その尊大さが鼻につく態とらしい身振りの沖に如何にしても勝てぬことに日下は遣りきれず、ふとその背後に視線を逸らすと隅に置いてある椅子に全体靄が掛かったように薄ぼんやりとしてはいるものの高槻恵美の坐っているのが確かに見え、沖を前に安易な逃避を避ける意味でもこれは否認すべきとの判断からセミナー前に得た事前情報とそれに続くセミナーでの宗教的昂揚という一連の予備的段階を経たうえでの幻覚と下し、更なる注視によってその幻覚を打ち砕かんと投射映像のような靄掛かった高槻恵美に日下は尚も視線を向け続け、見るうちしかしその靄掛かった半透明の高槻恵美と目が合って「見えるんですか?」とその嬉しげな声まで聞こえるのに日下は戸惑い、軽く頷き返してから観念したように「いや、正直言うとね」と半透明の恵美の霊にではなく沖に向き直って「見えなかった、ついさっきまで」と照れ臭そうに日下は言うと「それが今見える」と半透明の恵美の霊に笑い掛け、その沖を埒外にした笑いが勘に障ったのか苛立たしげに「何がさ」と割って入る沖に「マリアが、恵美=マリア様がね」と日下が答えると「見えるってか」と沖はつけ足して背後を返り見ようと一瞬動くが振り返ることはなく、崩れた体勢を整えるように坐り直して「でもマリア様はよく考えたよ、日下さんにしちゃ上出来だ」と皮肉っぽく隣の吉岡に笑い掛けると愛想笑いで吉岡は流し、些か憮然として黙す沖に半透明の恵美の霊を直視しつつその視線の捉えるものを示すかに「事実だよ」と確信込めて日下が言えば「オレの前で教祖振ったって意味ないだろが、なあ」とまた吉岡に振るが最前と同様愛想笑いで流され、困惑したように背後を気にしだした沖に「見えるんだろ?」と半透明の恵美の霊を日下は示すが、そのほうには眼も向けずに「見えるかよ」と答えて「なあ」と吉岡に同意を求め、「はあ」と曖昧な吉岡を無視して心持ち不快げに歪めた口元を丸っこい剥き卵のような毛薄な右掌で覆って並びの悪い歯を隠すようにしながら見えるわけないと再度念を押し、それでも「あんだけ受けたんだから」と最前のセミナーでの盛況を挙げてしばらくは日下も「安泰だ、オレが保証するよ」と沖は嘯くが妙に落ち着きなく、半透明の恵美の霊を媒介に沖の焦燥が露呈するに連れて次第に日下は常の軽快さを取り戻し、沖への敗北感が完全に払拭されたのではないにしろ「いやね、嬉しいんだよ私にも見えてさ、話もできる」と端的にその歓びを示し、その勢いを借って「メシア返してくれよ」と頭を下げるが苛立たしげに「無理だよ頭下げられたって」と沖は言うとこれ以上の話し合いは無意味と決裂を宣言し、背後を気にしつつも「捜したって無駄だよ見つかりっこないから」と言うと吉岡を促して席を立ち、「八木が来るとうるさいからな、今のうちに退散するわ、そいじゃ」と帰り掛けるのを「いいんですか?」と駒井が咎めるとメシア=天皇を握られているから下手に手出しはできないと日下は制し、その日下と駒井との沈黙の遣りとりに沖は態とらしく割り込んで「秋枝ちゃんそんな奴よりさ、オレに鞍替えしない? オレとさ、新たなメシア作ろうよ」と下卑た笑いで言い、無言でしかし睨めつけられて「こわっ」と逃げるようにドアのほうに向かう沖は一瞬怯えたように背を竦める。
灼かな霊験を内に秘めた知恵美=メシア=天皇と何の奇蹟も起こすことのできぬただの下水管工に過ぎない沖とでは取り引きにならないのは見やすい事実で、日下の下した判断はだからこの場合妥当なもので虜にしたところで知恵美派を刺戟するだけとの八木の見解に概ね皆も同意を示し、その基盤を失ったことの損失はしかし決定的で、立て直しなど到底不可能に思えて皆悲嘆にくれてしまい、「恵美=マリアに一本化することは難しいですか?」と意外にも好評を博したマリア披露の顛末を聞いて淡い期待を懐く徳雄先生に信者らの狂熱振りからして「しばらくはそれでいけると思います」と駒井は言うもののメシア=天皇なしでどこまで持つか疑問で実際的な運営に則して言えば正直厳しいだろうと述べそれを受けて恵美=マリア=皇太后にしてもやはり知恵美=メシア=天皇にその基盤を置いているということに変わりなく、一時的な補填にだから過ぎないので早晩そのメッキの剥がれ落ちることは必至だと八木は駒井に同意の旨述べて実務家らしくその期間を長くて三ヶ月と見做し、つまりその効果のあるうちに何らか打開策を見出さねばならず、それを見出せるか否かで教団の存否も決まるというように「何かないですかね」と困惑げに意見を求めつつ自らも沈思するふうに腕組み黙り込む。その疲労と昂揚を沈んだ足取りと浮かれたような面持ちというちぐはぐな表出でともに露わにしながら日下駒井紀子の三者が半透明の恵美の霊とともに会場から本部事務所に戻るとすでに戻っていた捜索隊の面々が「お帰んなさい」と迎え、互いに「どうでした?」と訊くのをまずは捜索の報告からとの日下の指示で総て不発に終わった旨八木が報告してからセミナーでの顛末を駒井が説明に及んだのだが、控室での遣りとりを聞くとそれまで怺えていた怒りが弾けたらしく八木はひどく激昂して「何考えてんだバカッ」と幾度も喚き、いつまでも納まらぬのをそう感情的になってもはじまらぬしこういうときこそ冷静に対処せねばと駒井に窘められて「そりゃそうだけど、あいつが」とふてくされるのを「分かったから」と日下が制し、その八木の激昂がしかし皆の高ぶりを鎮める結果となって現状把握現状分析も割合スムーズに展開したのだが、そこから先が袋小路で見通しは暗くコレといって活路も見出せぬまま「何かないですかね」との八木の言から何ひとつ声もなく小一時間ほどが過ぎ、その間冷めた茶を二度入れ替える。
その小康を破って皆に誇示するかに大きく溜め息をついてから命運尽きたかと小声に呟いたのは日下で、教祖らしからぬその卑小さは常のこととはいえ総てを投げだすかのその弱音は常の卑小さに較べても異質だと紀子は思い、長年二人三脚でやってきたのだから当然といえば当然だが等しくそれを察知した八木が見も蓋もないこと「言わんでくださいよ」と困惑げにしかし冗談に紛らそうと半笑いで言うが目端で去なしただけで「でもね八木さん、正直厳しいよ」と日下はそれを受け止めず、過酷な試練というよりこれは乗り越えられぬ障壁だと項垂れ、冷めた茶で咽喉を湿らせるとサラリーマン風情が宗教なぞ起こすものではないのかとひどい落ち込みようで「完敗だ」と敗北宣言までするに及び、こうまで落ち込む日下を曾て見たことのない八木は内心ひどく動揺するが自分も一緒になって項垂れても仕方ないし示しもつかぬと無理にもそれに抗うように負けたと決まったわけじゃないでしょうと八木は強く言い、その試練を乗り越えてこそ世界宗教への道も「開けるってもんですよ」と言うのだが、仏教やキリスト教やイスラム教に並ぶことができると本気で考えているとしたらお目出度いとしか言いようがないしメシア=天皇を奪われるのも頷けるが、いくら何でもそこまで馬鹿とは思えぬからネガティブな思考を打ち払おうと不意に出た言葉に違いなく、それでもいくらか効果はあってこのままでは「確かに済ませられない」と日下も持ち直し、知恵美=メシア=天皇の不在を如何に乗り切るかを皆で模索する。とはいえそれが極めて困難なことに変わりはないから何ら進展せぬまま時間も時間だし切り上げようかというころになり、この際信者らに「励んでもらってですね」新たなメシアの獲得を「そこからやっぱりやらないとダメなんじゃ」ないかと恵美の呪詛からの脱却を考慮すればそれが最善と思いつつ功次が提案すると「でもそうすると陛下が攫(さら)われたこと明かさなきゃなんなくなるんじゃない?」一等最初にそれは除外されたんじゃなかったかと紀子が疑問を挟み、小刻みな頷きでそれに同意を示しながら「そうですよ、また『神聖卵教会』に戻るのはちょっと」考えられず、離反者の現れるのは免れられぬし規模の縮小は「痛いです」と八木は顰め顔で、「それに新たなメシアがすぐ顕現するって保証はないわけですし、攫われたから次ってのは」安易でそれではとても信者らを説得することはできぬと言うが、それを怖れていたら何もできぬし隠して隠し果せるものでもないと功次の言うのも尤もで、そうかといってメシア=天皇を見捨てるわけではなく、一方で知恵美奪回に全力を注ぐべきとの見解には皆も同意だし紀子の意見もその線で終始変わらないが知恵美奪回に向ける紀子の熱意はいくらか皆と異なり、何より半透明の恵美の霊をそれは慮ってのことだが紀子にとっても知恵美は今やなくてはならぬかけがえのない存在だからで、その灼かな霊験が惜しいのではしかしなく、知恵美を伴った生活それ自体にいくらかなりと充実したものを感じていたからで、それこそが灼かな霊験の結果とすればそれまでだが紀子自身はそうと認識しておらず、欲得尽くでないだけにそれは一層強硬で、何としてでも取り戻さねばとの思いは徐々に強まって今すぐにでも「奪回すべきじゃ」ないかとそれでもいくらかためらい勝ちに紀子は言う。気持ちは分からぬでもないが「今すぐってのは」とても無理で、然るべく情報を収集して万全の態勢を整えたうえで決するのが望ましく、「居所だってまだ分かっちゃいないんだから」と実際的にその不可能を述べて八木は排斥するが沖との遣りとりからも交渉の余地はありそうにもないからいずれその方向で行くより他道はなく、それは皆も承知しているからこれ以上の議論は無意味と判断してかその場の流れから始まってしまった会議を打ち切ることを進言して日下の承諾を得ると「それはそれとしてですね、今後のセミナーの展開も考えなきゃ」ならないし、することはいくらもあるとそれまでの無能振りを返上するように八木は的確な指示を与え、その変貌についていけぬというように脇に控える半透明の恵美の霊と紀子は視線を交わし、そのまま居残って仕事を続けるという駒井らを残して功次徳雄先生に護られつつ本部事務所を引き上げるが、護るべき知恵美=メシア=天皇の不在をそれは強調するようにも思え、それでもどうにかやり過ごして遅い昼食を摂り、元より二人に不備はないしその気遣いに感謝してもいるが無視できぬほどにも気になりだしたため尚も護衛を辞さぬ二人にあまりに多くの出来事に見舞われたことを理由にしばらくひとりになりたい旨告げて別れると、半透明の恵美の霊とともにひとり紀子は電車に乗る。