友方=Hの垂れ流し ホーム

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ひんやりとした空気が肌を刺すそこは観音彫りの狭い通路で、ずいぶんと奥のほうまでつづいているのか先のほうが闇に閉ざされているから糸杉はちょっと怯み、旧時代の炭坑めいたその悪趣味な造りに設計を依頼した者の品位を疑うが先を行く女はそんなことには意も介さずスタスタと歩くから遅れじと糸杉は歩みを速め、ひどく冷たい風が下から吹きあがってくるが埃臭いというか黴臭いというか全体にそれは心地いいものではなく、遊園地のお化け屋敷とか何かそんなふうな印象を懐きもするからその手のアトラクションに弱い糸杉は先は長いのかと問わずにはいられない。すぐそこよと振り向きもせず答える女の姿がしかし次の瞬間フッと掻き消えたから糸杉は息を呑み、そこで通路が分岐していて左へ折れのだと気づいて脅かすなと内心毒づきながら怖ず怖ずとそのあとについて左へ折れるとまたすぐに分岐していてこれも左へ折れ、そうして幾度か左へ左へと折れていくからただ同じところを旋回しているような印象でたしか四回左へ折れたと糸杉は記憶するが、そのあとはしばらく真っ直ぐな通路を直歩いて突き当たったところに扉がひとつあり、脇の煤けたボタンを女が押すとモーターらしき回転音の聞こえるところからしてエレベーターと思しいが、それで地上へ出るのかさらに地下へと降りていくのか分らぬながらまんまと術中に填まってしまったような気がして糸杉は少しく後悔する。斯かるマンガ的展開には書きながら抵抗を感じてしまうがそのような記憶をしか糸杉は持たぬのだし現時点でそれが事実※10なのかどうかも定かではないからほかに表現のしようもないわけで、現場にいる糸杉の疑念的眼差しで辛うじて均衡を保ち得ているようなものだが、それなしには即刻筆を置いてしまいそうなほど嘘臭い記憶だからといって無視することはやはりできず、悪趣味な設計同様そこにも何らか汲むべきものはあると見做して観察者たらんと自身を鼓舞しつつ死地に赴く主人公にでもなったつもりで身構える糸杉はしかしもう主人公ではなくなりつつあるのかもしれない。

相当深いのかエレベーターはなかなかやって来ないからそれを待つあいだに迷いが生じ、一抹の不安とともに女のほうを差し覗くとそれと察してこちらのほうへ向き直った女は、上のほうの造りは万全ではないのか時どきガスが流れ込んでくるらしくて眼や咽喉を痛めてしまうからあまり長居はできないのだと説明するが、尚不審げな眼差しで見つめていると詳しいことは下で聞けると思うけど「どうする、止す?」と念押すように選択を迫る。その人はたいへん見識があるし世間のことにもよほど通じているらしいから納得のゆく説明をしてくれるに違いないとも女は言うが、止したほうがいいということは分かりきっているし内心引き返したくもあったがそんなふうに迫られたら止すとは言いがたく、そうかといって行くとも答え得ないのは蛍光灯の照り返しで冷たく光る扉のその向う側から何かの接近してくる無気味な気配が徐々に濃厚になってくるからで、その拉致監禁の教科書的展開にまったく怖じ気づいてしまって視線は彷徨い思惟も散漫になっていつまでもやってこないエレベーターに不安を掻き立てられながらそれに乗り込んでしまったら最後あと戻りはできないと思い、事実無根の罪を着せられて重い労役を課せられるとか無限とも思える責め苦に苛まれるとか、そんなふうな暗い想念をつい巡らせてしまう。それら陰鬱を誘う想念を払拭できぬままいつまでも答えないでいるとその逡巡に追い打ちを掛けるかにすべては真実で全部本当のことだと女はさらにも挑発的な言辞で惑わそうとし、物腰の柔らかなそれでいて威圧的な口調でこれからやってくるエレベーターに乗るか乗らないかは結局のところあなた自身が選ぶほかなくそれよりほかにこの陥穽から逃れる術はないのだとも言うがどうしても本当とは思えず、それら妄想につき合っている暇はないし況して妄想に加担するなどということはちょっと考えにくく、否とも応ともしかし決することができずに黙していると「じゃあ何、この穴蔵も私の妄想なの? 私が頭のなかで拵えた空中楼閣とでも言いたいわけ?」と妙に艶のある声を四壁に反響させて高らかに女は笑い、妄想というならそれは私の妄想というよりあなたの妄想だし厳密にいうと私の妄想を内包したあなたのそれは妄想で、それから眼を背けるということは即ち自分自身から眼を背けるということなのだと女は早口に言う(註─たしかにそれはその通りだが、女がそれを知悉していることが不可解なのだ)。そんなバカげた論理は受け入れがたく、いや論理でさえないただのこじつけにすぎず、そんなものに同意する気はさらさらないと四壁に反響しない呟きを返せば、何かひどく落胆したように吐息を洩らして「言ったでしょ、私はあなたの主治医だって、忘れたの?」まだボケる歳でもなかろうに下手な芝居はやめなさいと急に思いだしたように医者然と振舞う女に言葉を失い、寡聞にして斯かる手合いとの会話の仕方など知らないし真面に会話できるのかさえ怪しいから相手にしても疲れるだけと聞き流していると、あんまり世話を焼かせないでよねこっちだって手荒なことはしたくないんだからと脅しに掛かる。

さらに語を継ごうとする女の後ろで耳障りな軋みをあげて扉が開き、それに気づくとつづきはあとでというかに目配せして何も言わずその狭い箱へ女は乗り込み、そのあとに従うべきか否かで迷うが女は扉を開いたままにしていつまでも待つ構えで、決断を急かす様子もなく妙に取り澄ました顔つきでエレベーターガールよろしくこちらを見ているからひどく決まりが悪く、その無言の威圧にさらにも怖じ気づいて前にも後ろにも一歩を踏みだせずにいると、臆したのかというような嫌味な微笑を女が浮かべているのにふと気づき、それを無視して引き返してもよかったのだが、いやむしろそうすべきだったのかもしれないが罠と懸念しつつもなぜか女には逆らえず、というより否応なしに危地へ赴いてしまうのが主人公たる属性なのだからそれを回避する手立てを持たぬのは当然で、恐らく女はそれを知悉していて(註─確たる証拠は何もないがそうに違いないのだ)、妙に冷ややかな笑みを浮かべて「下へ参りまあす」などとやったりすることからも端的にそれは窺え、以後の展開を見越したうえでのそれは計算尽くの笑みと声色にほかならない。ふたり乗ったらもう一杯の狭い箱はよほど旧式なのかそれとも整備不良なのか金属の軋む音が不快に響いてさらにも不安は募り、まさか落ちるとまでは思わぬながらそんなことを危惧させかねぬほどのそれは異様な響きで耳を聾しつづけるから先行きの不安は底知れず、壁面に背をピッタリと貼りつけて凌いでいると女がチラと覗き見て、その眼はしかしどこか頼りなげだし不快げに顔を歪めてもいるようだから尚さら恐怖を誘い、選択を誤ったやはりあそこで引き返すべきだったと物凄い軋みで下降するエレベーターのなかで後悔する。幾度となく固唾を呑んだ果てにそれでもどうにか無事にエレベーターは停止したようで、扉が開くとともに眼顔で促す女に軽い一瞥をくれてから一歩を踏みだすが、通路に面していると思い込んでいたそこはもう部屋のなかだったから声にならない引き攣った叫びをあげて踏みだしたその足を再度後ろへ引き戻してしまうが後ろから女に押しだされ、つくづく悪趣味な造りだと舌打ちつつ警戒的な視線を素早く巡らせれば、さっきの部屋とほとんど変わらぬ趣きの簡素な部屋だが、香のように一筋立ちのぼる煙草の煙の際立つ漆黒の座机に女がひとり端座していて、長めのスカートから崩した脚をほとんど太腿の辺りまで露わにしたその女は山のような書類を前に忙しそうにしているから自然一室は立ち入る者に静粛を強いる緊迫した空気に囲繞されていて、女の捲る書類の乾いた音のみが静寂に支配された一室に響き渡る。

※10

彼がマンガ的と評してその事実性を疑っていることが、紛れもなく現実そのものだということは、わたしには瞭然なのだが、彼にはそれを隠蔽しなければならない理由があるらしい。彼が疑いの目で見つめているもの、それは彼自身なのではないか。早計は避けるべきだが、強ちそれは間違いでもないと、わたしは考える。

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