友方=Hの垂れ流し ホーム

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02

ふとこの場の全体を嘘臭いと糸杉は思い、それには何らの根拠をも見出せないのだが糸杉の意に反して疑念は膨らみつづけ、それに圧される形で徐々に警戒モードへと移行しながら目の前の女を見るともなく見つめていると、糸杉の警戒をいくらか気に掛ける様子ながら女は前の席に腰掛けたまま一向席を立つ気配もなく、そのあり得そうにもない展開に書き直しを要求する権利はしかし糸杉にはないに等しいから、白々しい場の空気を可能なかぎり長引かせて糸杉の困惑する様を楽しむのも一興だが、生憎とこっちにもそんな余裕はないから糸杉の不審げな目つきに女はすぐと気づいてしまうほかなく、いくらか媚びるような眼差しで「怒ってる?」と下から覗き込むように糸杉を見つめ返すその眼差しに瞬間糸杉は埋もれた記憶を呼び覚まされたような気がし、いやとしかし頭(かぶり)を振る。糸杉と同年輩かいくらか若いようにも見えるが実際のところかなり年齢不詳な女の妙に馴れ馴れしい態度に戸惑いつつ「いや、そういうことじゃなくて」とどう答えたらいいのか分からず糸杉は口籠ってしまい、それでもどうにか女と面識のないことだけは伝えることができたが、そう言い終えた途端女の表情が険しくなり、いくらか吃音気味に「やだヒドイ、何それ」冗談にも程があると憤慨した様子で抗弁するのだった。見知らぬ人に私はあなたを知らないと告げただけなのにそれで腹を立てられる理由が糸杉には理解不能で、女の予期せぬ反応にたじろいだ糸杉はそのあとの語を継げず、ちょっと頭の痛い人なのかと対応に困り、それが何か自身の不手際でもあるかのように一瞬詫びの言葉を口にしそうになるが詫びる理由はないと呑み込み、そうかといって知らないものは知らないのだからこればっかりは譲れないと頑なな態度を崩さない糸杉に女はまたも不思議そうな視線を送る。

女が自分を知っているのに自分のほうは女をまるで知らないということが何かあり得べからざることのように糸杉には思え、自分だけが何も知らずに、知らされずにいることの理不尽を女に訴えても詮ないがこれは不当な言い掛かりではないかとだんだん腹が立ってきて(註─思うにここが最初の岐路だったような気がするが、仮にここを逃れ得ていたとしても第二題三の罠が張られていただろうから一切は徒労に終わるのだ、それよりほかないのだ)※1、そのやり場のない怒りを持て余してかなり警戒的な眼差しで女を見つめていると、糸杉の苛立ちを察したかして不意に女のほうが折れて知り合いの誰それと間違えていたようだと頭を下げたから衝突の瞬間に巧みに交わされたような具合で怒りの矛先を糸杉は失ってしまう。それで苛立ちが納まることはないが詫びているのをさらに譴責するのも大人気ないしほかにもっと大事なことが自分にはあるのだと喪失したのか抑も存在しないのか定かではないが、いずれにしろ糸杉にとってはあるはずの記憶を求めて沈思するのだった。といって何かが足りないとか多すぎるとかいうことはなく、過不足なく記されているということはそれなり保証し得るが、それでも何か鏡に映っている反転した像をでも見るような歯痒さを感じてしまうこの場の全体が嘘臭いということは否めぬ事実で、嘘と断定し拭い去ることはしかしできず、誰に異義申し立てもできぬまま糸杉はそれを自身の記憶として保持しつづけるほかないのだった。抗い得ぬ神の摂理とそう糸杉は思うほかなく、そんなのはしかしこっちの匙加減ひとつでどうともできるのだからそんなふうに思う糸杉を嗤ってしまうがそう記してしまうほかないこの私が糸杉と同様神の摂理に捕らわれている証左ともいえるわけで、途端に嗤いは掻き消えて見も知らぬ女の前に端座して居心地の悪い糸杉と同様胃の辺りがむず痒くなって筆の運びも鈍ってしまうが、身を捩(よじ)る糸杉を余所目に退屈そうに水の入ったコップを弄びつつ女は坐りつづけて席を立つ様子は毛ほどもなく、糸杉の理解をそれは絶している。

事のありようが果たしてこのとおりだったかと再度検討してみると、大筋でこのようだったことはたしからしいがどことなく異和を感じてしまうのも事実で、その異和を拭い去ることは糸杉の視点からのみ記述しているかぎりできないだろうからべつな視点の導入は避けられず、そうかと言って今私が出ていくわけにもいかないから差し当たって女よりほかに適すべき者はいないだろう。客の出入りが盛んになってきたせいか四囲はますます喧騒に包まれるが、それだけ一層糸杉の半径一メートルは静けさを増し、退屈なのはあなたのせいとばかりに時折向けられる女の視線は糸杉の思惟を撹乱させるらしく、次の一手を打てぬまま相席を余儀なくされた知らぬ者同士の気まずさを持て余していたが、そのような気まずさを強く意識していたのはひとり糸杉のみで、女のほうはといえば何食わぬ素振りで傍目にも自然に見えるに違いなく、圧倒的に糸杉に不利な形勢なのだがそれを覆す労力をすでに糸杉は喪失していて手も足も出ない(註─恐らく糸杉は誰も待ってなどいなかったのだが、女を前にしてありもせぬ待ち合わせを仮構してしまったというのが本当なのではないか、とそう記せば否と糸杉は答えるだろうから本文ではなく註として記すにとどめる)。それにも拘らずその見も知らぬ女と差し向いで呑んでいたこと自体妙なことで、意気投合したとかそういうことでは恐らくないのだが酔いの進むうちに弛緩しきった意識から斯かる疑念は閉めだされ、約束を反故にしてしまったことへの後ろめたさもいつか薄れて一切が茫漠とした闇の中へと揮発してしまってその前後のことはもう定かではなく、そのあまりにも都合のいい展開に作為を感じるものの異議を唱える相手を見出せぬかぎりは引っ込めるしかなく、差し当たって今いるここがどこなのかを知ることが喫緊の問題なのだが、それが全然分からないから始末に負えず(註─いまだにここがどこなのか実はよく把握してはいないのだ、いや、薄々は知っているといえるが確信はない。ここよりほかの場所が存在しないということはしかしたしからしく、いや、ただ私にとって存在しないだけで他の誰かには存在しているのかもしれず、まるでルールを知らぬゲームに参加させられているような胸クソ悪い気分だ)、さらには常の糸杉らしからぬ行為とのみ記して済ませられない問題もここにはあるのだが、今はそれを分析しているときではない。女が、いや、それはただ仮に設定された糸杉の、そして世界が※2

中央に設えられているくたびれたローテーブルとくすんだ色合いのソファがさして広くもない一室のかなりの部分を占拠しているがざっと見たところ飾り気のないそこは簡素な部屋で、客を応接するというよりは家人が寛ぐ空間として利用するための場所と思しく、客か否かは別として糸杉がいるのにしかし家人の姿はそこになく、何日も前の新聞が二、三置かれているほか生活の跡らしきものも窺えず、妙に静まり返っているのを訝った糸杉は徐ろに座を立ってすぐ脇にあるドアを開けようとするが、鍵が掛かっているのかドアは開かず、しかも外側から掛けられていて内側からは開錠できない特殊な造りになっているのか部屋の外へ出ることができない。なぜ鍵を閉めていくのか、中に糸杉がいるのを忘れて掛けてしまったということも考えられぬことはないが、どう考えても故意に掛けていったとしか思えず、つまり閉じ込められてしまったらしいと糸杉は結論し、困ったなとひとり呟いて腕組みソファに腰掛けるとしばらく考え込むかに俯いているが、その顔つきは別段困ったふうでもなく、いや、自身の置かれている状況に無自覚では決してないのだが、一方で事態の切迫を強く意識していながら他方で休日の遅く起きた朝でもあるかのようにソファに浅く凭れたままぼんやりと幾時間を茫としていたのは、その一室が何だか妙に寛げる空間だったからだ。他所の家にいて落ち着くというのも思えば変な話だが、静寂に満ちた一室の停止したような時間のなかソファに体を沈めていると頗る心地よく、誰か人を呼んで鍵を開けてもらおうとする気さえ起きないから不思議で、第一窓さえない一室からどうやって出ることができよう、たったひとつの出入口は外から施錠されてしまっているし、見るからに頑丈そうなドアを打ち破る腕力とてない自分にいったい何ができるかと糸杉はさらにも無気力にソファに沈み込んでいく。今のところ糸杉にできることはだから何ひとつなく、誰かがここへやってくるのをただ待つよりほかなかったが、たしか昨日も誰かを待っていたようだったとふと思いだし、それが誰なのかしかしもう糸杉には思いだせないし思いだそうという気さえなく、今ごろ港はご立腹だろうなとその神経質な港の百年勤めたって出世とは無縁だろうようなうらなり顔が、痙攣する唇の歪んだクローズアップで瞬間脳裡を掠める。

※1

この明らかな抹消が、見る者をしてかえって興を惹いてしまうということは自明だろう。それを見越しての抹消だとすれば、迂闊に信ずることはできない。

※2

またしても見セ消チ。この挑発的ともいえる刻印は、わたしを捉えて離さない。いや、わたしだけではない。誰もがここから眼を離せないに違いない。それが彼の狙いだとしても、皆これに注意を払ってしまう。いずれにしても、その設定如何で解釈も異なってくるだろうから注意が必要だ。

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