照明を落とした暗い自室で音楽を掛けるでもなくテレビを見るでもなくベッドと背の間にクッションを挟んでひとり坐し、温っるいビール四、五缶とともにコンビニで買ったきんぴらひじき筑前煮等の惣菜類で腹を満たしつつも自室から食みでるほどにも膨らみ続ける鬱屈に紀子は抗いもせず打ち沈むままに任せるが、余計な負荷を掛けるだけだし自身それを末期と診断しつつ外から帰れば毎度毎度そこに落ち込んで長い間抜けだせず、その鬱屈に感応するのか紀子以上に疲弊したような面持ちの半透明の恵美の霊に接して際疾いところでそこから抜けだす端緒を掴むというのがこの幾日か紀子の帰宅後の悪しきパターンになっていて、今日もまたそっくりそれを踏襲するかの展開に就眠までの不毛な幾時間を耐えねばならぬのかと思うとそれだけで食欲は失せ、容器と口との間を往復する箸の動きが緩慢になるとともに最初の徴候が現れ、つまり眼前にあるモノの感触が僅かだが変なのに気づいたのだが僅かながらも無視し得ず、何もかもがゲル化したようなそれは感触で、抑もグミとかマシュマロの類いが苦手な紀子はその感触に一瞬眩暈(めまい)して吐き気とまではいかぬが非常な不快感を覚え、それが拭いようもなく底流し続けているせいか常なら全然気にもならぬチンした容器のプラスティック臭が鼻につき、というよりプラスティックそれ自体を食べているような気がして半分も食べられずに卓の端に押しやると口腔内に残るプラスティック臭を漱ぎ流そうとビールを一気飲み、それさえしかしアルミ味で飲めたものじゃないと泡立つ液体をゆっくりと缶に吐き戻すとそれ以上手をつけることもできず、卓ごと少し向こうへ押しやって背に挟んだクッションを押し潰すかにグッタリと項垂れる。その一部始終を見守りながら何の介助も為し得ぬのを嘆くかに悲痛な面持ちの半透明の恵美の霊に「だいじょぶだいじょぶ」いつものことと紀子は振る舞いつついつも以上に症状の重いのを察知してもいて、ゲル化作用がそれに拍車を掛けるらしく回避し得ぬほどにも昂じてくると半透明の恵美の霊さえゲル状のドロドロした何か異質なモノに変容してしまい、元よりそれは存在と非存在の狭間に位置する異質な何モノかなのだが、さらにも異質なモノへと変じてしまってそれ以上直視もできなくなったから眼を瞑(つむ)って紀子はやり過ごそうとするが耳からもゲル状のモノはなぜか関知できてしまい、諦念というのでもないが壊れたと紀子は思いながらどう修復すればいいかしかし分からなくて途方に暮れ、感情を、いや感覚さえも喪失したかに呆然と座り込んだまま長い長い数秒が過ぎ、それを打破するかに動いたのはしかし紀子ではなく半透明の恵美の霊で、こう暗くてはお化け屋敷的演出効果で「怖いじゃんなんかさ」と自身その最たる効果を見せているのを分かっているのか半透明の恵美の霊はそう言うと「電気点けなよ」と静かに詰め寄るが、自己演出か知らぬが妙に迫力あって一瞬紀子はたじろぎ声を呑み、字義通り透き通ったその瞳を見つめながら「うん」と応じたまましかし動きもせず踞ったままなのは霊的存在らしい属性を誇示するかの半透明の恵美の霊に恐怖してというのでは全然なく、このような絶望のうちにある紀子のそれに牽引されても尚その楽観性を保持し得ているということが端的に羨ましく思えたからで、常軌を逸したその考えに自身抗いながら「私もさ、死んだら恵美みたいになれるかな?」と言えば「バカ」と本気で怒り、その叱責はむしろ紀子には嬉しく「分かってる、言ってみただけ」といくらか楽にはなって「バカ」と尚も容赦ない半透明の恵美の霊のバカを全身で受け止める。
今の自分にとって半透明の恵美の霊が最終防衛戦なのだと改めて紀子は実感し、これを逸したら総てはだからお終いなのだと思うと全身総毛立つが今はまだそこまでの危地に陥ってはいないと僅かに理性を働かせて踏みとどまり、生前の恵美とその立場が逆転しているということにいくらか動揺を見せはするものの、ある種超越性を備えた霊的存在なのだから遙か上位にあって然るべきだし自分には捉え得ぬ多くのものを半透明の恵美の霊は捉えてもいるのだろうし、だからこそ楽観性を保持し得るのでもあろうと紀子は思い、僅かずつながらゲル化作用が晴れていくのを感じて騙し騙し現実を足繰り寄せるかに投げだしていた両の足を引き寄せ、横坐りの恰好で踝(くるぶし)辺りを掴んでその確かな手応えに安堵しつついつもより重度の鬱屈にそこから脱することの困難を思い、核心を避けるかに「徳雄先生さ、調停巧くいってるかな?」その灼かな霊験で透視できないか、さらにはその結果を予見できないかと問えば「知恵美じゃないからね、そこまでは」無理と言われ、その知恵美を介しての霊視も不可能なのかと執念く問うと一応試してみると瞑想するかに構えるが「やっぱダメだ」と半透明の恵美の霊は言う。意のままにならない力など力とは言えぬ「こんなのマリアじゃない」と項垂れるのをそれでも自分には力強い後ろ盾になっていると紀子は言い得たのみで、今にも消え入りそうなその淡い像にそれ以上何も声掛けられず、常なら速攻でフォローに廻るし立ちどころに回復せしめてしまうのだが半透明の恵美の霊以上に鬱屈している今それは困難で、等しくその低迷に耐えるなか「知恵美、どこにいるんだろ?」とふと紀子は呟き、次いで「無事だと思う?」と訊くと「決まってるじゃん」と即答で、毎度のことにいくらか呆れつつも「根拠は?」とさらに問えば「ないけど」なぜか知らぬがその確信の揺らぐことはないのだと不思議そうに半透明の恵美の霊は「なんでだろ? 昔はこうじゃなかったのにね」と嘗ての優柔不断を懐かしむかに遠い眼差しになりながら死ぬと迷いがなくなるものなのか、といって「成仏してるってわけでもないみたいだし」その本性が生前と何ら変わりないのを紀子も知悉しているからその不可解な属性の変化に自身困惑するかに「なんでだろ?」と問いを重ね、死には本質的に時間が存在しないから総てを見通せるということなのかと適当に答えれば確かに時間ということに関して「スゴく鈍ってる感じはするけど」無時間的というのとはちょっと違うような気がすると半透明の恵美の霊は言う。それでも「なんかね、繋がってるような気はする」と知恵美との連絡性を告げられてその一言に鬱積の総てを払拭し得たわけではないがいくらか紀子は持ち直したような気がし、見た目にもそれは表れて和やかとまでは言えぬが鬱屈の晴れたそれなり穏やかな表情なのが分かると半透明の恵美の霊に指摘されて「じゃ何?」それまではそんなに険しい顔つきだったのかと問えば「そりゃもう死にそうな顔してた」と半透明の恵美の霊は返し、好転の兆しを掴んだかに「ウソでしょ?」とトーンを上げれば「ウソ言ってどうすんの」と同様テンション高めて半透明の恵美の霊は言い、最大の波は回避したとの安堵から「も寝たら」と言われて素直に「そうする」と卓上を片づけはじめるがすぐにその動きは緩慢になって遂には完全に止まり、視線は逆に何かを探すかに泳いで最終的に半透明の恵美の霊へと注がれ、それに気づいたかして「何?」と見返す半透明の恵美の霊に「無事、だよね?」と切れ切れの声で呟くように問えば強い頷きとともに「もうすぐだって」と予見的に答える半透明の恵美の霊だが、その根拠はとさっきのように重ねて問うことは紀子にはできなかった。
再度鬱屈のほうへと引き戻されそうになりながらふと知恵美=メシア=天皇と声に出せばその空虚な響きに初めて気づいたというように何か強引に接ぎ木されたようなイメージが喚起されるとともに知恵美自体が歪(いびつ)なもののように思い為されてきもし、確かに知恵美自身天皇と豪語していたし紀子も陛下と呼んでいたが知恵美のその死に掛けのような外見と天皇の空虚さとを重ね合わせこそすれ一度として真に受けたことはないし単なる愛称以上のものではなかったはずで、それなのにいつの間にかメシアであり天皇であることを自明のように思い為していて端的に教団での布教活動が作用していたのだろうがそれこそ最大の罠ではないのか、そう思い為した瞬間から知恵美は自分の元を離れていったのではないのか、そしてそう思い続けている間は帰還することもないのではと紀子は思い、違うそれは誤解だと知恵美に訴えるかに思念を送り、メシアなんかじゃないし天皇なんかであるもんか、ただその帰還を紀子は願うのみだし知恵美との再会を願うのみだからそれがメシアだろうと天皇だろうとそんなの自分の与り知らぬことで、日下が八木が駒井が沖が信者らが勝手に作り上げた虚像にそれは過ぎないのだからそのようなメシア像なり天皇像なりに自分は何の関心もないとそう紀子は送信する。とはいえ知恵美からの返信はやはりないから期待はそっくり不安に置き換えられてメシア=天皇への不信心から総ては齎されたのかとそれまでの思惟を一転させ、メシアだからこそ天皇だからこそ自分には知恵美を庇護し保護する資格など端っからなかったのだと紀子は思い、出すぎた真似をするからえらい目見るのだと幾度も下した結論をまたも掲げてその被虐的な行為に愉楽するというのではないが容赦なく自身に浴びせ掛けて打ち拉がれ、つまりは過ぎた願いなのだと自身に宣告するかに吹っ切ろうとするが事はそう容易じゃなく、日ごとに憔悴の度は増していき、その出口なしの状況を危惧してか冗談とも思えぬ真剣な眼差しで「ちょっといい?」と切りだされ、唐突な呼び掛けにその死を告げる最後通告かと腹を括れば「そうじゃなくて」と首を振るから「じゃ何?」と怖ごわ問えば「ていうかほらここんとこ」よく眠れないみたいだし食欲も減退して随分窶れていると指摘され、そんなことは言われないでも「分かってるけど」どうしようもないではないかと力無く答える紀子に打開案というのでもないが自身実践してその効果も分かっている方法があると半透明の恵美の霊は言う。今さら何ができると訝りながらも「何?」といくらか期待すれば真剣な眼差しで「ケーキの一〇個も食べればすぐ幸せになれるし」嫌なことも大概忘れると実しやかに半透明の恵美の霊は言い、呆れたように「恵美だけじゃんソレ」と常の間合いで突っ込めばそんなことないと頑なで、ケーキのバイキングだの食べ放題だのにどれだけ人が集まるか知っているのかといくつも事例を挙げて示し、生前の饒舌に輪を掛けたようなその説得に騙されてというより何もせずに鬱屈を募らせるより動いていたほうがいくらかマシと「コンビニとかのじゃなくてさ」と指定された店までわざわざ出向いて買ってはみるものの二個も食べれば充分で、足の速い生菓子から手をつけていくが半数も食べ切らぬうちその甘ったるさに嫌気が差してあるいは乾燥しあるいは離水してその大半を廃棄せざるを得ず、捨てるその背に突き刺すように「パティシエが泣くよ」と言われて返す言葉もない。アレもコレもと指示したのはしかし「恵美じゃん」と反駁しても買ったのは自分なのだから程度の低いその言い訳に自身嫌悪しつつ今は何をしても悉く失敗に終わるということを改めて紀子は実感し、というより向後事態の好転する見込みはゼロで総ては終わったのだから無駄な足掻きはもう止そうと紀子は思い、恵美に殉じ知恵美に殉ずるというのではないがひっそり日陰者の生活に堕ちていくだろうとの漠たる思いが兆すと自分としてそれより他に選択肢はないように思え、突然開けたその眼前の闇にしかし怯えたように紀子は身震いすると腹を据えてか自棄になってか自身分からぬながら呑めとの指令がどっかから掛かり、拒否権などないかにそれを受けてあるだけの酒を皆呑んだせいかひどい二日酔いでベッドから離れられず、自分が呑ませたみたいで済まないと詫びるのを「恵美のせいじゃないよ」と緊縛されたような頭を僅かに擡げて紀子は言い、無理するなと半透明の恵美の霊が制するよりしかし一瞬早く脱力して再度枕に頭を沈めれば前より以上に縛りはきつくなったようで、低い呻きを僅かに洩らして壁側に寝返り打つと脈搏つこめかみの鈍い痛みを面に現わさぬよう静かに耐えつつ半日を寝て過ごす。