時間の経過とともに昂じる車内の緊張がそろそろピークに達するころ「着きました」との駒井の声が遠くに聞こえ、眠りから醒めたばかりのような虚ろな視線を外に向ければそこは地下駐車場で、温気の籠った車から降りるといくらか解放された気分になるもののすぐまた別のより切迫した緊張に紀子は襲われ、それよりも緊張の露わな半透明の恵美の霊を見るに及んでさらにも緊張は昂じ、鳥肌立つほどではないにしろ車内と車外の温度差のせいでいくらか肌寒く感じる地下駐車場にそれは原因しているらしく、打ちっ放しのコンクリート壁とかダクトや配管剥きだしの天井とかにもその一端はあるようで、時間がないと急き立てる駒井に救われるような形でそこを出て二〇分遅れという慌ただしさに紛らすように地階の控室に向かうが一服する余裕もなくすぐそこを出て第三会議室だと導く駒井のあとに続き、先頭の駒井のすぐ後ろを行く日下の疲れたような中年のいくらか右下がりに湾曲した背中を眺めながら半透明の恵美の霊と並んで紀子はゆっくりと歩き、次第に距離を離されていくのを気にもせず自分のペースを守るが、恵美がシマリスと評した常に浮き足立っているような平素の日下らしからぬ妙に落ち着き払った歩きように身振りとしての教祖らしさというに過ぎぬかもしれないが僅かに威厳のようなものさえ感じられ、追い詰められて開き直っただけなのかもしれないがその日下の背中に紀子は鼓舞されて負の緊張がいくらか正の緊張へと変じたように思え、小走りに日下のあとに追いつくとそのすぐ後ろを日下の歩調に合わせるように歩き、横に並んで歩く半透明の恵美の霊にふと視線を向ければ字義通り消え入りそうに落ち着かなげで、知恵美の不在が不確かだが疑いようのないこの半透明の恵美の霊の存在を消し去ってしまうようなことはないだろうかとふと紀子は疑念を懐くが、いやそんなはずはないと否定して動揺を鎮めようとし、その疑念を完全には払拭できぬうち眼の前に会場に当てられた第三会議室の扉が迫っているのに気づいて焦るが、駒井も日下もすでにその向こうに消えているため逡巡する間もなく紀子は半透明の恵美の霊とともに中に入る。前面に設けられた主催者側の席まで数メートルほどだがそこに至り着くまで紀子は信者らのほうに眼を向けられず、席について信者らと相対してもまだ俯き加減で視線も眼前の机とその向こうに覗ける床の辺りを彷徨い、気息を整えて心内でよしと気合いを入れてからようやく面を上げて見廻せば、町内会の寄り合いめいた常のセミナーの雰囲気に変わりなく、入り口近くの中列辺りに津田延子を見つけ、胸の前で小さく手を振っているのに軽く会釈を返し、そのさらに後ろのほうに吉田時子を見るに及んでいくらか紀子は常態に戻ったようで段取りを確認しておこうと渡されたプログラムやら資料やらを開こうと伸ばした手の動きが不意に止まったのは見知った顔がすぐ前にあるのに気づいたからで、その最前列中央に陣取っているのが知恵美を拉した吉岡だということに紀子は驚くというよりなぜここにいるのかとの不審が先に立ち、逃走することもしかしなくのこのこ出てきたということは知恵美も一緒なのか悔悛して連れてきてくれたのかあるいは総て冗談だったのかこっちの思い過ごしだったのかと紀子は楽観するがそうではないとすぐに否定したのはその隣に沖がいたからで、偶然隣り合わせたとは思えないから吉岡と連れ立ってきたに違いなく、沖が知恵美拉致の主謀者との推測も概ねこれで証されたと日下は思うもののその主謀者がここにいることが理解できず、知恵美の不在を暴露するつもりとすれば厄介だがそれでは拉したのが自分らだということをも明かす結果となり兼ねぬし、知恵美=メシア=天皇を楯に何か理不尽な要求でも突きつけるつもりとすれば教祖の座をおいて他になく、最悪呉れてやっても良いと覚悟しつついやそうも行かぬと思い、向こうが動かぬ限りこっちも動かぬほうがいいと妥当に判断して予定通りセミナーを開始することを示唆するとともに八木ら捜索隊にこの旨告げるよう駒井に指示すると日下は二人を無視するように眼も向けぬが、教祖らしからぬ落ち着きのなさで虚ろに視線を泳がせているのは意識が二人に取り憑いて離れないからで、いずれ話し合わねばならないから追い出すことはできないが今ここでというわけにはいかないし、そうかと言って別室で待機というわけにもいかず、いずれにしろそのような至上命令の行使は日下の認めがたいことで、しかし万が一ということもあると無理に頼んで開けてもらい、まず上がり込んだ功次が「いないのか?」と呼びつつ部屋を突っ切って閉め切られたカーテンを全開して外光を入れ、続く徳雄先生に「いませんね」と振り返りつつ見廻すが小綺麗に片づけられた六畳間の眼につくところに知恵美の所在を知らしめるものは何もないし知恵美もおらず、一応隈なく捜してはみるものの確かにいたという形跡さえ確認できず、昨夜あるいは今朝帰宅した様子はないかと訊ねるが「さあちょっとそこまでは」と不審げに大家は答え、尚問いたげな徳雄先生を押しとどめて「いやどうもお手数掛けまして」と詫びを言って車に戻ると「やっぱり沖んとこですかね」と言う徳雄先生に「どうですかね」と八木は車を出しながら「沖んとこも不発だと」思うと答え、沖宅へ向かう途中で八木の携帯が鳴って吉岡と沖が会場にいる旨駒井から連絡を受けたのだった。
総ては無駄足に終わるのかと思いつつ功次の発した「じゃメシア=天皇は?」の一言で知恵美捜索の糸口が綻び掛けるが、向こうも直接メシア=天皇を確認したわけではないようだからその所在はまだ不明だと八木は言って「奥さんいると思うから一応探りだけでも」ということでやはり沖宅へ向かうことになり、捜索の攪乱を意図してのことと考えられなくもないから惑わされぬようにと指揮官らしく振る舞うが、常からの威厳のなさが災いして効果はあまりなく、指揮の低迷に功次はさらにも徒労感を募らせて一切はすでに終わっているようにさえ思えてきて、それでも尚車を走らせていることが虚しく思えて仕方なく、渋滞を抜けて順調に走行しているにも拘らず徐々にその疾走感さえ喪失していくようで終いには走ってるのか止まってるのかも分からなくなり、いや分かってはいるのだが変な具合に別回路が開いてパラレルに動きだし、そのせいで不意に妙な空虚に囚われて最前の袋小路にまた落ち込んだように功次は思うがいくらか異なっていて、総ては恵美の呪詛に還元されると思う短絡が呪縛のはじまりと思えばそこから脱せねばならないが強固な病巣となってしまっているそれを取り除くことは困難を窮め、それでも他に抜け道も見出せぬからと功次は思惟をはじめる。まず最初に着手したのは知恵美の不在についてで、功次の思うにそれは誰が齎したものでもなく、つまり誰が拉したというのではなく知恵美が知恵美自身の意志でひとりどこかに去っていったというようなことは考えられないだろうか、そうとすれば恵美の呪詛の稀薄化ともそれは解釈可能なのだが今のところそれを保証し実証することは不可能に思えたからその線は立ち消え、むしろ呪詛の第二段階に突入したことをそれは意味するのかもしれず、つまり知恵美による包囲網が確立したことを意味するのかもしれないと確たることが何も分からぬから如何様にも解釈可能で、結局袋小路から脱することの不可能を知っただけで無駄な思惟をしたと功次は思い、そのように思惟さえ恵美の呪詛を強化することに手を貸していると思うと前より絶望は増し、退路は完全に断たれていると悲観するがこういうときこそ踏ん張らねばと正面に向き直って居並ぶ信者らを紀子は見据え、知恵美は今どこにいるのか無事なのかそれだけでも訊きたいが信者らを前に訊くことができないのがもどかしく、こっちの視線を避けるように眼を逸らし俯く吉岡が憎らしい。