友方=Hの垂れ流し ホーム

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その卑小な後ろ姿を茫然と眺めていたようなのだが、それはいったい本当だろうか、実際そんなことがあったとは到底信じられぬから先走ったペンの作りごとと見做すほかなく、というのもそこで会ったのは武内ではなかったはずだからで(註─では誰なのかというとそれさえもう定かではなく、港だったかもしれないし高橋だったかもしれず、あるいは誰とも会ってはいないのかもしれない、そうだ、きっとそうに違いない、これらは皆悉く嘘なのだ、何者かによって私の脳髄に埋め込まれた偽の記憶にほかならない)、いったいどこでどう間違ってしまったのか皆目分からない(註─最早それを確かめる術はないからすべてをひとつところへぶち込んでおくよりほかなく、いずれを真と見做すかは私にはもう与り知らぬこととそう簡単に割りきれるものではないが、手の施しようはないのだから已むを得ない)が、そう思ううちにも武内が引き返してくる気配で、いや引き返してきたのではなく、慌ただしく駆け込んできて素早く店内を一瞥し、私を見つけると相好を崩して早足でやって来る。妙に上機嫌で鼻歌など歌っているからヤバいことでもなさそうだといくらか疑念は払拭されるが尚残る疑念に挨拶も中途半端なものになり、それを気にする様子もなく向かいの席に掛ける武内は尚歌をつづけるが頗る威勢のいいその歌にこちらの強張りがちな表情も解れるようで、子供ながらに熱狂したのを記憶しているそれはずいぶんと古いアニメの主題歌だが、たしかつい最近耳にしたばかりだと話を向けると乗ってくるかと思ったのが案に相違して武内は興味なさげに頷くのみだった。店内は一様にざわついていて少しくらい声を張っても気にならぬほどだが、あからさまな歌声となるとやはり人目につくしカラオケボックスではないのだからも少し控えてくれと頼むと「そうか」と武内は声を低めるが歌いやめることはなく、何をそれほど浮かれているのか何かいいことでもあったのかと問うてみるが「いいことなんかあるかよ」賃金カットでローンの返済も儘ならないのにと歌いながら答え、それでも「アレがあったお陰でさ」どうにかやりくりしていると言う。その間もずっと鼻歌を歌っているのだがよくよく見ると口は固く閉ざされていて、それなのに歌声は妙な響きで聴こえてくるから変だなと思い、腹話術かとも疑うがそうではないらしいから尚注視していると歌声は武内の口から離れてべつなところから聴こえてくるようになり、まるで音場の狂ったリスニングルームにでもいるかにそれは定めがたいからその位置を同定するのは困難で、それでも徐々に遠離っていくようなのは朧げながら把握され、いつか眼前の武内をそっちのけにして歌声のほうへ私は耳を傾けていた。しばらくしてまたゆっくりとそれは近づいてくる気配だが幻聴と疑って尚幾許か不貞寝していて、それでも遠く微かに聴こえるそれがたしかに鼓膜を震わせているとの確信を得ると活力が漲り溢れるというほどではないものの少しくその歌声に賦活せられ、今一度その偉容をこの眼に納めよう、そうすればそれがニセモノかどうかも分かるはずと起きあがるが振り向いたそこに窓はなく、ヤマトの確認を阻むかに床から天井までを無機質な壁面が開っているのだった。

耳鳴りのように微かな余韻で響く佐々木功の歌声を尚耳朶奥に感じながらさっきのアレが現実のものだったのか否かもう定かではなく、四辺を薄汚れた壁に囲まれたこの窓もない地下の(註─地下というのはまったくの想像にすぎず、そこには何の根拠も見出せないからあるいは全然的外れかもしれない)一室に逼塞している現状を鑑みるに、どこかホテルの一室に缶詰にされた作家先生といった趣では全然なく、誰からも忘れ去られ見捨てられたような何ともやり切れない虚しさばかりが募り、港の言う断片化のこれが現れなのだとしても私にはもうどうすることもできないし高橋の言うようにいずれ死からは免れられぬのだし、抑もあいつらに読ませるために書いているわけではないのだから(註─それ以外の誰にもと言っても過言ではないが、あのイケ好かない異星人に読まれることだけは回避したい、なぜと言ってあれは)もう書くのをやめようと幾度かペンを置こうとするが、それでも書かずにいられない私はいったい何を書こうとしているのだろうか、いや、何かを書こうとしていたわけではなく、強いて言うなら書くことそれ自体が目的で書くことで正気を維持しているのだと差し当たっては言えなくもなく、その意味で治療的側面を否定することは難しいのだがそれは向こうの勝手な言い分で私の認めるところでは断じてなく、幸いページは尽きずある(註─字義通り無尽蔵なのだ、捲っても捲っても終わりはないし、はじまりだってきっとないに違いなく、そうとすれば私がこの世界を紡いでいるのでもあるらしい。らしいではなくそうなのだ。といって自身を神のごとき存在と見做すつもりは全然なく、せいぜいが神に使役せられる歴史編纂者という程度にすぎなかろう)からどこまでもいつまでも書きつづけられるしそのようにして書きつづけているかぎり錯乱することもないと《糸杉》でありつづけられるとそう無邪気に信じてもいられないとはいえ、誰が何と言おうと私は《糸杉》で《糸杉》としてこれを書き、そして書きつづけねばならないのだがそれを阻んでいるのもまた(以下三十一文字判読不能)※24

※24

記述はそこで途絶えている。最後の三十一文字はあまりのなぐり書きで判読できない。それが何かを暗示するようなたぐいの、いかにも唐突な途絶え方ではある。しかし、さしあたって書き継ぐことを放棄したということにだけ留意すれば良いように思われる。

今尚つづく戦乱のなか、いつ果てるともしれない爆撃に晒されながら、不在の敵に怯えつつわずかに余命を繋ぎ止めているわたしたちにとって、彼は、なくてはならない存在と言っていい。彼が書かなければ何ごともはじまらないし、終わりさえ訪れることはなく、こうして無限の戦乱のなかを生きつづけなければならないわたしたちには、なす術さえもないのだから。

彼の不在が決定的な痛手だということは、もはや疑うべくもない。しかし、不在の彼に問うことはもう不可能なのだ。だからこそ、彼のテキストがわたしには必須なのだ。いや、わたしだけではないはず。政情の窮めて不安定な現今社会において、彼の不在は、ヤマトの帰還などで賄(あがな)い得べくもないほどに、決定的な損失と思われる。ヤマトの帰還が彼をお払い箱にしたという港の見解は、だから絶対に、認められない。だいたい、あれのどこがヤマトだというのか。彼も書いているように、あれはニセモノに違いない。

ここに残されているノートだけが、唯一の頼みなのだ。ただ、これを彼の遺書とする見解が一部で囁かれていることはわたしも知っている。しかし、これを彼の遺書と認めることは、わたしにはどうしてもできない。というのも彼は、ここに何ひとつ事実らしいことを書きつけていないのだから。そんなものをいったい誰が遺書と認めるだろう。それでも、これを彼の遺書だとする見解に、次第次第に傾きかけていることもまた事実。

そもそもわたしの知るかぎり、彼は糸杉ではないはずだ。彼自ら、仮の名称だと書いていることを指摘するまでもなく、彼と糸杉を、安易に同一視することは危険だし、ほとんど不可能とさえ言っていい。

それとも、彼は糸杉なのだろうか。わたしの認識が誤っているのだろうか。もしすでに彼が糸杉だとすれば、わたしとは世界を異にしているということだから、わたしが彼を取りもどす手段も永久的に失われてしまったということになる。そうではないことを祈るほかない。

ヤマトの帰還をではなく、彼の帰還をこそわたしは、いえわたしたちは願うべきなのだ。

─了─

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