友方=Hの垂れ流し ホーム

1 2 3

戻る  

10 11 12 13 14 15 16 17 18

13

酔ってはいない、いや少しは酔っているが正気は失っていないとこちらの疑念を察したのかそう高橋は言うと少し呼吸を整えるかに大きく息を吸って吐き、心持ち赤味の差した胸元がそのたび上下するのを妙な既視感とともに眺めつつ閣議決定とはいえまるで身に覚えのない負債の返済について思いを巡らせていると、鋭い眼光が再度私を捉えて何ごとか言うようだが何を言っているのかいまいち理解できず、いや、言語は理解できるもののその解釈に戸惑うほかない内容だから首を傾げざるを得ないのだった。芝居ならさしずめ決めのセリフというようにちょっと斜に構えた高橋は、港はまったく当てにならないから先に言ってしまうが糸杉なんて人はいやしない、便宜的に拵えたそれはただの仮構にすぎず、そのような仮構の糸杉にはやはり限界があるし仮構で押し切ろうなんて虫がよすぎるそうは思わないかと一息に捲くしたて、次いでそろそろ選手交代の頃合いなのではないかとまるで自身がすべてを統括すべき絶対者だとでもいうようにそう高橋は告げると、黒幕さんにお出まし願いたいと私の肩へ撓垂(しなだ)れかかってくるのだった。これを酔っ払いと言わずして何を酔っ払いと言うのか私には分からないし、その指摘をまさか間に受けることはないが自身を蔑ろにされているようでいくらか腹が立ちもし、答えるのもバカらしいと黙しているとひどく深刻な眼差しで「あなたは糸杉なんかじゃないの」騙されているのだときっぱりと断言するが※14、その根拠が不明だし騙されているとすればほかでもないこの高橋にであってそれ以外の誰に騙されることがあるのかと私は憮然とした面持ちで高橋を眺めやるほかない。さらに念押すようにあなた自分が何者だか分かっているのかと高橋はまた港と同じことを言い、いや、そうではなく、港のほうが高橋の言葉を口にしていただけなのだと気づき、その途端逃れようもなく囲い込まれてしまったような気がし、深々と楔を打ち込まれてしまったようにも思い、辛うじて発する「糸杉」との声はだから華細く弱々しく言うより早く掻き消えてしまいそうで相手に届いたかどうかも定かじゃないが、これらは悉く酔っ払いの戯言にすぎないと斥けようとしても執念く纏わりついて離れず、そのうち言い知れぬ喪失感に全身包まれてその語の意味するところさえ捉えられなくなり、何が起きたのか分からぬまま縋るような視線で訴えるも自分にはどうすることもできないと高橋は首を振る。話は済んだとみえてそれきり押し黙ったままただこちらを見つめている高橋の唇はしかし物言いたげに微かに震えていて、主人公としては何か気の利いたセリフのひとつも掛けるべきなのかもしれないが生憎と自分のことで手一杯だから神妙な顔つきで見返すのがやっとで、そのまま踵を返すと無言で室を去るが自身の足音とは異なる奇怪な物音がヒタヒタと耳朶の奥深くに纏わりつき、思惟ほかのあらゆる機能が巧く働かなくなってしまったようにぎこちない動きをしているそれはもう糸杉とは似て非なる何かべつのもののようで、糸杉と何ひとつ変わるところはないのにもかかわらずまるで別様の存在へと変じてしまっているのだった(註─変なコトを吹き込まれてしまったために感覚までもが変なふうに拗(こじれ)れてしまったのらしい)。

高橋の言うようにもう糸杉では限界なのかもしれない。総てを糸杉に負わせるのはやはり無理があるのかこれ以上の進展は望めそうにもないのだが、すでに糸杉は一人立ちしてしまっているし今さら引っ込めるわけにも行かないだろうから無理を承知で捩じ込むよりほかなく、脈絡なく求心的な力が作用して闇の中に霧散する間際に糸杉は糸杉として再定立されてしまい、その不可解に疑念を差し挟む余地もなく「糸杉」としかしさっきとは若干異なる張りのある声が響き渡り、その途端にわけの分からぬ充実感で身の内を浸され、荒み涸れかけていた思惟が瞬時にして潤うのをさして訝ることもなく、一風呂浴びて疲れを洗い流したというようなさっぱりした面持ちで颯爽と歩きだす私は紛れもなく糸杉で、危うく篭絡されるところだったと危難を脱した主人公よろしく決めのポーズで後ろを見返ればまだ高橋の姿がある。消え入りそうなそれでいて艶のある声で主人公を呼んでいるからやはり帰しては貰えぬのかと訝りつつ警戒を強めればそうじゃないと首振りながら狭い通路を駆けてきて、私にはこれくらいしかできないけれどと徐ろにどこからともなく取りだした四角いものを高橋は差しだす。見ればそれはただの大学ノートで、何でもいいから好きなことを書くといい、添削は姉がしてくれるって言ってたから、あの人、アレでも教授なんだよね、見えないでしょう、あなたにずいぶんとご執心みたいだけど、よっぽど暇なのねと患者を励ます医者のように私の肩に触れてやさしく撫で下ろしながら笑ましげに言う高橋は糸杉の主治医なのだった。過酷な戦争を生き延びはしたものの敵の撒布した毒ガスに脳をやられて余命幾許もないこの身の最期をあたら地下豪で暮らさねばならない不運に無念は尽きず、ヤマトが放射能除去装置をイスカンダルへ取りに行って帰ってくるまでまだまだ幾ヵ月もあってそれまで生き延びられるかどうか恐らく無理だろうと思うと鬱屈はさらにも深まり、先生何とかならないのでしょうか私はもうダメなのでしょうかヤマトの帰還をこの眼で拝むことは無理なのでしょうかと縋る思いで訴えれば、先生は大きく首を横にお振りになり、心配しなくっても大丈夫あなたはきっと助かるわ、いいえ必ず私が助けてあげますとニッコと微笑んでくれましたがそれでもまだ不安の澱が喉元に閊えているような気がするものですから尚問い質さずにはいられませんで、ヤマトは見られるでしょうか、ええもちろん見られますとも、本当ですねと執念く問えば翳りの微塵もない笑みで「あら私がウソを言ったことありまして?」と先生は言ってくれたのです。たしかにそう仰いました。ええ間違いありません。思いやりに満ちたそのお言葉が凍えきった私の心を温め溶かしてどれだけ私を勇気づけたことでしょうとここはそんなふうに書くのが筋のところだが、事実はそんなふうな展開を見せることもなく、不安の解消することはだからなさそうで、頼みとすべきものを見出し得ぬ心細さにうち震える私に高橋はとにかく何か書けと言い、それがただひとつの辛うじて有効な対抗手段になるかもしれないからとしかし確信なさげに呟き、その視線はこちらの不安を正確に写し取ったかのように暗く澱んでいるが一点微かな輝きを発してもいて、その今にも消え入りそうな小さな光にしかし糸杉は気づかない。気づくはずもない。気づかせてはならない、絶対に(註─しかし気づくほかないのだ)。

不意にどこからか砲声が聞こえた、ような気がした。嗚咽のようにもそれは聞こえ、港だろうかとちょっと心配になるがそう思わせて引き止める手かもしれないと耳を塞ぎ、とにかく今まさに陥っている陥穽から脱するのが先決と何を書けばいいのか分からぬながらクルクルとノートを丸めるとひとりそこをあとにし、ずいぶんと長いこと闇のなかを彷徨っていたようだがいつか開けた幹線道路(註─鎌倉街道と思しいが違うかもしれない)へ抜けでて自宅へ向けて直歩いている自身を見出す。四囲は閑散とした廃墟の街並みでそこかしこに世界を飲み尽さんとする底なしの闇が待機しているのが見てとれ、いや、そう見えたのは私の僻目(ひがめ)で常と変わらぬ日常がそこにはあるらしく、誰も戦争の影になど怯えることなく澱みない時間のなかに安閑としているようだがその分私のほうへ皺寄せがきてしまうのらしく、断わっても断わっても執念く勧誘にくる保険屋みたいで何だか少し疎ましく、そんな疎ましさをこの先ずっと抱えつづけねばならないとすればそれ以上の不幸はないとそれから眼を背けるように空へと視線を転じれば、重苦しい雲が低く厚く垂れ込めて見渡すかぎり天蓋を覆い尽くして気散じを阻んでいるということはなく、抜けるように高く蒼く澄んでいるから爽快で、胸のうちの鬱屈やら何やらをそれが悉く晴らしてくれるということはないにしろいくらかなりと慰めにはなる。風が少し吹いているが生温いその風は微かに火薬めいた臭いを秘めているようで、絶えず戦禍の及ぶ可能性をそれとなく暗示するのだが正しくそれを受容しているのは恐らく私だけで、道行く者は悉く平和ボケの高じた締まりのない口をパクパクさせて(註─月並みな演出と嗤うことができないのは、ある意味糸杉の鏡像と見做せるからだ、いや、糸杉そのものとさえ言っていい)覇気のない呼気と吸気をくり返している。そんな彼らをいくらか羨みつつキナ臭い風を受けて慎重な歩みを運ぶのだが歩みは遅くなる一方で、幾度となく空を仰ぎ見てはその降り注がれる蒼に許しを乞うて次に踏みだすための力をどこからか都合してくるのだったが、何としてもヤマトの帰還まで生き延びてみせると固く誓うだけの気概はもうなく、だからかもしれないが手にしたノートのほうへ意識が傾いてずっとそればかり気にしていた。歩きながら何か分からぬ衝迫に絶えず突き動かされているがヒタヒタとこの身に迫りくるそれは戦争への怖れなどではなく、書くことを課せられたことに対する漠とした抵抗なのらしいが、針先で引っ掛けたようなごくごく微細な傷ながら何か途轍もない軛(くびき)を負わされてしまったような気さえし、それが筋肉への指令伝達を鈍らせるのかもしれず、うまく足が前へ出ないし真っ直ぐ歩くことさえ儘ならないから困るのだった。気鬱を振り払うようにまた空を仰ぎ、折よく通りかかったタクシーを拾って自宅マンションへ戻った。

※14

ここには、高橋が糸杉をそそのかし、高橋がすべての元凶でもあるかのように書かれている。しかし、わたしの知るかぎり、そのような事実はない。実際のところ、彼がどのように理解していたかは分からないが、このような記述として現れているということが問題だ。

10 11 12 13 14 15 16 17 18

戻る 上へ  

1 2 3


コピーライト