友方=Hの垂れ流し ホーム

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08

幸い身の危険に晒されるような局面に出食わすこともなく昼過ぎには自宅マンション前に到着し、長時間の緊張のせいか空腹と咽喉の渇きがひどく、玄関上がるとすぐキッチンへ直行してまずミネラルウォーターで咽喉を潤そうと湯呑み茶碗になみなみ注いだそれを飲み干して一心地ついてから仔細に見るに庫内に食べるものは何もなく、常から外食の多い生活だからなくても不思議はないが、期限切れの顆粒状鶏ガラスープにこれも期限切れの辣油がこれ見よがしに転げているほかは萎びたキャベツとか人参の切れっぱしとか真面に食えそうなものもないから見窄らしさを助長していて、何か自身の空疎な内実を見せつけられているかのようでやり切れず、ほかに食うものはないかと探すがジャーに残る飯はいつのものともしれない変色した固い塊と化していたし米櫃にも米はなく、インスタント食品も切らしていた。常なら速攻でコンビニへ行くところだが爆撃のなかを買いに行くのはちょっとためらわれ、いやちょっとどころかかなり恐怖を覚えたから爆撃が止むまでは出られないと諦めるが、何も食えないと思うと尚さら空腹が増してきて眼が眩み、総じて期限の切れているなかから食べられそうなものを選り分けてプリン一個ととろけるチーズ三枚と魚肉ソーセージ一本とでどうにか胃袋を宥めすかしたもののそれだけで足りるはずもなく、できるだけ消耗しないよう横になっているがどうかするとカラの胃袋が嫌な音を立てて空腹を煽るから苛々し、気は進まなかったが空腹とそれが齎す苛々には勝てず、已むなく糸杉はコンビニへ走った。普段からよく利用する駅への順路にあるローソン下平店ではなく、駅とは反対方向だが自宅マンションから程近いファミリーマート富坂町店へ糸杉は向かい、道すがらそれとなく周辺に眼を配るがいくらか不気味に静まり返ってはいるもののとくに変わった様子はなく、それでも警戒は怠らずに店へ入ると手早く棚を物色して晩の分も合わせて弁当とサラダをふたつずつに惣菜を適当に見繕い、それとキリンラガーを手にしてレジへ向かうがすぐに廻れ右してこの際アルコールは控えるべきと戻し置き、代わりにアサヒ烏龍茶の五〇〇ミリリットルを鷲掴み、こんな爆撃の真っ只中にいてなぜ皆平気なのかと訝りつつレジへ向かい、いやそれ以前に避難勧告も何も出ていないのだろうかと懸念しつつバーコードに読みとり装置を当てていく店員の作業を黙って見守り、探るような視線でそれとなく店員を一瞥して店を出ると来たときと同じ警戒体勢で自宅マンションへ糸杉は戻り、冷蔵庫に晩の分を入れると昼の分を持ってリビング座卓の所定位置へ坐り、思いだしたように喧(かまびす)しくなる集中砲火に戦きながら忙しなく食べた。

空腹から解放されて少し落ち着くと爆撃も少しだけ間遠になり(註─爆撃が糸杉の精神状態と連動しはじめるのはこの辺りからだろうか、いや、それに気づくのがと言うべきだが、つまりそれは糸杉個人への攻撃と見做されるべき底のものと少なくも言えるのではないか)、寛げる気分では全然ないが再度糸杉は横になって少しでも気を紛らそうとテレビを点ければ緊急特別報道番組でスタッフアナウンサー一同騒然となっていて刻々入る続報に戦争の破滅的状況を思い知るとかいうようなことはなく、どこに廻しても普段と変わらぬ番組で、これだけの爆撃を受けていてなぜニュースは何も報じないのか、被害がまったくないから報じようがないのだろうか、いや被害の有無に関係なく重大事件には違いないのだから報じられて然るべきだし肩こり腰痛冷え性対策などよりもそれは優先するだろうと画面のみのもんたに毒づいても仕方がないが、それら放送の現実否認に対する糸杉の不審を煽るかに不意に不穏な音が高まり、糸杉はそれに過敏に反応して何か記憶を掻き乱すような不快さで響くその音が妙に気になってつと半身を擡げて聞き耳を立てる。いよいよ実体を伴って現れだしたのかと思うほどそれは間近に聴こえるから弾かれたように糸杉は立ちあがり、そのくせ覚束ぬ足取りでヨロヨロと窓際へ歩み寄ってそっとカーテンを開き、籠城する犯人か何かのように眼光鋭く外を窺い見れば以前テレビで見た覚えのあるそれとそっくりな対空砲火の光点の連なりが地上から澄み渡った蒼穹へ向かって幾筋も伸びていくのが視認され、花火と見紛うことは決してないその光景から眼を背けるように糸杉はカーテンを閉ざして元の位置へ端座すると、深い溜息をひとつ吐く。次いで惚けた眼差しを彷徨わせつつ烏龍茶のペットボトルを手元に引き寄せ、湯呑み茶碗に半分ほど注ぐとゆっくりと口元へ運びゆっくりと口に含みゆっくりと嚥下しゆっくりと口元を拭い、何もかもが緩慢になりゆくなかしかし思惟だけは高速回転で稼動し、いったいどこと戦争しているのかそれが気掛かりだが、いやそんなことはどうでもよく、身の安全は確保できるのか果たしてここは安全なのかとそれを思うと不安は尽きず、とはいえ逃げるとしてもどこへ逃げたら良いのか誰が味方で誰が敵なのかそれさえ定かではないから安全な場所などないといってよく、この脅威から逃れる術などだからないのではないかとネガティブ回路に陥ってしまう。その存在を確認できていない以上戦闘している軍隊が自衛隊かどうかも糸杉には分からないが昼間の街の様子からどことなくゲリラ戦を思わせもして、女の言うように実はもうすでに大半が死滅してしまってわずかに残った戦闘部隊が無意味な抵抗を試みているだけなのかもしれないと次第に暗い想念に捕らわれていくが、判断材料たる情報の絶対的不足から結論を急いでも仕方ないと一先ずそれは棚上げにしてふと我に返ったように今日の無断欠勤をどう取り繕うかと思案する。戦時だとすれば無断欠勤など気に病んでも仕方がなく、そう簡単に割り切れるものではないから連絡を試みるが案の定電話は繋がらず、直接港のケータイへ掛けても繋がらないしほかに二、三同僚を当たってもみるがいずれもダメで、愛社精神などさしてないから定期的に連絡を試みさえすれば自身の責めは果たされると糸杉は思うのみだった。

床に就いても尚遠巻きの爆撃音が断続的につづいていたから眠れそうにもなかったが、半日それに晒されて神経がバカになったのか端的に疲労のせいか案外苦もなく入眠でき、昏々と眠って一昼夜だか二昼夜だかが過ぎて目醒めると知らぬ場所にいるからひどくうろたえ、寝ているうちに拉(らっ)されたとみるのが妥当だろうが糸杉はそう思わず、というのもなぜかとても居心地いいその空間にはどこか見憶えがあったからで、知人宅かとさして気にもとめなかったのだが(註─まったくおめでたいとしか言いようがないが、一編の主人公としては妥当なおめでたさだと言えるだろう。ここに危難を乗り越え得る属性を見るのは安易にすぎるだろうか)、身じろぐたびに耳障りな音をたてるビニール張りのソファにも傷の目立つ合板の安手のローテーブルにもしかしまるで見憶えはなく、それら既視感と未視感とが綯い交ぜの妙な感覚の去来するなか糸杉はひとりだらしなくソファに凭れて何も考えていなかった。尿意を催してトイレに行こうとすぐ脇にあるドアに手を掛けるが鍵が掛けられているらしく開かないからアレおかしいなと首を傾げつつ執念くノブを廻しつづけるがそれでもドアは開かず、不審に思いながらも横手に切ってある隣室へとつづく間口のほうへ向かい、覗くと狭いながらキッチン、バス、トイレがあったのでそこで糸杉は用を足すが、ひとつしかないドアが施錠されているということはここから出られないということを意味するとソファに浅く腰掛けながら考える。とはいえ差し当たって居心地のいいこの室から出たいとの意思は糸杉になく、いずれ家人の帰宅とともに開けられるだろうくらいに考えていたその思惑に違わず帰宅する家人により錠は開けられたのだったが、予期したとおりか予期に反してか現れたのは昨日の女で、疲れた様子で両手に持つ荷物を下ろすと吐息をひとつ洩らし、糸杉のほうへはチラとも視線を向けることなく向かいのソファへと沈み込むように掛けると緩慢な動作で細長い煙草に火を点ける。半分方灰にしたところで女は煙草を揉み消すと一心地着いたというように吐息を洩らし、大きく開(はだけ)たブラウスの胸元をこれ見よがしに覗かせるふうに前屈みになるとそこではじめて糸杉へ視線を向けて「ずいぶん遅かったじゃない」もう帰ってこないかと思ったと言い、それじゃあ行きましょうと促すのだが糸杉は今少し寛(くつろ)いでいたく、というか体の節々が妙な具合に軋んで(註─拉された際に拘束されたのでもあるらしい)実際的にも休息が必要とグズグズと渋っていると「時間がないわ」と女は告げ、口調は決して強圧的ではないが有無を言わせぬ凄みが物腰に現れていて、その迫力に圧されて先に立つ女に従って糸杉は部屋をあとにする。

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