友方=Hの垂れ流し ホーム

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皮肉な笑みを収めつつ視線を再度四囲へ巡らせれば、一室には窓こそないものの独房めいた殺伐した雰囲気ではないし家具調度も最低限揃っていて糸杉を束縛あるいは排除せんとする何らかの異図なり何者かの意思なりは全然感じられないからそれまで尻の辺りで蠕動(ぜんどう)するかに密めいていた切迫感も徐々に薄れていくようだった。乱雑に置かれた古新聞を払い除けるようにくたびれたローテーブルに足を投げだし、腹のうえで両手を組み合わせて自身の足の先に見える黄色味がかった白っぽいくすんだ壁を糸杉は見据えるが、これから何が起きるか皆目分からぬ状況下でどうしてこうもゆったりと構えていられるのか不思議でならず(註─この辺りの感情の起伏のなさなり事態認識の甘さなりはいかにも不自然で、そこに何らか詐術があるらしく思われるがまだまだ特定は困難でさらに掘り下げていかないと判明し得ないだろうが、最初から挫折を余儀なくされているような気がしないでもなく、改めてその困難を思い知る※3)、眠いということは全然ないのだが徐々に意識が混濁していくようなのはいったい何に起因するのか糸杉にも分からない。

地下室と推測される一室(註─それもしかし何ら根拠はなく、推測の域を出ない。どこかビルの奥まった一室か倉庫にでも設えられた特別製の閉鎖空間との思いも拭い切れずある)は六畳ほどの広さでフローリングも真新しくワックスの照り返しが眩しいくらいで、光量も充分なせいか外部との連絡を断たれた密室の閉塞性に息を詰まらせるというよりは、むしろその遮蔽による外部の忘却の居心地よさに糸杉はいよいよ眠りに落ち掛けるが、辛うじてそれを免れ得たのは不意にドアの向うで気配が立ったからで、次いで金属の擦れ合う音が妙に大きく響き渡るのを耳にし、帰ってきたとドアノブ辺りを注視しながら開錠されるその音に糸杉が耳そばだてれば、その正確な数は分からないがふたつだかみっつだかの錠が開けられて重々しげな造りとは裏腹に音もなくスウと開いたドアの影から「疲れたあ」とひどく脳天気な物言いながら言葉通り疲れの露わな掠れ声とともに姿を見せたのは昨日の(註─正確にいえばそれを昨日と断言する根拠はどこにもなく、寝て起きたら翌日という日常感覚に照らしてそう記したまでにすぎないが、今のところそれを否定する材料も見出せぬので差し当たり昨日と記して誤りでもなかろう。ついでに言えば、ここ※4では時間はないに等しい)女だった。両手に抱え持ったティッシュペーパーとトイレットペーパーとドラッグストアのものと思しい黄色いビニール袋とを無造作に床に投げ下ろし、その弾みでバラバラと零れ落ちたのはラップにホイルにつめかえ用の柔軟剤だの酸素系漂白剤だの洗濯用洗剤だのの類いだが、女はチラとそのほうへ視線を向けただけで拾い集めることもせず、糸杉の向かいにどっかと腰を下ろすと買い物に疲れたのかソファの背にだらしなく凭れて胸元が大きく開(はだけ)ているのも構わず糸杉を気に掛ける様子もなく煙草を吸いだす。女はずいぶん無防備だが却ってそれが糸杉を戸惑わせたのは端的にこの室の主と思しい女の帰宅で客足らざるを得なくなったからで(註─今から思えばかなり計算尽くの小芝居と見做し得る底のものがここにはあると言えるが、この時点でそれが分かれば苦労はしない。誰だって分かりはしない※5)、殊更威儀を正すことはないもののそれまでの居心地よさが半減したことは言うまでもなく、その一連の所作及び意図してか意図せずしてかは分からぬながら女の醸すひどく所帯染みた雰囲気のせいで気勢を殺がれたような恰好で、眼前に展開する景を糸杉はただ注視するのみで何も口にできず、いや、それのみか相当な気後れを感じていた。

女の挙措に窺える無防備はあまりに自分を蔑ろにしているといくらか糸杉は不愉快になるが、そこに女と糸杉との何らかの関係の窺えることはたしからしく、端的にふたりの親密さをそれは暗示しているようで、つまりふたりの間にそのような親密さの生まれる何らかの関係があったことを暗に告げているようなのだが、果たしてそのような関係があったのか否かを糸杉はどうしても思いだすことができない※6。そうとすればそこにも何か詐術があると言わざるを得ないが、一服盛られたのではないかとの危惧が意識のどこかに浮標のように漂うなか、故意に閉じ込めていたわけでもなかろうとの好意的見解に(註─その好意の降って湧いたような不可解さには、戦慄を覚えずにいられない、あるいはそれも)自身を納得させるとともに自身の危惧を早計だと笑いもし、その糸杉の笑みを見てとってか「なあにニヤニヤして、私、なんか変?」と女ははにかみに身を隠しつつ、さらに立ちのぼる煙が糸杉と女との間を遮蔽するかに漂うその幕の向うで女は自身の身なりを忙(せわ)しくチェックする。やっぱりここじゃ落ち着かないのかなあ向こうのほうにすればよかったのかなあと女はひとり呟くと場所を変えるかと促すように糸杉のほうを見据えるが、その旨問いかけることはなく、そのほうへ糸杉が視線を振り向けるも糸杉の視線とかち合う前にふいと視線を逸らしてしまう。差し当たって糸杉には場所の変更などどうでもよく、それよりもまず問わねばならないことがあると失念してしまった昨夜のことを怖ず怖ずと女に問うてみれば、何か遠い過去の出来事をでも思いだすように女はほくそ笑み、それからゆっくりと糸杉のほうへ視線を向けながら「知りたい?」そんなことを問うのは不粋だとしかしその眼は告げていて、それでも知りたいと尚も問いを発する構えを崩さぬ糸杉にいいわ、じゃ教えたげると女は糸杉をその視線の中心に据えてわずかに微笑みながら二本目の煙草を銜え、何から話すかと考えあぐねるふうにしばらくライターを弄んでいたが、いざ点けようとすると風が強いからかなかなか火が点かず、焦っているせいか余計苛立ちが増してきたから女は煙草を止してしまい、それをしも糸杉のせいにするつもりはないが急に呼びだされたら誰だって苛立ちもするとその苛立ちから歩みも徐々に遅くなり、立ち止まりこそしないものの何だか会うのが億劫になってきてこのまま会わずに帰ってしまおうかと一瞬思うが、それはできぬとそこへと向かうことをやめられない自身の糸杉への隷属性を顧みて女はわずかに眉を顰めながら今一度煙草を取りだし銜えるが、風に煽られ火は点かない。

遅れるのはいつも糸杉のほうだからたまにこっちが遅れたってどうってこともなく、遅れたといってもせいぜい五分か六分くらいなものだしたまには待たされる者の気持ちも味わうといいのだと女は虚空を睨めつけ、いっそ思いきり待たしてやろうかと悪戯っけを起こしかけるが怒って帰られても困るとそれは思いとどめて風に靡いて顔面に纏わりつく髪を掻きあげ押さえながら歩き、自身が遅れることへの嫌悪もあっていつかまた足早になっているのにしかし女は気がつかない。その女よりも尚急ぎ足の背広の男が血相変えて駆け抜けていき、おかしな具合に上下左右に揺れるその後ろ姿を眺めるともなく眺めていたら不意に胸奥から冷やかな何かが込み上げてきて、その込み上げる何かとともに銜えていた火の点いていない煙草を路端に吐き捨てると女は先を急ぎ、店に入るとすぐ糸杉を見つけて怖ず怖ずと近づくが糸杉の唖然とした面持ちに接して怒っていると直感し、とはいえちょっと遅れたくらいで何をそれほど怒っているのかと訝り見れば怒っているというよりは何だか困惑しているようで、その糸杉の困惑に女は困惑してしまう。とりあえず謝っとけと詫びを言いつつ神妙な態度で静かに腰掛けるが、一言それに答えたのみで口籠っている糸杉は常とはどこか雰囲気が異なり、糸杉らしからぬその鈍い反応に女は異常を察知しつつ端的にリアクションに困り、出足を挫かれたように沈黙を余儀なくされて取りだした煙草だがいくら探しても灰皿がないから戯れに隠したのかと糸杉を窺うが、その困惑した面持ちからして違うと斥け、どうも禁煙席らしいとしばらくして気づいてまた仕舞い込みながら今日は煙草に縁がない日だと女は溜息を吐く。遅れたのは自分のほうなのにひどく苛々するは煙草が吸えないからでは決してなく、訝しげに見つめられているのが妙に決まり悪いし常の糸杉とはどこか異なる人柄へと変じてしまっているのが神経を逆撫でするようで苛立つのだった。

※3

この一室へと至る過程に、何らかのアクロバティックな接合なり転換なりを彼は想定しているらしい。案外それは的を射ているのかもしれない。しかし、彼の見出すだろうそれが、わたしにとっても有効な物的証拠かどうかは分からない。

※4

彼の言う『ここ』がいったいどこなのか、その特定の困難なことは言うを俟たない。

※5

ひどい誤解が見られるのはたしかだ。いや、誤解というより曲解としたほうがわたしにはしっくりする。しかし、飽くまでそれは客観性に欠ける恣意的な見解にすぎないので、留意するには及ばない。ただこの時点における彼の関心と無関心の配分が、ある種鍵だといえる。場所及び空間認識の極端な曲解がまず第一に挙げられ、窓延いてはそこから射し込む外光の隠蔽がその最たるものだ。それが何に起因するものなのかも興味ある問題だが、性急な判断は避けるべきで、今はただそれを示唆するにとどめる。

※6

彼は、ほんとうに忘れてしまったのだろうか。この記述から見るかぎり、それは怪しい。全体に彼は、何もかも忘れてしまったかのように振舞っているけれど、そこには明らかに何かを隠蔽しようとする意図があるように思われる。

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