その視野のギリギリ下端にスウと滑り込むものがあるのに気づいて焦点を絞れば宥めるような声が静かに「行こ」と促し、その「行こ」に背押される形で「うん」と紀子は歩きだすと前を行くその半透明の背中に焦点を合わせて軋む階段をゆっくり上がり、帽子屋二階奥の一室前の薄暗がりを纏うように待機していた田尻から大方揃っているとの説明を受けてもう戻れないと漠然と思いつつ中に入れば例の事件がまだ記憶に色濃いからか全体葬式めいた静けさだし、日下らに知れると困るということもあって詳細は告げずに呼び集めたため何がはじまるのかと皆不安げな面持ちを露わにしていて、温気で噎せ返るほどではないにしろ換気が不充分だから室内は僅かに鼻を突くような人いきれが漂い、そのせいか何となく入り込めぬ抵抗感があって背後に戸の閉まる音を聞きつつ入口辺りに紀子は立ち尽してしまい、道化て笑いのひとつも取れれば和みもするのだろうが今の紀子にそれは無理で、障壁を為す呈の人いきれを前に怯む紀子の背後の気配にしかし幾人か気づく者がいて変にざわつきだしたからさらにもそれは紀子を怯ませ、何もできぬ紀子に代わって一歩前に進み出てその姿を曝す半透明の恵美の霊の「お忙しいところわざわざありがとうございます」との恵美らしくはあるがマリアらしくはない低姿勢に救われるが妙な違和を感じもし、そう感じたのはしかし紀子だけらしく田尻も気にとめてはいないようで、事々しく「今マリア様からお言葉がありました」とそれを伝えることにのみ懸命で、それに耳傾ける信者らは不確かな存在ながら、いや、それゆえにこそというべきか田尻の伝える言葉を手掛かりにその朧な姿に接続しようと懸命なのらしく、信仰に篤い信者らに限定して呼んだのだからそれはむしろ当然だし「マリア様」の唱和に至ってもだから不思議はないのだった。そのマリア様唱和で恵美=マリア=皇太后を媒介に参会者一同ひとつになるがひとり紀子だけが疎外されたかにその空気に馴染めず、異質な存在と自分を感じて弾きだされそうな気がしたから津田夫妻吉田時子孫の和樹多村友梨真希鞍村三老婆佃田朋子田尻と見知りの顔に順繰りに視線を送って自身気を鎮めようとし、なかばそれは成功して昂揚した空気のなか促された席に紀子は着くと落ち着かぬながらも趣旨説明をはじめようと一呼吸おいてから「皆さんにあの、お見せしたいものがあるんです」としかしすぐ本題に入り、その見せたいものとは即ち知恵美=メシア=天皇なのだと先走ると、その言葉の意味が分からぬというかに皆一瞬に凝固して静まり返り、ちょっといきなりすぎたかと紀子は焦るが大方打ち合わせ済みなのだろう日下の話では「昇天したってことだったけどあら」嘘だったのか、それとも教団の窮状を見兼ねて再度天から降臨なさったのかとタイミングよく由雄が振り、それに答えて「ええ、実はそのことなんですが」と田尻が事の顛末を告げ知らせ、そのワンクッションでいくらか隙間を見つけて強引に割り込むようにして「それがでも私には納得できなくて」このような形でなりともその生存を知らしめたかったのだと紀子があとを受け、それでようやく事態を把握してざわめくなか一際甲高な声が響いて「しちめんど臭いことはさ、もうそのくらいにしてさっさと」お披露目してくれないかな「退屈だよ」と不平を零し、よく通るその声に参会者の面上には一様に動揺が皺寄り、期待を込めたその皺寄りに応えるかに膝元に用意していた桐箱を紀子が机上に置いて示せば、その淡い光に一室は茫と包まれたから皆の期待も一挙に高まり、次いで箱から半身擡げてその身を曝すと皆の視線はそこに固定し、さらに身震いするかにその華細い体を震わせるとそれに合わせて淡い光も揺らめき、後光を負ったその半身に一転静まり返って皆その眼を疑うが、その張り詰めた空気を嫌ってか「しんとしないでよ」とさらにも知恵美は淡い光を揺らめかせ、それに応じるかに一室の空気も震え揺らいで切なげな吐息が洩れる。中にはそれを初めて眼にする者もいてその変幻する淡い光なりその干涸らびたような肢体の神々しさなりを拝して歓喜に打ち震え、最前のマリアコールにも増して「メシア様」の唱和が凄まじいがそれはそれでまた異質な昂揚を醸していて、密やかな熱狂とでも評したらいいのか紀子にはもひとつ掴みきれないが何かそのような狂騒とはかけ離れた熱気で、同じようでいてメシアとマリアとではやはりその受け止め方に違いがあるのだと改めて知り、とはいえその異様さ凄まじさに於いては少しも変わりはなかったから圧倒されてしまい、「分かった分かった、もういいってそれくらいで」との知恵美の制止で止むまでは紀子にそれをとどめる手立てはなく、気のせいと払おうとしながら全然比重の異なる重っもい空気の塊でも背負わされるかに呼吸も困難で、いや、そのこと自体は嬉しく思いもするのだがいくらか常軌を逸しているような気がして、自分と信者らとでは知恵美との関係性を決定的に異にしているということに紀子は改めて気づき、そうなるとしかし自分として信者らとの接点が見出せなくなって日下らとの違いも定かじゃなくなるし、さらには今ここにいる意味さえ喪失しそうな気がして祝祭的な雰囲気のなかひとり紀子はそこから遠く離れていくようで、そうなると信者らとは関係なしに紀子は紀子で知恵美への祈りを祈るしかなく、一室に満ちる淡い光は等しく紀子にも降り注がれるから何よりそれが救いなのだった。祝賀の催しは予定通り進められるがその盛り上がりにだから紀子はひとり懐疑的で、早めに散会したいとは思いながらも紀子の一存でどうこうできそうな雰囲気ではなく、いくらか距離をおいて眺めていると単なる祝賀の域を徐々にそれは逸脱しはじめ、田尻の言った中セミナーが冗語としてではなく現前してくると危惧というのでもないが一旦抑圧した違和がまたしても少しずつ膨らんでいき、紀子のその漠たる不安を現実のものにし且つ決定的に皆の意識を方向づけたのは鞍村の一言で、第二の知恵美派というより「私たちこそね、真の」知恵美派といっていいのではとのその言葉をしかし紀子は解し得ず、同様短絡して波立つ一座に「別に変な意味じゃなくてね」誤解しないようにと鞍村は眼で殺すように見廻しつつ知恵美=メシア=天皇を手中にある駒としてしか認識せぬ日下や沖らにその真の理解はなく「私たちこそね、真の理解者に」なり得る可能性を秘めているのではと言うと後ろに控えた三老婆が強く頷き、さらに間合いよく「真知恵美派か、巧いこと言うね」と知恵美が相の手を入れたから流れはそこで一挙に転じ、それを元に戻そうとの気はないながら知恵美にだけ聞こえるような小声で「そうかな」と紀子が呟くと「私は賛成」と半透明の恵美の霊が言い、「そうなの?」としかし二対一では分が悪いし知恵美が諾うのなら紀子としてそれをどうこうすることはできぬから、下手な介入はやめて見守る姿勢で続く鞍村の声に耳傾ければ、現実からメシア=天皇を演繹するだけでは不充分だしそれではメシア=天皇を貶めることにもなると鞍村は淡い光に眼眩まされてか徐々に顔つきも変じ、メシア=天皇が、メシア=天皇こそが総ての原因とならねばならないと強く言い、さして説得的というのでもないその言説にしかし皆靡いていくようなのは眼前の知恵美の姿とその華細な肢体から発せられる淡い光のせいなのらしく、何かそこに詐術めいたものを感じて違うとひとり紀子は思うのだった。
このとき初めて知恵美=メシア=天皇に接した朋子は何か奇怪な生き物でも見るような好奇の眼差しで間近に眺め続けて飽くことなく、っていうかなんかテレビとかでよく見る捕まった宇宙人みたいな、そらちょっと失礼か、でも正直そんなふうな印象で凄っごく不思議な感じなんだけど、でもどっか親しみ感じるっていうか、なんだろ、変てったら変なんだけどその変さがどっか普通じゃないって感じで、変に普通も何もないんだけど遠さが却って近さに通じちゃうみたいな、なんかそんな感じで凄っごく身近に思えたから光ってるのも全然気になんないしこういうのもアリなんだなって纏まらぬ思考を無理にそう纏めてひとり朋子が納得していると、出し抜けに「そんなに変?」と知恵美に言われて「いやあの、そんなこと、ないです全然」と笑って胡麻化すがいくらか引き攣った笑みで、それをもしかし指摘されて「やだ、もう、恥ずかしい」と皆の忍びやかな笑いのなかすごすごと自席に引っ込むと、それを機に幾人もが席を立ってメシア=天皇の姿を拝そうと列を為すのを「ボクの人気もまだまだ衰えちゃいないね」と知恵美も満更ではなく、カカカカと一際甲高に笑うと一室に瀰漫する淡い光も共振するかに揺らめいて、オーロラみたいと誰かがそれを評するが確かにそんなふうに淡い光は揺らめいていて、そんなことしかし今までになかったから「ね、ちょっと何これ? どうなってんの?」と紀子が訊けば「うん、スゴいね、正直ボクも驚いてる」と他人事のように知恵美は言い、その妙に冷静な口振りにむしろ紀子は危機感を強めて意識的ではないのかもしれぬが何かが知恵美にそれを強いているのかもしれず、知恵美のためのこれは祝賀会なのだから何も無理して光らないでもいいと言えば「ボクは別に何もしてないよ」とさらにも甲高に笑い、一段と大きな波をそれは起こして艶めいた喘ぎが洩れ聞えもしたから「何もって、だってコレ普通じゃないよ」と揺らめく光の束に自身歓喜しつつもそう言えば「みんな喜んでるんだからいいじゃない」と淡い光を振り撒きながら尚も知恵美は笑い続け、それには紀子も抗い得ず「でも」と言ったきりそのあとが続かない。淡い光の粒子ひとつひとつと人体を構成する粒子のひとつひとつとが無媒介に結びついて物質レベルの歓喜とでも言えばいいのか分かちがたくひとつに溶け合い、それでいて自ら発光するということもないのはその一体感結合感が錯覚にすぎぬからで、なかば歓喜に浸りながらもそう紀子は思惟を巡らし、紀子の自室ではしかしこんなことにはならないのだからなぜここでだけこうなのかが分からず、この室の特異性からその差異は演繹されるはずと瞳孔の開いた眼でグルリ室内を見廻せば、端的に外への流出が少ないため時間とともに濃密になって一室に満ちたのらしく、信者らの強い思念がその拡散を防いでいるのだろうというのが紀子の為し得た説明で、それだけならさして問題はないだろうが直接知恵美から吸い取るようなことはしていないだろうかとそれが心配で具合を訊けば「ボクは全然平気だよ」と爽やかに知恵美は答え、その爽やかさにしかし却って紀子は危惧を強めていく。