決心の鈍らぬうちにと自室のコードレスホンから津田宅に掛けてまずその帰還を告げれば「送られたって、そらどういう?」ことかと由雄はそれを歓びつつ訝しげで、麻那辺経由で吉岡から配送されたのだと掻い摘んで説明すると「込み入っててよく分かんねえけど」メシアが帰ってきたことはめでたいと妙に落ち着き払った物言いで、何か事前に総て知っていたとでもいうかのその口振りが気に掛かるが知恵美のことで先走っているからそれ以上深く考えることもなく「それであの、お願いなんですけど」と申し出ると「うん」と言って黙して考えるふうだがその間もどこか芝居染みているような気がし、一体どこまで予定されていたことなのかと訊こうと息を吸い込むが、それより一瞬早く「そらうちでできりゃそれに越したこたあ」ないが披露目となると手狭だろうと断わられ、「悪りいね」と詫びる由雄に「いんですいんです、こっちこそ無理言って」済まなかったと詫びて他を当たると切るがどこを当たればいいのかすぐには思いつかず、訊くともなく視線を送れば「先生に訊いてみたら?」アトリエとか借りられるかもと半透明の恵美の霊は言い、単なる思いつきらしいが余ほど気に入ったのかして「それがいいよ、うん」と頻りに推して自分らのホームグラウンドみたいなものだから何かとやり易いだろうとの説得に負けて「そだね」と頷いて次いで掛けたのはしかし田尻のところで、自身その案に乗り掛かっていたから「はい田尻です」との声に紀子は不意を突かれて驚きながらも「え、ああ田尻さん、藤崎です、すいません急に電話して、今だいじょぶですか?」ちょっと頼みたいことがあってとまず切りだし、「実はあの」と続けて知恵美が帰ってきた旨簡潔に告げるとその事実に田尻は昂奮した様子で「ホントすか?」をくり返す。ここはやはりマネージャーたる田尻に頼むのが筋ではと紀子は思い直すがその浮かれように会話は一時停滞して用件を切りだすタイミングを逸し、一頻り歓び合って波が退いたところで「だからね」日下に知れる前に既成事実を作っておきたいのだと助力を乞えば「ああそれだったらほら、あすこが借りれれば」申し分ないと即答し、折り返し電話する旨田尻は告げるとすぐ掛け合って「それはもう喜んで」と鞍村の快諾を得て、一〇分ほどして鳴った携帯のほうを取れば諸経費等も含めて日取りから何から粗方打ち合わせは済ませたと言い、その驚くべき早さにマネージャーとしての力量を紀子は改めて知るとともに徳雄先生を煩わさなくてよかったと思い、そこからふと昨日の電話が想起されて「あ、忘れた」と紀子は約束を思い出すが時計を見ればその時間は疾っくに過ぎていて、非常な焦りとともに飛び起きるが二歩で立ち眩んで踞(うずくま)ってしまい、そこで気力も萎えて今さら行ったところで行き違いになるだけと諦めたように吐息をつけば、不意に耳許で「え、なんか言いました?」と田尻の声がしたから「ああ、あの、えと、これからどうします?」と曖昧に胡麻化せば「今からそっち行ってもいいですか? オレほらまだ会ったことないじゃないですか、だから」メシア=天皇に是非お眼に掛かりたいと乞われて「今から? えと、それはちょっと」と口籠ると「なんかあったんですか?」と訝しげに田尻は問い、まだ本調子じゃないらしいから下手に心配させてもどうかと一瞬紀子は迷うが都合悪いならお披露目の日まで大人しく待ちます「ひとりだけ抜け駆けしようなんてダメですよねやっぱり」と悄然と呟くのを聞いて何だか悪いような気がし、いろいろ打ち合わせもあるしこっちから出向くのも骨だから来てもらったほうがいいかとその旨告げると「よかった、じゃすぐ行きます」と田尻は言って切り、田尻のすぐは本当にすぐだからと自室の惨状を一瞥してとりあえず片づけねばと紀子は腰を浮かし掛けるが、その前に着替えなきゃ、いやそれより詫びだけは入れねばとすぐ徳雄先生の携帯へ掛けるが電源を切っているのかいくら掛けても繋がらないから「怒ってるよねどうしよう」と紀子は嘆いて一旦取り下げたその誘いを無理に取りつけておいて素っぽかすなんて「最低」と低く呟けば、何を落ち込むことがあるのか、待っていればいずれ「先生のほうから掛けてくるって」と半透明の恵美の霊は楽観的だし「そうそ、心配しなくたって」大丈夫と知恵美は笑いさえするが、その日徳雄先生から連絡はなかった。
キャパのこともあるし三〜四〇人くらいがせいぜいだろうとその綿密な人選を田尻と共議を重ね、密かに呼び集めた人数はだから決して多くはないが、大セミナーほどの規模ではないとはいえ小ほど小規模というわけでもないから「中セミナーってとこですか」と生真面目に田尻は言い、祝賀会をも兼ねたゲリラ的なメシアの帰還報告をそう名づけることにしかしいくらか紀子は抵抗を感じ、本来ならもっともっと盛大に、それこそドームを借りて教団挙げての一大セレモニーを催してもいいくらいの慶事なのにその程度のことしかできぬのが紀子にはやはり不満で、いや、何も為し得ぬよりはずっといいし日下らに期待しても無理なのだからと自身言い聞かせもするが蟠りとしてそれは残り、その件で打ち合わせが続いたこともあって徳雄先生には連絡できずにしまい、長引けばそれだけし辛くもなると折をみて掛ければ繋がらず、気にはなりつつもズルズルと後回しになってその分自責の念は肥大して「何とかならないかな」と縋るように知恵実に頼むが「そういうのはちょっと専門外だなあ」と困惑げに首傾げ、メシアではないか天皇ではないか専門外も糞もあるかと執拗に食い下がっても「ボクにだって限界はあるし」といつになく弱気で、その灼かな霊験に限界などあるものかと紀子は訝るが知恵美に全的に依存してしまうことへのそれは諫言なのだと理解して以後この件については知恵美を煩わすまいと密かに決し、音量を控えめにしたテレビ画面を照明代わりにチカチカ蠢(うごめ)くブラウン管の光の交錯に時どき紀子は視線をくれつつ連絡を待ち、ずっと監視していたとでもいうかにそろそろかとそのほうを眺めやった紀子の意識の流れにピッタリ一致して携帯が鳴り、その符合に驚いてワンテンポ動作は遅れるし掴みとった手は妙に汗ばんでるし声は裏返るしと最悪で、それが分からぬから田尻は明らかに困惑した様子でメシアに何かあったのかと執念く問い、説明するのも面倒だが「違うの違うのそうじゃなくて」ただ驚いただけと順を追って話せば「そうですか、それならいんですけど」といくらか懸念を残しつつ準備ができたからそろそろ出てきてくれと田尻は告げる。切り際「やっぱオレ、迎えに行きます」と急に不安げにそう言うのを「全然だいじょぶだから」と断り、半透明の恵美の霊とともにひとり紀子は知恵美を携えて自宅マンション五〇五号室をあとにし、マンション前の狭い通りからいくらか広い表通りに出た途端にしかし何か得体の知れぬ感覚に貫かれ、空気に肌が馴染まないというような在り触れた感覚にそれは近いが一点どこかズレを含んでいるようで、過敏になっているのか気が重いし鈍いが全身に響く生理痛めいた圧迫をさえ紀子は感じ、一足ごとにそれはひどくなるから予感と言えるほど明確じゃないが何とはなしにそこへ行くことがためらわれ、日下らとの訣別というのではないし況して知恵美との訣別でもなく、その帰還を祝う細やかな祝賀会にすぎぬのになぜこうも気が進まないのか判然とせず、全体漠然としていて捕えどころのないその紀子の危惧を笑うかに半透明の恵美の霊は常の快活さで、紀子の二歩前を滑るように歩きながら「久しぶりだね、こうやって知恵美と出掛けんのってさ」と前を向いたまま感慨深げに言い、紀子にしても嬉しくないわけないではないから燥(はしゃ)ぐ気持ちも分からぬではないが「そだね」と素っ気なく、その素っ気なさを訝ってか左反転で後ろ向くとフワリと鼻先まで顔近づけて「そだねって、何そのテンション?」総ては元に復して皆がそれを祝ってくれるというのに何を鬱いでいるのかと訝り、まだ調子が出ないのかと心配げな眼差しで見つめられて首振りながらそういうことでは全然なくて「だからほら、なんていうか先生のこともね」あるしするから巧いことその波に乗れないのだと紀子は言い、自らそれを提案しながらこんなことを言うのは変だが何か皆浮かれすぎているような気がすると小声に言う。完全リニューアルを打ち出したとはいえそのイメージアップはもひとつ成功していないようだし実際的にも頽廃しているし、何より社会的に追い詰められている教団の趨勢を思えばそう短絡もできぬだろうと紀子は尤もらしいことを並べながら、その実それらに危惧しているのでは全然なく、自身にも掴み得ぬそれは漠たるもので言葉に為し得ないからそう言ったまでで、どう対処したところでだから無意味だし早晩破綻するに違いないと突き放したように言えば「ソレってなんかひどくない?」と譴責するかにその霊的存在の凄味をフルに利用して睨まれ、ひどいというならイニシエーションとか言って知恵美を攫(さら)った日下や沖のほうが余っぽどひどいじゃないか「違う?」と反駁すれば、それはそうかもしれないがそれにしたって今の紀子はどこか上の空だし三度も転(こ)けそうになって自身その動揺は認めもするが「何がって言われてもね、困るけど」再会を果たした直後のようにそう単純には歓べないのだと半透明の恵美の霊を透かしてアスファルトの路面に紀子は眼を落とし、偽装の携帯もバッグに仕舞って会話それ自体を拒否してしまったから以降半透明の恵美の霊の一方的な発話になるが、紀子の拒否的態度に徐々にそれも途切れて駅に着くころには沈黙してしまい、といってその楽観性に翳りを見せるということはなく、その属性は一貫して維持されているから鬱屈を抱えながらも紀子は半透明の恵美の霊のその明るさに牽引されて地下鉄を乗り継いで予定通り古家屋に至り、変わらぬその佇まいを懐かしみつつも何か引き返し得ぬ岐路に立たされているような気がし、そのどっちを選んでもしかし破滅のような気がするし背後から責っ突かれているような気もして傾いだ看板を見上げて少しでもそれを先延ばそうとするかにその剥げた塗装の縁をなぞるように紀子は眺め、その眼差しはしかし何をも捉えていないかのように虚ろに彷徨うだけで焦点も定かではなく、短くて数十秒長くて数分紀子はその場に佇んでいた。