友方=Hの垂れ流し ホーム

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開かれたその左ページには上から三分の一ほどが細かな文字で埋められているが、風もないのにノートの端がヒラヒラとそよいでいるのは小止みなく蠢く罫と文字とのせいに違いなく、それを指差しながらそれら蠢くものに港は気づきもせず、今はまだそれに向かう気になれないから婉曲に首を振りつつノートを閉じようとすると横からその手を強か叩かれ、痛いじゃないかと眉間に皺寄せると呆れたように港は首を竦めながら「お前なあ、自分の立場分かってんの?」と嘆いて広げたノートをさらにもこちらのほうへ差しだす。高橋の話振りからこれが強制というニュアンスは認められなかったはずで、そうとすれば港のこの強硬な態度はまったく理解できないし端的に港の独断専行にすぎぬと思われ、従わねばならぬ理由はだからないはずとそう訴えようとするも声としてそれは結晶することなく、いつの間にか踊る文字として刻みつれられてしまい、いや、自ら刻みつけてしまうのだがなかば意に反していて、書く気もないのに書いてしまう執筆機械と化した私はたしかに傀儡に違いないと呟くが、そう呟いたのは港だったかもしれず、いずれにしても傀儡には違いなさそうだから港の言うように抗うことは困難らしく、何か大きな負債を抱え込んでしまったという思いが打ち消しがたく兆してくるのを払い除けることはできないのだった。鬱々と沈み込みながらもスルスルとペンを走らせている私を横目に港は眺めつつノートパソコンのシステムを終了させ画面を閉じるとそれを小脇に抱えて「そういうことだから」と妙に取り澄ました口調で言い、ピンと背筋を伸ばして上司然と構えると満足そうに頷いてそのまま掻き消えるようにしていなくなり、またひとり残された私は茫然と港の消えた辺りを眺めつつ何か考えていたようだがとりとめのない思惟は纏まった形に結晶することなく流れ去り、いや、こうして不定形の蠢く文字として綴られていくのだった。そのうち考えることにも疲れ果て(註─こんなことを書いてどうなるのかとまたしても疑心暗鬼に陥るがそれを無視してペンは走りつづける。考えることに疲れ果てはしても書くことには疲れ果てることがないのだった。執筆機械としてそれは当然のことだ)、また横になると低い天井に焦点を合わせて眺めるともなく眺めていたが何だかその天井がさらにも低くなったような気がし、いやたしかに低くなっていると眼を瞑り十数えて再度眼を開けると元の高さに戻っているから気のせいということは分かるのだが、それにも拘らずいつかそれが私を押し潰すに違いないと根拠のない思いを懐いてしまい、いや、何もない壁に穴が開いたり閉じたりするのだから天井くらい低くなってもおかしくないとそう思い、押し潰されて拉(ひしゃ)げた自身の姿を思い浮かべて身を縮こまらせる。

それに即してというのではないが酷たらしい自身の姿のその脇にまたひとつの想念が浮かびあがり、記憶というより妄想というのに近いそれは確固たる位置づけを拒むかにあやふやで、何かべつのパズルのピースでもあるかのように自身の記憶のどこにも接合できずに浮遊しているようなのだがそこへと焦点を合わせるうち徐々に鮮明になってきた細部には少しく驚き、いや、全然大したことではなく、ほんの些細な出来事にすぎないし特筆するに値しないかもしれない(註─まったくこれは信ずるに値しない偽の記憶と言っていい)のだが、念のためというよりは書かずにはいられぬペンの勢いに押されてしまうということで、取りも直さず私が作家先生だということをそれは証していて、そうとすれば俄然やる気が出てくるとそこまで前向きにはなれないにしてもいくらかなりと意欲が湧き、その点も含め今後詳細に吟味するか否かはべつとしても記しておいて損はないだろう※23とそう記せば、何が気に入らぬのか不平がましい港の声がしているような気がし、とはいえ聞きとれぬほどそれは微かな響きだし、そのうち周囲の雑音に埋もれてしまったから懸念しつつも意識から遠ざけて先を急いだ。とはいえ何をそれほど急いていたのか、観たいテレビでもあったのだろうか、今にも降りだしそうな天気というわけでもないし、これといって急がねばならぬ理由はなさそうなのだが、それでも目的の場所へ向かって私は急いでいたらしく、いや、何か大事な用件なのらしいと電話口でのどこか切迫した物言いを不意に思い出し、やはり自身に関係する事柄なのだろうと思い巡らすうちに嫌な予感が兆してきて、やはり何か良からぬ事態が出来したのに違いない絶対そうに違いないとさらにも不安を募らせ、それが足取りを重くするせいか約束の時間に遅れてしまったが相手はまだ来ていないらしい。店の一隅の目に立つ席に掛けてコーヒーを飲みながら待つが一時間が過ぎても来ないから不安は弥増し、念のためとケータイに掛けてみればこちらへ向かっているとのことでほどもなく現れるが、こそこそと周囲を気に掛けつつもどこか不遜げで見下すような態度だからもうそれだけでここへ来たことを後悔し、何も言うな何も聞きたくないと一切を拒むかに黙しているとひどく切迫した面持ちの武内はこちらの拒絶を無視してというよりはまるで眼に入らぬ様子で、落ち着かなげに視線を彷徨わせつつ「どうもバレたらしい」と早口に言い、次いでいくらか声を潜めて「こっちは無事みたいだけど、そっちのほうが」露見したらしいとこちらの反応を窺うように上目見る。そのどこか演技的な挙措に疑念を感じずにはいられないが早く切りあげてしまいたい一心で「ああそれなら知ってる」ついさっき港から聞いたと事の顛末を告げると、尚も探るような視線で見つめるから余計なことは何も口にしていない旨告げ、それでいくらか安堵したらしい武内は椅子の背に深く凭れて溜息を吐き、それを茫と眺めているこちらの視線に気づくと「気の毒だとは思う」と少しく気に掛けるふうに首を竦めるが、人のことにまで構っていられないのも事実と事態の切迫を理由になかば開き直る形で「こっちまでバレたら適わないし」と言う。端的にそれを怖れてだろう再三口を割らぬよう求めてきて、その心配は要らぬと即答するもこちらの気安い返答が却って不安を誘うのか尚幾許か「頼むよ」をくり返し、それだけ確認すると用心深く周囲に視線を配って席を立ち、最後にもう一度「頼むから」と言いおいて万引きした中学生か何かのように背を屈(こご)めて逃げるように行ってしまう。

※23

さも重要な何ごとかが記されているかのようだ。彼自ら註で示しているように、それが偽の記憶だという記述がその重要性を補強している。しかし、そのような前振りを鵜呑みにすることはできない。何かほかのことを隠蔽するための布石だろうということが、容易に見てとれるからだ。そもそも、武内という人をわたしは知らない。まるでべつの人物のことを言っているのか、それとも全く彼の想像的産物なのかは分からない。とにかく、これを読み解くのに細心の注意を要するということは間違いない。

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