そんなもの分かるわけがないし分かりたくもないと思いつつ直言することは避け、そうかといって惨事と言いながらあやふやな情報よりほかにその惨状のほとんどが祕匿されている(註─戦争が情報操作なしにあり得ないのは自明だから透明な戦争とかガラス張りの戦争などあり得ようはずもない)からいまいちピンと来ないし、本当に総力戦など行われているのだろうかと訊いても詮ないとは思いながらも訊かずにはいられず、真正面から真剣に問うてみるが「そりゃもう大変」バタバタ人が死んでいると変に戯けた物言いで姉は逃げるから信憑性に欠けるのだった。あるいはそのように努めて明るく振舞うところが事実の悲惨さを物語っているということなのか、それとも言葉通りの戯言と見做すべきなのか、いずれともつかぬからもどかしく、総力戦に批判的だった港はどうしているのかと矛先をちょっと変えてみれば、酔い潰れて寝ちゃったわ、でもそんなことあなたには関係なかったんじゃないかしらと狡猾な笑みを姉はチラと覗かせて脅しを掛けるかに私に視線を固定する。思えば私はこの高橋の姉という人物のことを、いや、姉のみか妹のほうさえよく見知っているわけではなく※18、いやむしろ全然知らないとさえいっていいわけだがなぜだかその笑みの感じが姉のものとは異なるように思え、何がどうと言われると返答に困るのだが(註─これこそ物語的ご都合主義の最たるもので、いみじくも港が言ったように傀儡に堕していると言っていい。ここまで蝕まれてしまうと最早治癒は困難だが、治療の必要を感じているのは私ではない)この女、本当に高橋の姉なのかとの疑念が不意に兆し、間近に見れば見るほど疑念は膨らんでいき、印象が異なるとの直感を改めて吟味してみればどことなく面差しが違っているように感じられ、聞くところによると学者先生とのことだがそんなふうなお堅い印象は少しもないし、たしか最初に会ったときも優等生的な生真面目さが鼻につく感じだったようだがそれやこれやが綺麗に拭い去られているようで雰囲気からして違うからやはり変だと懸念はさらにも深まる。マンガとしか言いようがないが妹の変装のようにも思え、そう思って再度仔細に観察してみれば年嵩に見せているが目尻や口元に目立った皺は見られないし肌にもいくらか若やいだ張りを感じるし全体五〜六歳くらい若くなったような印象で、自身の観察眼に絶対の自信があるわけではないが(註─今となっては誤謬の可能性が高いのだが)間違いなくこれは妹のほうだと確信する。
それに気づいたかして問いかけるふうに覗き込むから率直に思うところを述べてみれば「なかなか鋭い指摘ね」と感心したように頷いてみせるが「でもねえ」と妹は(?)留保を示し、一旦こちらを食い入るように見つめるが不意に視線を逸らして外のほうを窺うふうを装いながら惜しいかな論拠が不充分だと斥け、その場の思いつきだけで乗り切ろうなんて無理な話で事はそんなに簡単じゃないんですからと姉(?)は軽くいなし、真剣味が足りないとわずかに声を高めるとふざけている暇があったら書いて下さい先生と耳馴れぬ単語を発して督促する。してみると私はやはり作家先生で締切り間際なのに全然書けていないから担当編集者が焦っているという設定なのだろうか、それにしてもいつからそんな設定になったのだろうか、設定の変更など頼んだ覚えはないから向こうのサービスと見做すべきなのか、あるいは何か手違いがあったのかもしれないから「先生はあなたのほうでしょう」と探りを入れてみると今気がついたというように驚いてみせるが「でもあなた、物書きなんでしょう?」書くことに関しては專門なのだからそれこそ妥当な選択ではないか「違いますか、先生」と妹(?)は執念くそれにこだわる。誰も知らないちっぽけな賞をひとつ貰ったくらいでさして注目されたわけでもないし、鳴かず飛ばずで疾うに廃業した者を物書きとは言わないと客観的事実(註─これは本当だろうか、私は作家先生なのだろうか? だとしたら糸杉というのはその作家先生の)を語り聞かせて先生などと呼ぶのはだからやめてくれないかと控えめながら訴えれば、社会的評価は問題としない、というよりこの未曾有の惨事にそんなもの何の役にも立ちはしないのだと今が非常時ということを殊更姉(?)は強調し、それから何か得心したように小刻みに頷いて妹が喋ったのだろう余計なこと言うんだからと眉を顰め、次いで私のことなんかどうだっていいのに独りごちる。そのいかにも投げやりな態度が気になってそれがこちらの気を惹こうとしての投げやりさにすぎないとなかば懸念しつつもどうだっていいということはないだろうと口を挟むと、追従的な笑みを姉(?)は浮かべるがすぐに笑みは曇って困惑に取って代わり、人のこと気にしてる暇があったら書いて下さいよ先生とノートを指し示して督促をくり返すが、仕事一徹で色気のないところは姉の属性だから(註─よく知りもせぬ人物に対するこの断定はいかにも不自然だ)やはりこれは姉のほうかと思い直し、それでも尚疑念は去らず姉なのか妹なのかもう私には判別不能で、ただ高橋と括るよりほかないその高橋についでと言っては何だがもうひとつ訊きたいことがあると切りだすと、妹との関係についてだろうと図星を差されて言葉に詰まる。そんなことを訊いてどうするのか今さら蒸し返したところでどうにもならないと訝しげに高橋は見つめ返し、探るような視線をしばらく注いでいるが急に分かったと声をあげ、港に唆されたのだろうあの人自分のことは棚にあげるくせに人のことになるとああだこうだと口出しするから嫌われるのよねと嘆息し、「ホントに、何考えてんだか」と呆れたように呟き、港が何を言ったのか知らないがその甘言に乗ってはダメよあなたにはやることがあるのだから今はそれに専念してもらわねば困ると高橋はその細くしなやかな腕(註─この特徴は妹のもので、してみるとやはり妹なのか?※19)を絡めてきて「知っておいたほうがいいと思うから」と耳許で囁き、そうすれば仕事も捗るだろうと請け合うのだった。
手っ取り早く仕事を片づけようとの気はないが何か有力な情報を得たというのなら聞いておいて損はないと考え、それでもあまり期待はせずにヤマトの帰還する日取りでも分かったのかと問うてみれば「そんなこと分かるわけないでしょう」ときっぱりと否定するからほかに何があるのかと訝り、いったいそれは何かと端的に問えば「本当のこと」と端的な答えが返るが、こちらを見つめる高橋の眼は妖しい笑みをたたえているからその先を問うことがためらわれ、何かまた篭絡しようとの腹に違いないと警戒を強める。皆が皆本当のことを教えたがるその真意が分からぬしどうせまた嘘に決まっていると予防線を張りながらも意識の大半はもう聞くことを欲していて、流されやすい自身の斯かる性向にいくらか辟易するが話しだす高橋を押しとどめることはもうできず(註─なぜならここで拒否することは物語的展開からの著しい逸脱を意味するだろうから主人公としては諾うよりほかないのだ)、静かにノートを閉じると脇のほうへ押しやり、その空いた空間に片肘を乗せて首を少し左に捻って上目に相手を見返せば、少しく体を後ろへ引いて背筋をピンと伸ばした高橋は話をはじめ、いや、はじめようとするが糸杉の疑念的眼差しにいくらか憤りを覚え、今さら蒸し返しても仕方がないと自ら口にしたことを後悔するが、これを言うためにこそここへ来たようなものなのだから今さらあとには引けないと話しはじめ、そうして一旦口火を切れば糸杉の食いつきがいいから徐々に口舌も滑らかになる。調子に乗って要らぬことまで喋ってしまわないかとそれがちょっと心配だが、煙草を取りだし火をつけながら今さら心配してもはじまらないとその小心を笑う余裕はないながら待ち、それから一時間が過ぎてもしかし一向に来る気配がないから不審に思い、ケータイは繋がらないしすっぽかされたかと帰ろうとしたころになってようやく現れるが、苛立ちを隠さず無言で睨めつければさすがにうろたえて口をパクパクさせながら身振りを交えて何ごとか伝えようとするそれはしかしこちらの苛立ちに怯んでの弁明ではなさそうで、何かべつの脅威に対して怯えているのらしく、その切迫した面持ちから察するに共有の対象と言えそうだが、そうとすればほかに思い当たる節はないからついに露見したかと危惧してそれまでの苛立ちは跡形もなく霧消してしまう。不意に兆した不安が問うことをためらわせ、無言の対峙がいったいどれほどつづいたのか定かではないが注文を取りにきた店員によって凝結の時間から解き放たれ、そこでようやく何が起きたのかを問うことができ、最悪の事態なのかと怖れつつ答えを待てば、表情を失った紙のような顔が首を軸にゆっくりと右のほうへ回転するとともに視線もそのほうへ向けられ、誘うようなその動作に導かれて向けた視線の先には見たことのある影がトイレのほうからゆっくりとこちらへ向かってきていて、その常と変わらぬ物腰に却って底意地の悪さを覚えてしまうそれは妹で、駅でばったり出会したと言うがまさかそれを鵜呑みにするわけもなく、仕事も放ったらかしてずっと尾行していたと考えるとちょっと怖いが妹ならやりかねない。こういうのを修羅場というのだろうかと変に納得して自身の置かれた状況を冷静な眼で観察しながらどうしてこうも冷静なのかとふと思い、普通このような場合もっと感情的に昂ったりするだろうはずなのに、さっきまでの不安が嘘のように消し飛んでふたりの女に板挟みになって身を縮こまらせている糸杉の小心を笑う余裕すらあるのを訝り、いつもの癖といってしまえばそれまでだしそんな自分を嫌いではないが今だけはちょっと疎ましく、つまり傍目に太々しく映るだろうその態度が自分を悪者にしてしまうからで、港も時どき疎ましげな態度を見せるがたしかにそんなふうな眼で妹はこちらを睨めつけているようだから損な役回りだと充分に見つめ返してから窓のほうへ首をねじ向け、これから展開されるだろうややこしい話し合いに早くも憂鬱になる。
※18
このあからさまなシラの切りようには呆れてしまう。※19に示す意図の伏線と見られるが、ここまであからさまだとかえってその裏に何があるのかと勘ぐってしまう。
※19
ふたりの人間を、恰もひとりであるかのように見做すということは、いずれか一方の抹殺を意図したものと考えられる。それが彼の真意ではないことを願うが、ここに見られる彼の混乱が多分に意図的なものだということは、指摘しておかなければならない。これが何らかのアリバイ工作だということは、間違いない。その一方で、※18にも示したように、このあまりにも露骨な記述には疑念をおぼえる。