出ていったきり高橋の戻ってくる様子が一向にないから何か企んでいるのではないかと危惧し、今のうちにズラかったほうがよくはないかとなかばテーブルに突っ伏すような恰好で尚ひとりブツブツ呟いている港に帰ろうと呼びかければ「帰るってどこへだ?」と不遜げに睨めつけて帰るトコなんかありゃしない、オレにもお前にもここがすべてなんだと言って億劫そうに身を擡げ、グラスを呷るがすでにカラなのに気づくとひどく落胆したようにテーブルに戻しおいて萎びたキャベツの芯を茫と見つめながらここだって仮構にすぎない、オレの知っていた現実はどこか手の届かないところへ行ってしまったもう何もかも変わり果ててしまったとひどく年寄りじみた嘆息を洩らす。キャベツの芯から視線を剥がすと港はこちらへ顔を向け、私を見据えているようだがその焦点は定かではないし言っていることも支離滅裂で、高橋とのことが妻に露見したとかで離婚を迫られているとか家にはもう二ヵ月いや三ヵ月帰っていないとか何が辛いって娘に会えないことほど辛いことはないとか戦争が激化すれば会えるものも会えなくなる可能性もないとは言えぬから今のうち娘に会わせてくれるよう妻に掛け合っては貰えまいかとか止め処もなく、最悪の愚痴モードに雪崩れ込んで手の施しようもない。酔っ払いの相手はうんざりというかに首を竦めてひとり席を立つと待てよまだいいじゃないかと絡んでくるが、きっぱりと帰る旨告げて振り払おうとするとオレだっていろいろさ、見てきてんだからちったあ役に立つぜ、人の話は最後まで聞くもんだ「そうだろ? 糸杉」と港は不適な笑みを片頬に浮かべ、はあと曖昧に返して留まりかけるもののその不適な笑みに少しく疑念を懐いて再度よく思案してみるに、長年上司としてその下で仕事してきた関係上、少なくも高橋よりは信憑できるかもしれないがすでにその強い影響下にあってそれに感染してしまっているとすれば聞かないほうが得策だとやはり拒否の姿勢を示して行こうとすると、港は私の腕を掴み、そういうわけにはいかないさ膳立ては万端整っているわけだしみすみす主人公を手放すわけにもかないのは自明だろうと酔眼を見張らせ、最後通牒でも示すかに一切の主導権はお前にはもうないと告げ、いや、オレらには自分の意思なんてものはないんだ「傀儡だよ分かるか? かいらい」抵抗しようたって無駄だ到底適いっこないんだと不貞腐れたように吐き棄てる。戦争のことを言っているのだろうか、高橋の言っていた軍事独裁政権のことなのか、総力戦の間近いことを怖れているのか、いよいよ人類滅亡の日も近いのかとマンガめいた空想を巡らせていると戦争など関係ないもっと根源的なことをオレは言ってるんだ仮象に惑わされんなと巻舌で港はまくしたて(註─何らか警告を発しようとしたことは理解できるが、いったい港が何を言いたかったのかはさっぱりで、あるいは妻との復縁を求めているのか、ただ娘に会いたいだけなのかものしれない)、全体お前はどこへ行こうとしているのだとそう港は問う。どこといってただうちへ帰りたいだけだとその意を告げれば何が可笑しいのか急に笑いだしてしばらく止まず、その余韻を引き摺りながらつくづくおめでたいやつだと嘲るように港は言い、そんなことに拘泥しているうちは見込みなしだな、もっとできるやつかと思っていたが期待外れだったと嘆息するが、そんなふうに嘆息されても事実そうなのだから仕方なく、酔っ払いの相手はこれまでと踏ん切りをつけてやんわりとしかし決然とその手を振り払い、ひとり意味不明の呟きを呟きつづける港を残して室をあとにするが、その向かった先がどこなのか今ひとつ分明ではなく、ただ闇の中を無作為に歩いていただけのようだが何かに導かれていたようにも思えるのは歩みに一点の迷いも見られぬからで、前進しているにしろ後退しているにしろ至り着くところは恐らく同じ場所だろうからそのカラクリをこそ解明せねばならないのだが、事実は錯綜していて容易には解き得ない。
いつの間にかすぐ後ろに高橋がいるから焦るが、闇に紛れて気配もさせず人の背後に忍び寄るとは端的に殺害の可能を知らしめる底の脅しと言ってよく、やはりそこへ至るほかないのかと内心の動揺を押し隠しつつ早足になると逃げると察してか袖を掴み、思いのほかそれが強い力でとても振り放せぬから警戒しつつも立ち止まるとちょっと来てと眼顔で高橋は促すが、はい分かりましたとは最早行かぬからためらいがちに首振ると、嘲るような笑みを返して何も言わず歩きだす。港の言を間に受けたわけではないがここはひとつ主人公としてすべてにおいて積極果敢に立ち向かうべきと腹を決めて前を行く高橋に従えば、その高橋の足取りが何だか妙でゆらゆらと陽炎めいているから気味が悪く、今決意したばかりの意気込みが早くも挫けそうになり、気を紛らそうと今までどこへ行っていたのか資料は見つかったのかと問えばいつまでも些末なことにこだわっているからあなたはダメなのだと港と同じことを高橋は言い、次いで本当のことを教えてあげると囁くが、その言葉は何度か聞いたような気がするしいずれにおいてもそれが本当だった試しはなさそうだから容易には信憑できず、ゆらめくその背を怪訝に見据えていると「あなたにい、ほんとうのことお、教えてええ、あっ、げっ、るう」と妙な節をつけて高橋はくり返し、戯けているのか知らないがちっとも可笑しくはなく、むしろ四壁に無気味に反響するから止してほしいと頼めば「あら怖いの?」と無邪気に笑ってほらそこよと通路の先を顎で示し、見るとそこにはドアがひとつ蛍光灯の光に照らされてあるが今し方出てきた港のいる室のようでもあり違うようでもあり(註─同じなのだ、どの室もすべて皆同じ部屋なのだ、違うと見せ掛けているだけなのだ※12)、促されて入ったそこにはしかし誰もいない。
刑事ドラマの取調室のような簡素な机があるきりのそこは殺風景な一室で、掛けろと言われて椅子に掛けるとその向かいに高橋は坐り、いやあな展開が予想されるなか落ち着かなくて視線を彷徨わせていると「しゃんとしなさい」仮にも主人公なのだからと語調は物柔らかながら眼光鋭く高橋は言い、その不意の叱責に少しく怯んでべつになりたくてなったわけではないとさっきの決意も忘れて不平がましく呟けば、呆れたというように高橋は首を竦めるが気持ちを切り替えるかに殊更な笑みを繕って「それよりコレ、あるけど飲まない?」と机の下からキリンラガー二缶を枝豆ほかいくつかのつまみとともに出してくる。港を差し置いてこんなことしていていいのか、あとで露見したら何言われるか分からないと懸念を示せば「あの人飲むと手がつけられないでしょ」だから一緒にはちょっとねと苦笑し、港にはキャベツの芯でも食わしとけばいいのよと悪戯っぽく高橋は笑って長い爪を傷つけぬよう注意深くプルタブを起こして缶を開けながら「それにあの人がいたらろくに話もできないでしょ」と手厳しいが、これには同意を示して頷けば少しく落胆したように「人望ないのねえ」と頬杖をつき、強ち人望がないわけではないと港を弁護するつもりはないながらただちょっと愚痴っぽいだけなのだと言えば「そう」と素っ気ないがそれなり納得はしたようで、飲みましょうとラガーを勧める。暢気に飲んでいる場合ではないような気もするが主人公としては逆らえぬらしく、尤も話があるということだから聞くだけは聞いておこうとラガーを手にすればよく冷えているからもうそれだけでなかば以上緊張は解れてしまい、次いで一口含めば完全に飲む体勢で腰を据えてしまってたとえ危地に陥ったとしても主人公がどうにかなってしまうなんてことあるわけがないとご都合主義も甚だしく、高橋が一向話を切りださないのも誘う口実にすぎなかったのだとさして不審も懐かなかった。
一缶空けるとすぐに二缶目が出てきてそれをカラにするとさらに次が用意されるという持て成しようだから端的に悦に入ってしまうが、その度を超したサービスに坐っただけでチャージ料五千円つまみが五千円なんてなことないだろうな、総力戦を控えたこの非常時だから※13料金が暴騰しても不思議はないと一瞬脳裡を過るがほんの一瞬ですぐと忘れてしまい、思えばこうして素性も分からぬ女と差し向かいで飲んでいること自体妙なことで、意気投合したとかそういうことでは全然ないのだが酔いの進むうちに斯かる疑念は噫と一緒に吐きだされ、肌触れ合うほどの親密さとはいえぬながらも港抜きの楽しいひとときをそれなりに満喫したことはたしかだ。とはいえ楽しいことがいつまでもつづくなどということはやはりあるはずもなく、酒もつまみもなくなってしまうと座は一挙に盛り下がってお開きムードが濃厚となり、これ以上留まったとして手土産のひとつも出るわけではなかろうからここらが潮時と判断して暇を告げて去ろうとすると待ってと高橋に呼び止められ、話があるって言ったでしょう楽しむだけ楽しんでおいて嫌な展開になると知らぬ振りして済まそうとする「あなたはいつもそう」と酔眼とは明らかに異なる冷めた眼差しで見据えられ、どういう加減かその一睨みで体内に残存するアルコールが一瞬にして揮発したかに酔いも冷めてしまい、さらにはみるみる顔色が青褪めていくのが分かり、それが何だか可笑しいが笑いの生じる前にそれは霧散してまるで異なる重苦しい苦渋の面持ちが表出してくるからやり切れず、こんな状態では無理だと高橋に背を向けたまま気分が優れないから詳しい話はこの次と断わって歩きだすと恐い顏して開るようにドアの前に立つから聞かずに帰るわけにもいかないらしく、已むなく椅子に尻を戻すが本当のことなどべつに知りたくもないと牽制してみる。ほんの一瞬の冷笑でそれを軽くいなした高橋は、そうはいかないあなたが良くても私たちが良くないのだとどことなく切迫した面持ちになり、あなたがハッキリしないことで世界が不確定なまま混乱を窮めているのだからきっちりカタをつけてもらわねばならないと迫り、一段声を低めて一応これは閣議決定だと付言すると一転して不安と苛立ちの入り混じった苦悶の表情を浮かべ、「ぜんぶあなたのせいなんだから」と詰るのだった。
※12
彼のこの頑なな思い込みが事態の進展を著しく阻んでいるということは、容易に諒解できる。翻せばそれを覆すことさえできれば、すべてが一挙に解決に至るのかもしれない。
※13
彼の否定して已まない戦争。それが現実だということを、彼はここで認めている。