友方=Hの垂れ流し ホーム

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上から物を言う医者然としたちょっと尊大な態度で「全部ね、あなたの妄想ってことにしても」いいのだがそれでは負担が大きすぎるからいずれを真と見做すかは糸杉の判断に任せると自己の寛大さを示すかに女は告げ、専制的な押しつけは症状の悪化を招くだけだからと付言するその口振りはいかにも取ってつけたようで白々しく、その辺の事実関係の調整が案外難しいのよねとひとり呟くように言うに至ってはそのわざとらしさに却って深読みしてしまうが、確実に言えることは何かが決定的に奪われてしまったということで、取り返し得ぬ何かが、不意に、跡形もなく、掻き消されてしまったのだと女は一語一語句切りをつけて強調し、糸杉を見据えながらその焦点はしかし定かではなく、狂者の眼差しとそれを断言はできないもののそれに近い虚ろで濁った眼差しで女は尚も糸杉を見る。頷くことも首振ることもしないで最後まで糸杉は聞き終えるが、こんな狭いところにずっと閉じ籠っていたらおかしくもなるといくらか女を憐れみ、そんな女と一緒にいたら何だかこっちまで変になってしまいそうな気がして長居すべきではやはりないのだと改めて糸杉はそう判断し、殊更尊大に振る舞って対抗するような愚は慎んで女の様子を窺いながら帰るタイミングを狙っていた。

一室には古新聞よりほか何もないから退屈なのは否めず、女と差し向いなのがもうかなり気詰まりだしその法螺話を聞くのはそれ以上に耐えがたく、テレビくらいないのかテレビを観たいと糸杉が頼むのは眼前の退屈を回避しようがためというよりは端的に女の口を閉ざしたかったからだが、テレビなんて低俗だと女は一笑に付し、ないのかと問えばあるけど最近は電波もうまく届かないようで真面に映らなくなったから疲れるだけだと却下される。そこで引き下がってしまうのは何だか癪でテレビのすべてが低俗なわけではなかろうと反駁する糸杉に押し並べて低俗だし斯かる飢餓状態で過剰な情報に接すればそのすべてを鵜呑みにして正しく受容することもできなかろうから止したほうがいいと諫言に紛らして女は首を縦に振らない。それじゃあ仕方がないから帰ることにすると糸杉がその意を示すと怪訝そうな面持ちで外は危険だから出てはいけないといよいよその真意を明かすかに女は言明するのだったが、遠回しな問いは却って女に利するかもしれないと自分はすぐにもうちへ帰りたく、会社へも出なければならないしここからじゃケータイも巧く繋がらないのだとそう糸杉がいくらか声を荒げれば、何が可笑しいのか女はケラケラと笑いだし、呆気にとられて見つめる糸杉を前にいつまでも笑いやめないから「うちへ帰るのがそんなに変なことですか」と憮然として遮ると、尚笑いつつも「だって無理じゃないですか、そんなこと」と女はその不可能を指摘する。つまり女に糸杉を解放する意思のないことをそれは意味していて無防備なのは女ではなく糸杉のほうだったらしいが、それまで燻っていた懸念の現実と化したことにさして糸杉は動じることもなく、寛げる空間だとかいってあまりに暢気に構えていたことをちょっと後悔したもののやはりそうかと頷きながら監禁の意思をあらわにした女への怒りというよりは自身に起きていることの不可解さに、というかその滑稽さに妙な可笑しみを感じてしまうのだった。

訊くだけ無駄とは思いながらも女の口から直接その犯行声明を聞きたいとの已みがたい欲求には勝てず、尚も含み笑いを浮べている女になぜ無理なのだと訊けば、分かりきったことを訊くというように鼻に掛かった笑いの奥から返ってきたのは「だって戦争なんだもの」という答えだった。一瞬戦争の意を履き違えてはいないかと糸杉は考えてしまうが、国家間の武力闘争武力衝突の意での戦争というよりほかに考えようもなく、意味もなく戦争とくり返せば「そう、殺しあいしてるの」と女はこともなげに言い、とはいえその口振りから推して冗談としか思えず、その戦争のさなかに危険をも顧みず近所のドラッグストアで買い物をしていたのかと突っ込んでやりたかったがそれこそが女の策略かもしれぬから少し矛先を逸らして戦争など珍しくもないがいったいどことどこが戦争しているのかと面倒臭そうに糸杉が問えば「分かんない」とこちらも面倒臭そうに答え、ただハッキリしているのは現在この日本が戦時下にあるということくらいだとリアリティーの欠片もない言説を既に諒解済みのことだというように語るのを聞いて不覚にも糸杉は笑ってしまい、その可笑しさを怺えることはできなかった。そうかといって嘘と分かる嘘は事実以上に質が悪いし却って猜疑を深めるだけで何の益もないと次いで糸杉は不愉快になり、秘すべき何がそこにあるのかと勘繰ってしまうがただの戯言にすぎないのかもしれず、いや戯言に決まっているが、この場合糸杉の取り得る策として女に口裏を合わせるべきなのか、それとも女の非理性を断固排すべきなのか、そのいずれかで以後の展開にも差異が生じるだろうからどれほどの影響をそれは及ぼすことになるのかと糸杉は思案しつつ戒厳令でも布かれていてそれでこの狭い一室に押し込められたままなのかといくらか嘲るように言ってみる。糸杉に釣られて女も苦笑しながら「笑っちゃうよね。でもホントなんだから」と半身を捻(ひね)り、促すようにチラと背後を顧みて投げだされたままのドラッグストアの品々を示すと配給もわずかになってきたからいよいよ生活にも困ってきたと女は大仰に嘆いてみせる。

ただ少しでも長く糸杉を留めおきたいがためのなりふり構わぬ嘘なのだと思えば少しは女を可愛く感じないこともないが、患者にさせられた挙げ句いいように弄ばれるのは適わないから帰る算段を早くつけねばと少しく焦って全体性急になってしまったらしく、婉曲な問いはまどろこしいとちょっと見てくると腰を浮かすと何バカなことを言っているのかと一喝され、鬼気迫る形相というには遠く及ばないがそれなり血相を変えて激昂する女に糸杉はいくらか気圧されて茫と突っ立ったままちょっと覗いたくらいでどうにかなってしまうということはないだろう自分だってさっきまで外に出ていたではないかとそれはしかし飲み込んで諂(へつら)うような笑みで繕いつつ尚も下手に頼んでみるが、外は危険だからと女は頑として聞かない。外に出るということはそのまま死を意味し、今あなたに死なれたら困るしそれでは何もかも終わってしまうと不安げな眼差しになるが(註─たしかにこの時点での糸杉の死は破綻をしか意味しないからそれだけは回避せねばならないが、女がそれを見越していたとすれば話はべつで、そんなはずはないがその可能性も考慮しつつ書き進めねばならない)、どこか芝居染みていると糸杉は思わざるを得ず、あなたなしでは生きてはいけないとそこまで言ったかどうかは定かじゃないが「少なくともここは安全だから」ここにいれば何が起きても大丈夫だからと女は糸杉を引き止めようと懸命になる。

女の抱懐している強固な妄想に糸杉はわずかに怒りを覚えるものの不思議と女に対してはさして腹を立てることもなく、ゲームあるいはプレイという観点からその攻略に臨む意気込みで次の手を考えていたらそれなり余裕もでき、この際聞けることは聞きいておこうと外の危険性についてその詳細を問えば、飽くまで噂なのだがと前置いてから女の言うには毒ガスが撒布されたということらしく、いや撒布されつづけている可能性もあるということで、すぐに死ぬようなことはないらしいがマスクと防護服なしではとても無理だという。それならマスクと防護服を貸してくれないかと我ながら妙案だと内心ほくそ笑みつつ糸杉が頼むと「ダメだよ、私が叱られるんだから」と女は困惑を装い婉曲に拒否するが、誰にと問うことを糸杉にためらわせたのは女の妄想の奇怪さにちょっと恐怖を覚えたからで、被害妄想か知らないが何にそれほど怯えているのだろうと少しく警戒してこれ以上突っ込んだ問いは危険かもしれないと口籠るが、囲われているこの身の脱出の契機を掴むにはほかに手もないとさらなる問いを糸杉は重ねる。糸杉の矢継ぎ早の問いにあなたは何も憶えていないみんな忘れてしまったと女は憐れむような視線を向けるが、挑発するように「憶えてるさ」と自身たっぷりに言い切ると「ウソ」糸杉は何ひとつ憶えてなどいないと再度女は断言し、いや糸杉にかぎらず誰ひとりとしてこの未曾有の大惨事について正確に記憶しているものなどいないと胸を張るから苦笑せざるを得ず、問えば問うほどその妄想が肥大して雪だるま式に事態が大きくなっていくのをただ面白がっているわけではないが、どこまで肥大するのか見てみたい気もして未曾有の大惨事とは何かと率直に問えばほら忘れてると女は薄い笑みを口の端に浮かべ、どことなく教導的な素振りでその未曾有の大惨事について説明をはじめる。いや、はじめようとするが不意に失語にでも陥ったように何から話せばいいのかと女は口籠り、そのためらいはしかし事の重大さを思わせるというよりは今まさに妄想が形成されつつあることの証左のように糸杉には思え、その認識が糸杉にいくらか精神的余裕を齎し、主客が転倒して今度は自分が医者になる番だとゆったりと構えてそれらしく振舞いながら焦らず順を追って話すよう促せば、記憶の糸を手繰るように遠い眼差しでどこか虚空を女は見据えて東京が爆撃されたらしいのだと切りだす。

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