尋常ではない時間感覚で、傍目にもそれは異常性として映るらしく食事と睡眠だけはきちんと摂ることを徳雄先生に指摘され、メイクの乗りの悪いことやらその疲労を隠すような厚塗りやらを駒井に指摘され、とはいえそれを改善させるには知恵美の帰還が果たされることより他ないのだから紀子にはどうすることもできないのだった。
知恵美が拉されて二週間が経過するがその消息の知れぬまま沖らが動きだす様子はまるでなく、このままその計画が実行されぬのならそれにこしたことはないと楽観はできないながらもそのこと自体に皆いくらか安堵しているのは確かで、計画の呆気なく頓挫してしまったことを祈る他ないとはいえ動向の分からぬのはより深く潜伏しているためで頓挫どころか今も着実に進行しているのかもしれず、端的に資金繰りに困じているだけなのかもしれぬし決行の時機を窺っているのかもしれず、教団への攻撃が見られぬことに対する安堵からか徐々に弛緩したように何もないということは「案外実行に及ぶ前に呆気なく失敗したってことも」考えられなくはないし「いざ実行する段になってその不可能を知ったとかいうことも」あり得ると短絡してしまう八木には呆れる他なく、そのまま済し崩しに捜索が打ち切られることにでもなれば知恵美を放棄することにもそれはなり兼ねぬからその弛緩したような雰囲気に紀子は却って焦燥を駆られ、捜索隊の再編増員の件はどうなっているのかと八木に問えば駒井にそれは頼んであるから直接訊いてくれとのことで、駒井に訊くと「なかなか時間がなくて」人選もままならぬ状況だと言い、駒井の最近の執務の多忙を紀子は実見してもいるからあまり強くも非難できぬが、言わねば気が済まないから本気で知恵美の奪還を望んでいるのかとその最たる疑念をぶつけると「さあどうかしら、私にもそれはちょっと」と濁し、その疲労を演出するかにこめかみから垂れる解れ髪を掻き上げる仕草をしつつそれでも皆最善を尽しているのだから余計な詮索は控えたほうがいいとの忠告を受け、急に額をつけぬばかりに顔近づけると「紀子さんの立場、今微妙なんです」と言ってメシア=天皇の拉致について紀子の狂言説が浮上していることを駒井は打ち明け、そのどこか漫画みたいな展開に思わず吹きそうになるが笑って済むほどの些末な問題じゃないと思うと何だか妙に腹が立ってきて「何で私が」と駒井にぶつけるのは筋違いと分かっていながら声を荒げて詰め寄れば、その勢いに圧されていくらか困惑げだが話した以上はきちんと説明せねばとの気負いも同時に感じられる眼光で駒井は紀子を真っ直ぐに見つめるとまず感情的になっていては話せぬからと言って窘め、ソファに紀子を坐らせるとその気息の整ったのを見計らって駒井は説明をはじめ、端的にそれは捜索の停滞が齎した帰結なのだと言う。紀子が騒ぎ立てれば騒ぎ立てるほどだから疑いが向けられ兼ねぬと駒井は言うが、沖本人が攫ったと証言しているのになぜ自分が疑われねばならないのかそれが分からず、「駒井さんも聞いてたじゃないですか?」と不平がましく紀子が言えば「それは私もそう思いますけど」とその狂言説を支持していない旨告げるが、それを覆すことが難しいのも事実で「困ってるんです実際」と駒井は軽く額を押さえ、敢えてそれを確かめぬことからもその言葉は信憑できると紀子は思いながらその狂言説の出てきた経緯の説明を乞えば二日前の夜間のミーティングでの話だと駒井は言い、駒井もそれに参加してというのではないがすぐ傍で事務をしているし声を潜めてというのでもないから駒井にそれは筒抜けで、それでも常なら自分の仕事に集中しているから耳にはしても記憶にまで残ることは稀なのだが、捜索の低迷に面々の鬱屈が日増しに募っていくのを眼にしてもいるから気に掛けていたということもあるし内容が内容だけについ耳そばだてたのだとそれには忸怩たるものがあるらしく告解めいた逡巡を微妙に定まらぬ視線に僅かに示しつつ若干恐縮気味に駒井は語るのだった。