何もかもを場所のせいにするかに「出よ」と促し席を立ったのだったが尚も困惑げな面持ちで惚けたように動かぬ糸杉を訝り、再度促すも言葉を濁して立とうとしないから見兼ねて腋に腕を差し入れて立たせるとなかば強引に外へ連れだし、雑踏のなかその手を引いてモールを駅のほうへ歩きながら苛立ちと不安を交々(こもごも)抱えて早くも疲労は極限に近かった。その疲労につけ入るようにひとつ訊いてもいいかなとひどく他人行儀な物言いで問われるが、そのことよりも問いの内容に女は驚き呆れてしまい、笑みに紛らしたものの糸杉の真意を量りかね、「それより話って何?」まさか座興のためだけに呼んだわけでもないだろうと少しく睨めつければ怯んで距離を離しつつ再度「えとだから、お名前は?」と言うのだった。糸杉の放ったその一言を頭のなかで幾度も反芻しながら苛立ちも不安も急速に冷めていくとともに何か非常な徒労感がそれに取って代わって女は眼眩み、さらには周囲の景までが微妙に歪んでいくようで足場を失いそうなその心細さにいよいよ根負けして「分かったからもう」と再度服従モードに入るがまるでその意を解さぬかに怪訝そうな面持ちで糸杉は佇んでいるから対処に困り果て、道端では話もできないとその手をとって煙草の吸える駅近くの店に落ち着いてどうにか小康を取り戻す。忙しげに女が一服するあいだも他人行儀な素振りを糸杉は崩さず飽くまで空とぼけているから冷めたはずの苛立ちにまた火が点くが辛うじてそれを自制しながらこれはゲームなのだと女は諒解し、あまり気は乗らなかったし五、六分遅れた代償としてそれは大きすぎるようにも思ったがもう少しだけつき合ってみることにしたのだった。ゲームと思えばさして腹も立たないと安易に考えていたのはしかし間違いで、糸杉の執念深さを知らぬ女ではなかったがこれだけ譲歩しているのをさらに追い落とすような非道はしないだろうとの希望的観測に期待を込めてしおらしくしていたのだが、糸杉は容赦なく女を突き放して自分こそ被害者だとでもいうような素振りに徹し、そんなことをしていったい何が楽しいのか女は理解に苦しむが、魯鈍なふうを装う糸杉の弛緩した隙だらけの眼差しは女を苦しめて已まず、「もう終わり、疲れたよいい加減さ」と三度目だか四度目だかの降伏宣言を提示するのを「終わりって何が?」と容赦なく斥けてまだつづける構えの糸杉にいよいよ臨界点を超え、怒声とも嘆声ともつかぬ上擦った叫びでちょっと遅れたくらいでそんなに拗ねなくたっていいじゃないかと訴える。
怯んだように首を竦めてべつに悪気はなくただ知らないだけなのだと心底申し訳なさそうに詫びる糸杉の態度を見ているとほんとうに記憶をなくしてしまったのかもと懸念されなくもないが、そんなマンガみたいなことが起きるなど考えられぬと女はすぐにまたそれを斥け、万が一の可能性に留意しつつもこれはだからいつもの質悪い戯れ言に違いないとそう自身に言い聞かせるが、自身の口元に痴呆的な薄笑いが間歇的に表出しているのに女は一向気づいていない。とはいえそんな仕打ちをされねばならない覚えは全くないから斯かる児戯めいた遊びはすぐにも打ち切りたかったが女からそれを切りだすことはできず、もうしばらく様子を見てみようとそれはギリギリの選択だったが、あるいはそれが誤りの許だったのかもしれず、後悔というのではないにしろどこか胸に引っ掛かるものがあるのもたしかで、甘やかせばすぐつけあがる糸杉のことだからそうやってからかっているだけなのか、それにしては度が過ぎていると真面な思惟が作動していたのはしかしこの辺までで、それ以後の記憶は点々と散在して前後の脈絡もかなり不確かだが何軒か知った店へ連れていって探りを入れたのは記憶している。やることだけはそれでもしっかりやるしその際の手順なり癖なりは糸杉のものだから記憶をなくしているとはとても思えず、そうかといって女を見る糸杉の視線はまるで他人のものだし情動的本能的な行為に記憶はあまり関与しないかもしれないからあるいはそこから何か呼び覚ますことが可能かもしれないと一心に励みもするが、それに応える糸杉の反応はいまいちだし無駄に使役せられた徒労感に疑念は一層深まるばかりで理性的判断を下すことの困難に女はいつか疲れ果て、グッタリと椅子の背に身を凭せかけてなかば戦意を喪失したかに虚ろな女と裏腹に勢い込んで身を乗りだした糸杉は、いったいその話は本当のことかと話の脈絡もよく掴めぬながら性急に問うた。疲労のあらわな眼差しで女は糸杉を見返すと「ウソに決まってるでしょう」と呟いてバカなことを訊くなと言わぬげな冷ややかな一瞥を投げる(註─それが何も知らぬ糸杉への憐れみの視線だということを糸杉は知る由もない※7)が、返答に一瞬ためらいがあったように糸杉には思え、そのあと女がすぐ視線を逸らしたことが何よりの証左ではないかと糸杉は疑うが、何をためらったのかそれがもひとつ分明ではなく、さらなる問いを発したくなるが答えは期待できぬだろうから黙すほかない。
吸いさしをためらいがちに揉み消すと仕切り直しをするかに軽い咳払いをして女は糸杉のほうへ向き直り、これは飽くまで事実関係を言うのであって決して比喩ではないと断わりを入れてから告げたのだが、そんな断わりを入れることからして罠臭く、あるいは罠と思わせようとそんなふうに言ったのか、いずれにしろ女の言を安易に信用せぬほうがいいと糸杉は判断を留保したのだったが(註─今尚その留保が有効なように思えるのは、全体この女が何者なのか皆目分からないからだ)、女の言うには糸杉は患者で女はその主治医とのことだった。医者・患者という図式から想像するに斯かるヒエラルキーの許で行われるある種のプレイとしてそれは諾(うべな)えぬものではないとはいえどんな治療=プレイが施されるのかと思うとちょっと怖くもあり、いや抑もそんなプレイを所望した覚えさえ糸杉にはないのだからこれは女の一方的な発意によるものと思われるが、そうとすればその発意への糸杉の諾否が問題で、首肯した覚えはしかしないから事の全体を見通せぬ糸杉にはいったいどちらが客でどちらが店員なのかも判断不能なため、それが不安を醸成してその行動にも言動にも若干ためらいが生じてしまうのだった。尤もこの手の風俗店に糸杉が足を運んだことはなかったし単なる好奇心のみで赴く可能性も考えにくいことから強引な客引きに引っ掛かってしまったと見るのが妥当だが、自身の朧げな記憶を悔やみながら今一度事態を概観すれば、手の込んだ舞台装置といい即興とは思えぬシナリオといいそれなり真に迫った演技といい生半可な店じゃできないことで相応に高額な料金を請求されるかもしれないと糸杉は一抹危惧を懐く。女の優位性をそれはより強固なものにし、それを知ってか女の態度は徐々に横柄になるようだが(註─女は最初からある程度横柄だったのだが糸杉にはそう思えたのだ)それに引き摺られるかに身を縮めていたらその奸計に自ら陥るようなものだと糸杉は頑なそれに拮抗せんと踏ん張って、これらすべては女が拵えた虚構に違いなく、医者と誑(たばか)ってニセの記憶を植えつけて別人に仕立てようとかしているのだ、信じてはいけないこんなの全部嘘だと強く自身に訴える。それら悉くが虚構だとすればどこかにきっと綻びがあるはずとそれだけを頼みにここまで記述してきたもののそれらしい点はいまだ見出せていないからその道のりの果てしなさを改めて思い知り、引き返すことはしかしもうできそうにないからこのまま邁進するよりなく、足場の不安定なこの茶番の行き着く先を睨み据えつつ慎重に運ぶ筆に今のところ忠実に従っている糸杉は懸命に頭脳をフル稼動させて事態を見極めようとするのだが、ホンモノとニセモノとを弁別する基準となる自身の記憶それ自体が疑わしく、そうとすれば如何にしてそれを弁別するのか、一切を反故にでもするよりないのではと挫けそうになるが、すべてを嘘で固めるよりは適当に事実を織りまぜたほうが御しやすいということもあるから本当らしく思われる点のその近傍にはきっと疑わしいものが隠蔽されているに違いなく、それを巧いこと選り分けることで糸杉が女の奸計に填まってしまったのかそうでないのかが確定せられるはずなのだ。とはえい糸杉が患者で女が医者でここが隔離病棟の一室という設定は何ら信のおけぬ荒唐無稽な設定だから考えるまでもなく排斥すべきなのだが、図らずも女の置かれている状況を暴露してしまっているようでもあり、そうだとしてもそれが顛倒した形で表出されているということが何を意味するのか糸杉には不明で、とはいえ事の真相を解明する重要な因子であることはまず間違いないから記しておいて損はない。
※7
この短絡且つ独善的思い込みに、彼の被害妄想を見るのは容易い。しかし、知らないのは彼のみではなく女も同断なのだから憐れみとは考えにくい。これはむしろ韜晦的言辞に類するものと解するほうが自然だと判断する。とはいえ女の描写の大部分が、彼の創作に帰するものとわたしは睨んでいる。