とはいえ知恵美のように実体を持たぬ存在を延子はまだよく把握できぬらしく「マリアっていうのは何だか掴みどころがなくって」困ると率直に言い、先日の大セミナーでも自分には見えなかったのがひどく悔やまれて是非にも今日は拝まねばと気負い込んで昨夜もよく眠れず、この機を逃せばいつまたチャンスが巡ってくるか分からないとさっきから気を張り集中しているのだが気配さえ感じることもできず、吉田のようにその霊験に与れないのも全体自分に信心が足らぬからかそれとも前世の業か何かで端から見放されているのかと悲観するのを「そんなことないですって」と自分にしても薄ぼやけの半透明にしか見えないし日下にしろ八木にしろよく見えてはいないようだから見えぬからといって即不信心とは言えないし前世の業などと古臭い観念に縛られていては尚更だと紀子は慰め、「そうそ、何でもかんでも後ろ向きに考えんなあ好くねえ」と恵美=マリアが来るというので仕事を午後からにしたという延子の夫の卓造がそのあとを引き継いで「そう心配しなさんなオレだって見えねんだから」と言えばそれが勘に障ったのか「私に見えないのにあなたに見えるわけないでしょう」と延子は言い、お手上げというように肩を竦める卓造のあとを紀子が継いで見える見えないが重要なのではなく知恵美=メシア=天皇を延いては恵美=マリア=皇太后を信仰することこそ肝要なのではと言い、言いながらしかし説法めいたことを口にしている自分が妙に滑稽に思えて「ンフンフフフ」と忍び笑いを洩らす半透明の恵美の霊に釣られそうになるのを必至で怺え、その生前の御姿を拝したことがあるとようやく拝む手を膝に置いた吉田がいくらか自慢げに「いつもご一緒でしたものね」と紀子に言うと、羨望の眼で吉田を眺めてから「見たいなやっぱり」と延子が紀子の隣を見つめると釣られたように皆その視線を追い、ひとり忍び笑う半透明の恵美の霊のみその視線にまるで気づかず、促されたように「笑ってます」と紀子が告げると「やだ、そんなことまで教えなくたってえ」と非難がましく紀子を睨む。その尊顔を拝せられぬのが何としても口惜しいと延子は訴えて抑もその料簡からして出過ぎていると窘める卓造を無視してその声なりとも気配なりとも感ずる方途はないものかと紀子に問うが、こればかりは紀子にも何の助言も与えられないし適当なことを言って期待を持たせるのも却って不親切と思い、見える見えないじゃないんだとしかし同じことしか言えないのが心苦しく、そのような熱心な信者らに対してどう応えていくかその辺の問題に関しては日下らともよく協議せねばと紀子は思いつつふと吉田の背後の和樹を窺えばソファの背凭れ越しに僅かに覗ける頭は微動もせず、大人しくしているもののその退屈げな様子を慮ってか不意に「ねっカズちゃんは見える?」と戯れに延子が訊くと立ち上がって振り返り、その問いの意味を確認するようにひとりひとりの顔を見廻してから最後に半透明の恵美の霊の坐すソファに視線を向けて「うん見える」と和樹は頷き、信じられぬと紀子に視線を向けると同様の視線を紀子も返し、試すように半透明の恵美の霊が手を振ると恥ずかしげに顔を俯けてソファの陰に隠れ、確かに見えているようだと紀子が言えば子供は欲がないからと恵美=マリアの見えるらしい和樹を延子は羨み、そのように知恵美=メシア=天皇の灼かな霊験に与って難病を克服した和樹に引き替えて恵美=マリアを眼前にしてさえその御姿に接し得ぬ我が身の不運を嘆き、和樹を呼んで膝に坐らせるとその顔立ちから服装から事細かに訊いてはひとつひとつ確認するように視線を向けられて妙なこそばゆさを覚える半透明の恵美の霊を他所にその何ひとつ誤りのない指摘に紀子は改めて驚く。その和樹を媒介に恵美=マリア視認へと至らしめることはできなかったものの全体好意的に受容されていると分かっただけでも収穫と思い、そろそろ退け時かとそのタイミングを窺っていると「そうそうそう忘れてた」紀子が来たら出そうと思っていたと延子は小走りにリヴィングを出ていき、小走りに戻ってくると「カズちゃんどれがいい?」といくつかの小振りのケーキをまず和樹に選ばせ、それを見て「圓綺堂のプティ・ガトーじゃん、いいな」と横にいる半透明の恵美の霊が呟くのを紀子は聞いて何か耐えがたい責め苦にでも遭わせているような気がして「あの、そろそろ次ぎに行かなきゃならないので」と暇を告げ、まだ来たばかりじゃないかと引き留められるがこのあとも予定がビッシリあることをいくらか誇張して説明して席を立つと、何のお構いもできなくてと詫びる延子の声を聞きながら来るときと違って少しも長くないのを訝りつつ薄暗い廊下を紀子は玄関まで送られ、一通り挨拶を交したのち「お姉ちゃんにさよならは?」と言われてさよならを言う和樹に半透明の恵美の霊が「バイバイ」と手を振ると「バイバイ」と紀子にではなく半透明の恵美の霊に和樹は手を振るのだった。
日頃使わぬ神経を酷使してか津田宅を辞すと妙な疲労を覚え、視野の僅かな狭窄と胃痛を微かに感じるがそれは慣れの問題で克服は困難じゃないと紀子は踏み、実際しばらく歩けばいくらか身軽くなったことは確かで微風が掠めるのを素肌に心地好く感じもし、それでも気掛かりなことがひとつあって今後行く先々で菓子やら何やら出されては半透明の恵美の霊に酷だということで、紀子が気にすることじゃないと半透明の恵美の霊は言うが浮かぬげで、改善すべき、いや改善させると紀子は約束し、妙に気合いが入ってくる紀子とは逆にもともとない生気がさらにも失われたように沈み込んで限りなく透明に近くなっていく半透明の恵美の霊を「あの子さ、恵美しか見てなかったよ」とからかえば、どういうわけか昔から子供には好かれると不思議そうに「なんでだろ?」と訊かれて紀子の意識に甦ったのは中学高校と同性の下級生からお姉さまお姉さまって纏わりつかれてほとんどアイドル並みだった恵美の姿で、そのピーク時には紀子さえ容易には近づけず、確か中学卒業間際と紀子は記憶するが取り巻き連が狂的な昂揚を見せて一、二ヶ月の間疎遠になったのも取り巻きの幾人かに呼びだされて親友づらしていい気になるなと脅されたからで、「恐かったんだからあの親衛隊」と言えばそんなこともあったっけとひどく感傷的になって盛り下がってしまい、人との接触を避けて裏通りを縫うようにしているためその静けさが強調されてより感傷を誘うのか半透明の恵美の霊は手で口元を覆って今にも泣きそうで、不意に「ね私って役に立ってる? 邪魔とかじゃない?」と悲観したように言うのを「そんなこと気にしないの」と紀子は叱りつけ、先日の大セミナーを挙げるまでもなく最前の津田宅でもその存在をアピールして充分すぎるほど役に立ったではないかと諭すが納得したようでもなく、その存在の不確かさを思えば納得できぬのも分かるがそれはそれとして前向きに考えねば「ダメだよ」と見るとほとんど消え入りそうで、その不確かな像を視認し得たのはしかし僅かの間で見たと思った次の瞬間には消えてしまってその姿を捉えることができなくなり、それでも僅かに気配は感じるから「恵美恵美」と呼び掛けて紀子はその所在を確かめようとし、微かに耳傍で「ここここ」と声のするのが聞こえていくらか紀子は安堵するが、知恵美の灼かな霊験のさらなる稀薄化をそれが意味するとすればかなりヤバい状況で、知恵美の命に関わることでなければいいがとほとんど祈るような思いでその身の安全を願い、周囲を気にもせず「いるよね恵美いるよね」とずっと声を掛け続けるのだった。