人の出入りも頻繁だし喧しいし半透明の恵美の霊もいることだし駅ビル二階の『鉋屑』ではやはり落ち着いて話もできず、かといってまたラブホテルというわけにもいかず、断られることは分かっているが「うち来ません?」と訊くと「えっああそうね」といくらか戸惑いを見せるものの「いいよ」との予想外の答えに紀子のほうが驚き、用意していたリアクションはすぐに引っ込めたものの補填が間に合わなくて言葉に詰まり、それでも徳雄先生が振り向くまでには持ち直して「いんですか?」と訊くと「疑い深いな」と笑みつつ徳雄先生は言い、そのように紀子が思い込んでいたのは今まで恵美というフィルタを通してしか徳雄先生を見ていなかったからだと紀子は気づき、恵美と紀子の差異を考慮すれば自ずと徳雄先生との関係性にも差異はあるはずだし、さらには不可分離的に半透明の恵美の霊が付随している現状を鑑みればそのように判断することは短絡といえ、それだけではなく徳雄先生にも変化は当然あるはずで、知恵美の誕生から不可解な恵美の死を経て『神聖チエミ教』への介入という一連の経緯は少なからず影響しているだろうから考慮せねばならないにも拘らず、こと徳雄先生との関係において全く思惟の埒外にあったことに紀子は思い至り、そのこと自体を断罪する気はないにしろ知恵美のことばかり見ていた自身の浅薄を紀子は反省し、徳雄先生の屈託なげな笑みに射竦められたように膠着しながらもその理由を訊けば離婚調停が済んだとの明快な答えに「そうなんだ」と紀子は呟き、「だって」とすぐ横の半透明の恵美の霊を見ると「好かったね紀子」とこれも予想外の答えで「何が?」と訊き返し、「私のこと気にしなくていいから」といくらか視線を落として言う半透明の恵美の霊に「別にそんなんじゃ」と否定するが「そんなんだよ」と言われてそれ以上否定もできず、そんなんなのかと改めて紀子は自身の思いを知るとともに独身者となった徳雄先生との関係もまるで違ったものになったような気がし、それがしかし賀すべき慶事というより妙な違和として紀子には感じられ、脇で窺う様子の徳雄先生が気になりもしてなぜそう感じるのか分からぬままとにかくうちに行ってからと紀子は早足に歩きだして表通りに出ると空車を探すが、半透明の恵美の霊の気配を怖れてか幾度か拒否されて「電車にしよう」と言う徳雄先生に従って電車で帰る。駅から徒歩二〇分の自宅マンション五〇五号室に至る間も徳雄先生が横にいるのが不思議で仕方なく、その徳雄先生とよりは半透明の恵美の霊と多く目配せするのに徳雄先生が戸惑ったほど紀子は緊張し、初めて逢い引きする中学生みたいなその緊張に自身動揺しつつ自室に着くと全身に紀子は疲労を感じ、それでも神棚にお神酒を供えて半透明の恵美の霊とともに祈念することは欠かさないが茶菓を用意して坐り込んでしまうとどうにも動けなくなってしまい、霊的存在らしからぬ艶良い血色でまるで疲れた様子もなく紀子の右隣に坐している半透明の恵美の霊を横目見ると、一瞬実体を獲得したかのように半透明でなくなったような気がして眼を剥くが、見ると背後は透けていて訝しげに紀子を見つめて「何?」と言う半透明の恵美の霊に疲れたように「何でも」と紀子は答え、ふと知恵美の灼かな霊験を以てすれば恵美の甦りも可能なのだと思い、それはしかし教団で禁じられていることだから実現は不可能で、それでも宗教者の様相の剥落した頼りなげな日下八木に疑問を感じているせいもあり、懲罰は甘んじて受けると覚悟しつつ知恵美を取り戻すことができたら恵美の甦りを真っ先に願うことを紀子は密かに決め、恵美が甦れば知恵美は恵美の許に返すことができるしメシアとマリアとがいれば自分が放逐されたとしても問題はないと紀子は思う。
卓に置かれた醤油煎餅を「湿気てる」と言いながら立て続けに何枚も食べている徳雄先生は恵美の霊の位置を「ここ」と紀子に教えられ、焦点の定まらぬまま虚空をしばらく見据えるが僅かな像さえ視認できず、確かにそれはあるのだろうかと不意に兆した僅かな疑念が途端に膨れあがって真向いの一メートルと離れてはいないそこに恵美の霊が坐っているということが信じがたく、その存在を疑うことはしかし紀子を疑うことに他ならないから紀子を信じるとすれば恵美の霊をも信じざるを得ず、それではなぜ自分には見えぬのか梳井功次には僅かにしろ見えるらしいのに自分に見えぬのはなぜなのかと湿気た醤油煎餅を主に右顎で咀嚼しながら徳雄先生は煩悶するが、その不可解な死を解明できねば視認の可能性もないとすれば絶望的で、自分だけがそれを解明できていないというのではしかしないから解明の有無は問題とはならぬはずと徳雄先生は思う。反面その意識のうちでは恵美の存在が浮き彫りされたように明瞭に映しだされて徳雄先生は終始その基底部から突き上げられるように感じ、紀子をはじめ教団信者らがその像を確かに視認しているらしいのを見ると意識下の恵美=レリーフが共鳴するのかけたたましく振動するのを徳雄先生は感じ、紀子と行動を共にすることは恵美の霊とも行動を共にすることに他ならないためその疲労は計り知れず、知恵美を引き受けることはしかし知恵美に殉じることと徳雄先生は解しているため逃げることはならず、弛緩したように醤油煎餅を頬張る徳雄先生との間にいくらか隔たりを感じた紀子は自分も醤油煎餅を一枚とって囓り、その湿気た醤油煎餅を「美味しくない」とそれ以上食べずに卓に置いて知恵美なら尚更食べないだろうとふと思い、小気味好いカリカリという咀嚼音が思い出されて菓子盆の置かれている辺りにいつもいたとそこに視線を落とすと、いるはずのない知恵美がそこに現前していて「ウソ」と口走った瞬間それは囓り掛けの煎餅に変じ、紀子のその一口囓ったのみの醤油煎餅を徳雄先生は取り上げると勿体ないと食べる。煎餅を総て食べ尽して咽喉が渇いたらしく茶を飲もうとするがすでにカラで、紀子がキッチンからジャーを持ってきて新たに入れた茶を徳雄先生は飲み、一息ついてやっと話ができると小セミナーの件を紀子が切りだすと「そうね」と言ったきり徳雄先生はしばらく沈思し、お茶を一口飲んで咽喉を湿してから教団全体を多角的な視点で捉えるためにもそれは有効だし気分を変える意味でも小セミナー参加には賛成と言い、八木への返答は約束通り三日後にするのが無難だとして話を終えると飯でも食べに行こうと徳雄先生は言うが半透明の恵美の霊がいては面倒と出前を取ることにし、『孤夢想庵』の天笊セット特盛り蕎麦掻きつき二人前を頼むが特盛りは多かったと残した紀子の天ぷらと蕎麦掻きを徳雄先生は残らず食べ、食べ過ぎたとベルトを緩める徳雄先生に「だからお腹出るんだよ」とたるんだ腹を小突かれて「面目ない」と興じているうちズボンの中にその手を誘い込むが、なかば紀子に促されたようにも徳雄先生は思うのだった。
脇を窺いつつ「恵美が」と僅かに抵抗を見せる紀子にというよりは紀子の示唆する見えぬ恵美の霊に徳雄先生は一瞬ためらい、恵美の快楽主義をしかし知悉している徳雄先生はその言葉を無視して紀子を抱き寄せ、蕎麦つゆの香のまだ濃厚な油にテカるその口を吸い舌を差し入れ絡め、それに呼応するように勃起するペニスの温もりと湿りを紀子は掌に感じつつ指先を陰嚢のほうに這わせていき、常に較べてしかしいくらかその愛撫が淡泊に思えるのは恵美が気になるかららしく、気を利かせてキッチンに退避する半透明の恵美の霊の後ろ姿を薄目見た紀子がその旨告げるといくらか緊張が解れたらしくその手指舌は淫猥に蠢(うごめ)きだすもののぎこちなさは否めず、その卓越した技巧の十全な発露にはだから至ることなく、それでも乳房を徐々に包囲するかに弄る徳雄先生の冷たい掌の動きを紀子は汲み尽してゆっくりとだが性器の湿潤へとその階梯を上り詰めていき、その掌が乳房に接近するほどにしかし妙な怖気を紀子は僅かに感じもし、目先の快楽に眼眩んでいるせいか訝りつつもやり過ごしてペニスを触知することに意識を集中し、一旦それは成功したかに思えたが陰唇の縁をその舌が這うのを感じると性器に潤いをそれは齎すどころかほとんど恐慌に近く、快楽にではなく恐怖に背を仰け反らせると押し退けるように上に覆い被さっている体を引き剥がし、薄目に見るとそこにいるのは徳雄先生のようでいて徳雄先生ではなく、いや、確かに徳雄先生ではないと紀子は見定めると恐怖が一挙に振り切れて聞こえぬほどの小さな声で「あっあっかっ」と間歇的に引き攣ったような悲鳴を洩らす紀子のその大仰な常にない反応に戸惑いつつ「どうした?」と訊いても押し退けようとするだけで答えはなく、怯えたように首を横に振ながら後退(あとずさ)る紀子の表情からはいくらか憎悪も感じられ、その対象が自分だということが何より解せぬが近づけば刺激するだけだと宥めつつ徳雄先生はキッチンに退避し、隣室の様子を窺いながら自分のどこに不備があったのかその行動の流れを辿り返すが、いくら反芻しても思い当たる節はなく、そうとすれば紀子のうちにその要因があるはずだがそれは紀子に糺さねば分からず、戸越しにそっと気配を窺うが物音ひとつしないのを訝って心配げに「だいじょぶ?」と言う半透明の恵美の霊に何でもない心配するなしばらくすれば治まるからと紀子は踝のところに引っ掛かっている下着を履き直し腰の辺に一塊りになっているスカートを下ろしブラを着け直しブラウスのボタンもきちんと留めて身仕舞いを整えて坐り直し、頻りに何があったか問い糺す半透明の恵美の霊に「何でもない」と言い続けて「もう大丈夫」との落ち着いた常の声に徳雄先生は隣室に行き、卓を挟んだ向かいに坐るが掛ける言葉を何も見出せないのは何か一言言ってもまた拒絶されるのではとの危惧があるからで、紀子の出方をしばらく待つが如何なる弁解もできぬと思えば紀子には詫びることしかできず、「恵美、は?」とようやく切りだすと「ここ」とその膝傍を軽く叩いて示してチラと差し覗くと徳雄先生のほうを見つめつつ「ここにいるじゃん」と悲しげに呟き、その呟きに「何?」と訊き返したのは紀子の言葉と思ったからで「恵美だよ今の」と教えると「ほんとか?」と驚いたように言いつつ躙り寄り、「恵美いるのか恵美」と呼び掛けるものの返事は届かず項垂れ落ち込むが、落ち込んでいる場合ではないと見えない恵美の霊は断念して見える紀子に向き直る。