知恵美は本当に無事なのかとの何度目かのしかし切実な問いを内心の切実さを紛らすふうに頭の中でメジャーコードを響かせつつ常の脳天気さには及ばぬながら声のトーンもいくらか上げてまた問えば「あの沖って人も言ってた」ように無事に決まってるし元より誰にも手出しなどできぬとその不可侵性を半透明の恵美の霊は豪語し、それを聞いて紀子はいくらか安堵するがそれ自体無根拠の思い込みと知りつつなぜ安堵するのかが不思議で、そこにこそ答えが隠されているとでもいうように擬態するかに周囲の景を透過している聖母めいたと形容したくなるその恵美の姿をいくらか際立つ輪郭を頼りに眺めながら思いを巡らせば、つまりはその言葉を聞きたいための問いだったのだと諒解して「そっか」と小さく呟くと「何?」と耳聡く聞きつけた半透明の恵美の霊が言い、何でもないと逃げれば余計気になるらしく「何なに?」と尚も訊くので「恵美は私の守護霊なんだなって」とそれ自体嘘ではないが問いとは直接関連せぬ別の答えを「力になってくれてるんだって思ってさ」と返すと「何たって恵美=マリア様だから」と道化たように半透明の恵美の霊は両腕を広げ、次いで閉じた腕を交叉させて胸の上に置くというお遊戯染みた身振りを見せて「ねっ」と微笑み掛け、照れ隠しの他愛ない小芝居にすぎないとそれを思いつついまいち紀子の反応が鈍いのは返答に窮してというのではなく、そんなことまでしてみせる恵美に感銘を受けたというより他ないからで、弱っているからそう感じるだけなのかもしれないがその判断を斥けて紀子はこの感銘を無批判で受け入れようとし、いやそうする前にすでに受け入れてしまっていたから事後承諾の形で認めたのだった。二人の関係が生前のそれとは大きく異なるとはいえ別な形での深い繋がりを作り得たように思え、恵美⇔知恵美の緊密な結びつきには及ばぬかもしれないが紀子にとっては飛躍的な前進といえ、客観的現存として如何に不確かなものだろうと意識の網膜への投影などというものではなく、聖性を帯びた恵美=マリア=皇太后としてではなく等身大の高槻恵美として確たる存在としての位置を占めていると紀子は思い、そのように手応えあるものとして受け止めると恵美との改めての再会のようにもそれは思え、その半透明という属性も何か事新しいもののように眺め入ってしまうが死からの復活とか甦りともしかし違うと紀子は思うから定義づけようとして巧いこと定義づけられず、それが人知を越えているなら人知で追究しても無益だと定義づけは諦めて半透明の恵美の霊は半透明の恵美の霊だと同語反復にも構わず紀子はそう思い、それで視線を脇に逸らしたつもりが視線はまだそこにとどまって注視し続け、それに気づいて見つめる紀子の視線を眩しげに見返しつつ「最近さ時どきそやってじいっと見るよね私のこと」と半透明の恵美の霊に言われて自身気づかぬうちに不確かな半透明を注視していたことを知り、「気になる?」と訊けば気になるというほどじゃないが「前はなかったからそうゆうのさ」どうしたのかと思ってと率直に言うが、紀子にもそれは分からぬから明確な答えを返すことはできず、二人の関係の変化が影響しているのだろうくらいにしか言えないから「ふうん」と半透明の恵美の霊も分かったような分からぬような曖昧な口振りなのだった。とにかく半透明の恵美の霊と新たなそしてより強固な結びつきを得たと紀子は自覚するに至り、その勢いを借って今自分は何をすべきかと改めて思いを巡らせるが為すべきことは何もなく、強いて言えば疲れを癒すことくらいかと入浴と睡眠のふたつを上げ、まず風呂に入ろうとバスタブに湯を浅く張り、肩まで浸かると心臓に負担が掛かるから良くないといつだか恵美から聞いて以来のそれは実践なのだが、湯面から両の乳房を覗かせてぬるい湯に長時間浸かって芯からアルコールを抜き取ると交々の澱を絞りだすように念入りに洗い、次いで洗髪し、都合二時間掛けて入浴を終えて出てくると端的に頬の紅潮に露わな活性した代赭にいくらか背押される形でさらなる賦活が昂進するようなのを紀子は知り、これに引き続いての睡眠が悪夢に見舞われるようなことにさえならねばさらにもそれは昂進されるに違いなく、まだ一〇時かそこらだったが何もすることもないし寝てしまえとベッドに横になると、ひどく疲労しているからすぐにも深い眠りに落ちて巧いこと悪夢にも出会すことなく翌朝を迎えるが、ベッドの縁に坐る恰好に起きあがった拍子に腹が鳴って常になく空腹を感じたことで昨夜夕食を摂らなかったことに紀子は気づき、濃縮果汁還元のグレープフルーツジュースをタンブラーで二杯続けざまに飲んでとりあえず胃を鎮めておいて覚醒を促すための洗顔に赴けば、それを半透明の恵美の霊かと疑うほど、いやむしろ半透明の恵美の霊のほうが生き生きして見えるほど鏡に映る自身の姿は生気なく、実際半透明ということを除けば恵美に死者的な翳りのようなものは一切ないから尚更で、改めて紀子は知恵美の不在を自己の欠落としてその存立に関わる必須部分の欠損として認識し直すのだった。
昨日の今日で何か新たな情報があるとも思えぬが今も尚知恵美派連中の家宅等の張り込みやら各所での聞き込みやらに奔走しているだろう捜索隊を思うと自分ひとり自宅でゆっくりしていることが何か罪悪のようにも思えたし何らか急展開がないとも限らぬから忙しげに仕度して本部事務所にひとり紀子は半透明の恵美の霊とともに行き、といって何をすることもなくただ何かを待つのみで半透明の恵美の霊と並んでソファに腰掛けて捜索の進展具合だの知恵美の安否だの今後の教団の進み行きだのを思いつくまま喋るだけだから不安はどうしたって募るばかりで、捜索の拠点も兼ねることから秘密の外部に漏れることを考慮して本部事務所に出入りの者を制限することになって取り止めとなった事務要員の欠員のために、とはいえそれを提案したのは当の駒井自身だが空調の効いている中霧で吹いたような汗粒を額にうっすら滲ませながら次の大セミナーの準備に忙しい駒井を他所にひとり茫としているのも気が退けるから「いんですよ紀子さんは」と断わるのを無理にも頼んで事務を手伝いながら半日を過ごし、駒井の入れた信者の誰それから頂いたという外国土産の紅茶とこれも別の信者から頂いた塩炒りのピスタチオで一息ついている折「お陰で助かりました、正直ひとりじゃ」手に負えないと礼を言われてこっちこそ何かしていたほうが気も紛れるしできれば明日からも手伝わせてほしい旨紀子が告げると、そういうことでしたら「こちらからもお願いします」と改まっての挨拶に紀子は戸惑い、手元が狂って殻を残してピスタチオの実を落としてしまう。テーブル下に屈み込んで右の爪先当たりに転げているピスタチオを紀子は拾いあげると一瞬ためらったのちふっと息を吹き掛けて口に入れ、左奥歯で噛み潰しながら時間を掛けて咀嚼するとゆっくりと飲み下し、そこで初めて駒井のほうに向き直ってピスタチオの風味を微かに鼻腔に感じつつ歯茎の隙間に残るその細片が舌に触るのをも意識しながら事務仕事は不得手だからあまり役には立たぬかもしれないがバイト同様厳しく言いつけてくれるよう述べて「宜しくお願いします」と再度礼し合うが、横からその遣りとりを窺いつつ「いいな」と透明の恵美の霊が小さく呟くのを確かに駒井は耳にして「恵美さん、何か?」と訊き、その不意の名指しには半透明の恵美の霊だけではなく紀子も驚いてその着実な前進に眼を奪われるが、かなりの精度でその声を聞くことはできるのだが「御姿はまだ」ほとんど確認できぬと弁解するように言う駒井にそれだけでも大したものと紀子は褒め、そう言ってもらえると有り難いと謝意を述べてから「それで恵美さんさっき何て?」と再度駒井が訊ねると、テーブルに両手ついて身を乗りだすようにして「私にも何か手伝えることないかと思って」と半透明の恵美の霊は言い、「そうですね」と僅かな沈思ののち駒井は言ってから物理的にそれが可能か否かは別として教団としては恵美=マリア様をそのような雑事に就かせることはちょっと考えにくいし「恵美=マリア様が事務仕事してるなんてことが噂にでもなれば」それこそ信用問題だし、現時点ではまだ明かせぬが「恵美さんにはもっと相応しい仕事が」ありますからと固く辞してそれじゃもう一仕事と立ち上がる駒井には有無を言わせぬ厳しさがあったため紀子も半透明の恵美の霊もその仕事とは何かとの問いを伝え得ず、それ以後も私語を許さぬような険しさを保って紀子に指示を出し且つ自身も忙しなく立ち回りなどしているからその進行中らしい新たな計画については一切触れられず、向こうから言ってくるのをだから待つより他ないと半透明の恵美の霊とも頷き合って捜索隊の帰ってくるまでの時間を紀子は事務に紛らして乗り切ったのだった。