たしか長椅子の向かいに二脚並んだソファの一脚に腰掛けていたと記憶するが身じろぐたびにそれが妙な音をたてるから落ち着かず、眼前に置かれている安手のローテーブルに妙な既視感を覚えつつ油煙に汚れた壁紙と低い天井とが齎す圧迫感に憂鬱になり、通されてまだどれほども経っていないのにだからもうかなり気詰まりで、そうかといって帰るわけにも行かぬから外光の射さぬ薄暗い一室の息苦しさに耐えているほかないが、それもこれも場違いなところへ来てしまったからだということに尽き、用件のみ伝えて帰るに如くはないとさらにも縮こまってソファを軋ませる。潤いのある透き通った声に俯けていた顔を心持ち上げればどこか見憶えのある女性が笑顏とも泣き顔ともつかぬ面持ちでこちらを見つめているが、その眼の奥は笑っても泣いてもいないようだからつけ入る隙はないし緊張は弥増すしでどうにも肩が凝り、感情を伴わぬことで却ってある種の感情を際立たせもするその視線は一旦逸らされて眼前のティーカップに注がれたから一息つくが、しばらくその付近を彷徨っていたそれがまたゆっくりとこちらへ向け直され、穏やかな物言いながら冷ややかなその眼差しにどことなく険のある奧さんは「あの人、何て言ってました?」と問うが、こちらの戸惑いを察してかだいたい想像はつくがと間を繋ぐように語を継ぎ、それでも一応訊くだけは訊いておくと冷ややかな視線で再度問う。その目的を忘れたわけではないもののいったい私は何しに来たのだろうと端的に奧さんに気圧されしまい、会見のあいだほとんど喋りっ放しの奧さんに代弁する暇もなく、出された紅茶にも手をつけられず畏まって奧さんの話を聞くなか蟠りを募らせていき、抑もなぜ上司の尻拭いをしなきゃならないのかそれが分からず、しかも仕事とは何の関係もない夫婦間の私的な揉めごとにすぎないのだから私などが出る幕ではないのだと港への怒りが徐々に兆し、況して上司と部下という関係にあるだけで殊更世話になったわけでもないし終世返せぬほどの借りがあるわけでもないのだからほとんどこれはボランティアといってよく、いっそ話を拗(こじ)らせてしまおうかとの衝動に駆られるがそんなことをしても虚しいだけだし港に知れたら厄介だから奧さんの機嫌を損ねぬよう時折合の手を入れながら冷めゆく紅茶を眺めていた。
断片的に語られた話を綜合するに奧さんとて事を荒立てたいわけではないらしく、とはいえ逃げてばかりで一向話し合いに応じぬ港にいい加減呆れ果ててしまったのだということで、何か過ぎ去った遠い記憶をでも振り返るような眼差しでしみじみと語る奧さんは急に老け込んでしまったようにそれまでの勢いもなくなり、尚しばらく惰性で何か呟くようだが不鮮明な発音だからよく聞きとれず、とはいえ蒸し返したくはないから問うことはせず聞き流しているとそのうち口を閉ざして気鬱げに項垂れてしまう。途端に沈黙に支配された一室の息苦しさに何か言わねばと今一度整理してみるが、たしか娘さんのことで何か相談があるとかいうような話ではなかったかと痴呆にでもなったかについさっきまで知悉していたその目的をなかば失念していて、塞ぎ込んでしまった奧さんに不用意なことを口にしてもまずいとのバイアスが掛かって結局最後まで何も切りだせずにしまったのではなかったかと記憶するが、こんなことに使役せられることの理不尽に強い憤りを覚えたことはしっかりと刻みつけられているとそう書き記した矢先だったか妙に殺気立った気配とともに「いい加減なこと書くなよ、お前うちになんか行ってないだろ」それにそんなことを頼んだ覚えもないと苛立った港の声が上から落ちてくる。とはいえたしかにそれは記憶として保持されていると強く抗弁するとそんなシナリオは認められないとか何とか文句を垂れながらもこちらが引き下がらぬことを察して意味不明の呟きをわずかに反響させるのみとなり、主人公には誰も逆らえぬのだと短絡しているわけではないがこの程度の特権の行使は許されるだろうと押しきって夫を見限る妻を前面に押しだしてみる。不満げな港の気配の漂うなか尚しばらく書きつづけていると諦めたように気配は消えるが、それとともにこちらも希薄になるようで、眠気ともどこか異なる朦朧とした状態で間歇的に意識も遠退いたりするからいつ事切れてもおかしくないのだが、それでも尚ペンは動いているから不思議で、そうかといって揺れ蠢く文字は見定めがたいし何もかもが不確かだから不安は尽きない。こちらがそのように安定を欠いていることに託つけてか夾雑的に割り込んでくるものがあり、ずいぶんと遠くから聞こえるそれは人の声のようだが港のものではないらしく、徐々に近づいてくるその声は「お客さん」と私に呼び掛け、どこか聞き覚えのあるその声は幾度も私に呼び掛け、「着きましたよ」との声に眼を醒ましたそこは自宅マンション前に停車したタクシーの後部座席だが左側にいくらかひんやりとした空気を感じるのはドアが開けられているからで、寝覚めの悪い夢を振り払いつつ車を降りると妙にふらつく足取りでマンションの階段をあがっていくというような都合のいい展開にはどう足掻いてもなりそうになく、眼を開けたそこは相変わらずモノリスめいた冴えない物体の内部にほかならない。
そうして私が明瞭な思惟を喪失しているあいだにも事態は進行していて、横倒しになった椅子の傍にひどく不自然な恰好で転がっている自身を見出したその前後と思しいが物体が移動をはじめ、揺れも振動もほとんど感じないがいくらか下向きにGの掛かったところからして上昇しているらしく、どこへ移送されるのか分からないから不安は尽きないが港扮する異星人の洩らした皆殺しという言葉が脳裡を掠めてほとんど絶望的な思いに沈み込み、絶望的であればあるほど逆転の可能性も高いという陳腐な展開は全然期待できないから覆し得ぬそれは決定事項なのだ(註─とはいえそれは誰による決定なのか※21、私にはもう一切の権限がないのだ。港の言うようにただの傀儡にすぎぬ私に最早為す術はない)とさらにも落ち込んでいき、とはいえあれが本当に港だとすればいずれ種明かしをするはずで、いや港のことだから噫にも出さぬかもしれず、こちらが問い詰めてようやくああそんなこともあったなあとかしれっとして言いそうだが、いずれにしろどこかでケリがつけられるはずで、そうでなければその言葉通り処刑されてしまうに違いなく、賭けに負けた罰ゲームという不条理窮まりない理由とも言えぬ理由で何ら釈明の余地もなく処刑されるのだと思うとまったくやり切れないし何もかも投げだしたくなる。いや、投げだしたって一向構わないのだが書いてしまった以上あとには退けないし、何某か示さぬことには先へ進めないとすればそうするよりほかなく、そのせいか観念してしまったわけでは全然ないのだがいったい自分はどんなふうに殺されるのだろうとまた要らぬ想像をしてしまい、でき得るなら近代的な安楽死が望ましく、火刑や生き埋めは勘弁願いたいし拷問などは絶対に嫌だと訴える声というか思念は華細く弱々しげでどこにも届く様子はなく、仮に届いたとしても向こうの匙加減ひとつだからただ祈るしかなく、虚しい祈りを祈るうちにも物体は下降をはじめるが、ソフトランディングというかまったく着地の振動を感じないから着いたのか着いていないのかまるで分からない。
※21
もちろんそれは、彼自身の決定にほかならない。つまり彼が、彼自身を断罪しているということなのだ。しかし、なぜ?