友方=Hの垂れ流し ホーム

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07

とはいえ狭い居室よりは外のほうが遥かに心地よく、その開放感にいくらか気も晴れてゆったりとした微風に眼も醒める思いで思いきり伸びをし欠伸する糸杉の視線のその先に見える空はスモッグに霞むこともなく蒼く澄み渡っているが、それなのにどこか清々しく感じられないのを糸杉は訝り、不確かな神経系のせいとのみは言えぬながら四囲の静けさとも相俟って一種異様な雰囲気を呈しているとそう観察する糸杉の理性が果たしてどれほど正常なのか分からない(註─この時点でもう女の術中に填まってしまっていたといえなくもなく、いや十中八九そうに違いない)が、平日の午前中とはいえ静かすぎる街並みにやはりいくらか異常な事態なのではないかと思ううちにどこかで大きな音がするのを糸杉は耳にし、爆発めいたその音を花火か何かと思いなしていたがそれにしては物静かで、立ち騒ぐ人の気配さえないし昼間から花火もないだろうとさして関心もなかったが火花も爆煙も見えないからいくらか気にはとめていて、とはいえ実際にそんなものを耳にしたことはないし耳にするとも思っていないから爆撃音とそれを理解するまでずいぶんと要したはずだ(註─女の言う戦争に惑わされているということは間違いないが、それを覆し得る反証が糸杉にはない※8)。そのせいで皆屋内に避難しているのかといえばそうでもなく、普段と変わらぬ日常が展開されていて道行く誰もが爆撃などにはまるで関心がないというかに振舞っているからやはりべつの何かと取り違えているのだと糸杉は自身の推測を誤謬と斥け、折よく通りかかったタクシーを停めて乗り込むと、一路自宅へと向かいながらここらで花火大会でも催されているのかと訊いてみるが「へえそうなんですかそら知りませんでした」と運転手も知らぬげで、そうとすれば音の存在そのものさえ疑わしいとそれをも誤謬と斥けようとするが糸杉の意に反して爆撃と思しい音は間歇的ながら確実に耳に届くのだった。ちょうど赤信号で停車していたときだが幾度目かの爆撃音が一際大きく鳴り轟き、それにつづく地響きで車体が揺れたほどだったからさすがに今のは聴こえただろうと「ほらアレです聴こえませんか?」と問うてみるが運転手には聴こえぬらしく、頻りに小首を傾げているからしつこく訊ねても変に思われるとそれ以上問うことを糸杉は諦めるが、その後も鳴り止まぬ無気味な音にそれがいったい何なのか分らなくなり、ラジオから流れる凡庸な演歌が女の悲哀を切々と訴えているが、それは今まさに起きているこの未曾有の惨事の一切を否定するようでさらにも糸杉の思惟を惑わせる。その凡庸な演歌にリズムをとっている運転手は物問いたげな糸杉の視線とミラー越しにぶつかってもさして気にとめる様子もなく、糸杉にはそれが何か意図的に回避しているような印象を受けるからこの男は何もかも知っていながら知らぬ振りをしているのだと勘繰ってしまうが、女の悲哀よりほかにラジオがそれらしき惨事を報道している様子もないから運転手の挙措言動はそれなりに辻褄が合っているし糸杉の認識のほうこそ誤りなのだとそれは告げているようでもあり、いやそうであればこそ糸杉の耳に届くそれが糸杉にしか聴こえないものなのだとその真実性を糸杉は疑うが、一方で確実にその耳に届いて糸杉を怯ませる音の響きは覆し得ぬ事実として糸杉にそれを認識するよう迫りもし、さらには検閲やら管制やらで虚偽を報じる可能性を多分に秘めている報道などより眼前の現象を自身の感覚器官をこそ信ずべきだと糸杉は思うものの、一切が不可解で認識の基盤さえもが疑わしい状況においては真面な思考を維持することさえ儘ならなかった。

とはいえ女の悲哀に執心してそれよりほかのことにまるで関心を示さない運転手に倣うことは糸杉としてできぬから、夾雑的な演歌のリズムを意識から閉めだして(註─否、むしろ演歌のリズムにこそ耳傾けるべきだったのだ)自身の感覚器官に神経を研ぎ澄ませ、そうするうち徐々にだが事態の異常を実感しはじめた糸杉は陽気な運転手を余所にひとり警戒を強めていき、それに同期するようにして非現実的な異様な物音なり無気味な地響きなりは糸杉のほうへ接近してくるようだが、そう思ううちにも包囲網はみるみる狭まって嫌だなあと小さく呟いて溜息を吐く糸杉の前にしかし何かが現れるということはなく、ある点に達すると押し寄せた波が引くように物音は不意に掻き消えるのだった。難を逃れたと気を弛めているとしかしまたじわじわとそれは押し寄せてきて糸杉を周囲から囲い込み、その重圧に精神的圧迫が高じてくると絶妙のタイミングでまたフッと掻き消え、そんなことが幾度もくり返されるから何かおちょくられているようで(註─誰にかといえばそれは紛れもなくあの女にで、糸杉を罠に陥れたあの女がすべての元凶なのだ、いやしかし)不愉快になるが、銃弾の飛び交う凄惨な場面に遭遇してしまうよりかはずっとマシだと自身を慰めて精神の均衡を辛くも保っていた。ギリギリのバランスで平静を保っている糸杉の恐怖を煽るようにして対空砲火なのか甲高く乾いた機銃の掃射音らしきものが時折混じって聞こえてくるが、正しくそれを把捉する真面な判断力はもう糸杉にはないに等しく、どう位置づけたらいいのか分からぬもどかしさに苛立ちを募らせ、何か相当ヤバいことに巻き込まれてしまったとそこから脱することの困難を思いつつ遠離(とおざか)るでもなく近づくでもなくある一定の距離を保って鳴り響いている爆撃音に戦き、自身に難の及ばぬことをただ念じてれ以上深く詮索する意欲さえなかった。そのせいか何もかもがぼんやりとしていて捕らえどころがなく、ただここが戦闘領域だということを知らしめるためだけにそれは聞こえているかのようで、女の言う未曾有の惨事の直中に投げだされてなかば放心状態の糸杉は蒼く澄み渡った空だけが現実なのだと自身に言い含めるかに空ばかり仰ぎ見ていたようだが、それさえ非現実的なそれこそCG映像か何かのような気がしてきて、いやただそんな気がするだけで四囲の一切は紛れもない現実として糸杉の前に屹立しているのはたしかで、それでいて拠りどころとすべき基準が薄皮を剥ぐようにして少しずつ失われていくような漠たる不安を糸杉は懐き、本当に戦争なのかどうかいまいち信憑できないのも戦闘場面に出食わして敵と味方がドンパチやっているところを目の当たりにすることがないからだし、敵など存在しないのではないかとつい糸杉が疑ってしまうのも見るかぎり建物が破壊されているわけではないし行き交う人の誰ひとりとして逃げ惑ったりしていないからだが、誤謬とそれを退けようとするとどこからか地響きとともに爆音が聞こえてくるから誤謬との判断を引っ込めざるを得ないのだった(註─どう考えても悪質な冗談としか思えないのにそれを理解しない糸杉という設定は、間抜けな主人公としてはそれなりに適役かもしれず、ありきたりなストーリー展開を要求される娯楽読み物には必須要素なのだろうが、この一編には不向きな気がしないでもなく、糸杉には悪いが若干の修正が必要※9だろう。それともそのような常套性こそがこの一編に要求されているとでもいうのだろうか、そうとすれば私にはもう)。

視線は目まぐるしく動いて常に四囲を警戒しているが意識のほうはそれに随伴せず混濁する一方で真面に機能していないと言ってよく、その弛緩しきったゆるゆるの思考は糸杉にあり得ない事態を想起させ、それら肥大する想念に徐々に思惟を占拠されて遂には存在しない敵と交戦しているのではないかとの思いに雁字がらめになって、そうとすれば不在の敵と戦って勝てるはずはないし最初から勝てぬ戦いを戦うことにいったいどんな意味があるのかとその不毛に嘆息し、惨事というよりは大規模な演習とか非難訓練か何かのような様相にそれでも注意を配りつづけて観察をやめることがないのは、不穏な様相を呈しつつあるとはいえ戦争などというものは糸杉にはやはり他人事だし与り知らぬことだからで、外なる敵か内なる敵か知らないが女にのみそれは深く関係する事柄だと思えば自分には一切が無縁だと目の前の現象を糸杉は見て見ぬ振りをし、その意味では運転手の現実否認と何ら変わるところがないようだが、非難とか退避とかいうことよりもまず先にうちへ帰りたいと希求するのもそこにこそ本来の現実があると思うからだし女の呪縛から解放されるのもそこにおいてしかなく(註─本当にそうだろうか、身の安全を保証するものなど最早ないに等しいのだから自分ちが安全だなどという考えは捨て去るべきではないのか)、リスタートするには一遍ふりだしに戻すしかないと思うからなのだった(註─そのふりだしの所在を見極めるのが困難なのだし、糸杉にはそれはほとんど不可能と思われ、だから私が、いや、私よりも)。

※8

事実に反証などいるのだろうか。いや、仮にそれが事実ではないとしても、仮構された(仕損なった?)物語に反証など無意味だろう。

※9

如何なる修正をなそうというのか、あるいはなされたのか気になるところだ。その痕跡を見つけだすことは非常に困難に思われるが、その修正如何でのちの展開にも少なからず影響が及ぶとすれば、それを黙過することはできない。

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