友方=Hの垂れ流し ホーム

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そのいちじくは

01

いやべつに間違えたというわけでもなかったのだと岡本は自身に反駁してみるが強ちそうとも言い切れない部分はたしかにあって、ただ間違いなら間違いでその間違いを正すべく何らかの措置を講じるベきと思いつつそんなことはしかしどうでもいいと投げやりに思考を停止させるとなぜか急に痛みだした腰を庇いながら静かに右に寝返り打てば、それはまだやはりそこにあり、もうしかしまともに反応さえできなくなっていて無感覚にただ眺めやるだけで無味無臭の黄白いそれを岡本は箱と呼んで蔑んでいた。それにしてもいったいどこで間違えてしまったのかとやはりまた思考はそこへ環流して、薄闇のなか岡本は痛む腰を摩りつつ何の気なしに入ってしまったのがいけなかったとおぼろな記憶を手繰りよせ、たしか前日まではそんな路地などなかったはずで、頭抜けて好奇心が旺盛というのでもない岡本だが、突如出現したその路地の「近道、抜けられます」的な、妙に人を誘う佇まいについフラフラと入り込んでしまったのだった。

路地といって車も通れぬくらいの、せいぜい自転車二台がすれ違える程度の、両サイドが背の高いブロック塀で覆い尽された狭暗い路地で、昨夜のうちに工事をしたものと思えるがそのような物音なり気配なりは少しもなかったと歩きながら岡本は思い、尤も昨夜は相当酔っていたから気づかなくても不思議はないとそれ以上問うことはなかった。壊しちゃ造り壊しちゃ造りをくり返すのが都市というものの属性というか本質というか、とくに驚くことでもないだろうし、昨日なかった道が今日でき、明日にはその道も壊されて別の何かができ上がっていると、まあ都市なんてそんなもので、そこが道なら通ればいいしなければ別の道を探すまでだ。とりとめもなく浮かぶ無意味な思考を弄びつつ岡本はその狭暗い路地のそこだけいくらか湿っぽい熱気とも冷気ともつかぬ空気を嗅ぎ、熟れたいちじくの濃密な薫りがそのときなぜか脳裡を掠めた。

隣家の裏庭だったそこは岡本の住むアパート二階の部屋からよく覗け、貧相な植木に水を撒く四〇絡みの貧相な奥さんをたまに見掛けた。そこを潰して道を通したそのわけは知らぬがぐるっとアパートを廻らなくて済むから楽は楽で、少しでも早くとの思いから何の考えもなしに入っていったのだったが、一歩路地へと踏み込むと生ぬるいアスファルトにズブズブと靴がめり込んでいく感触があり、ついで蹴りあげる靴裏にへばりつくような妙な感触を岡本は覚えるが、まだ生乾きのアスファルトの上を歩いた猫の足跡がくっきりと残っているのを眼にしたためのそれは幻触にほかならず、道なりに真っ直ぐとつづく猫の足跡に導かれるかにその象られた足形の窪みを見つめながら岡本は路地を歩き、幻触と知りながら尚靴のめり込んでいくようなのを腿を高くあげる軍隊行進めいた不自然な歩きかたで、前方に覗ける明るく日の射す通り目指して歩いたのだった。

猫の足跡の途切れたところが路地の終わりで、十秒とかからず岡本はそこを抜けたが、暗い路地からの対照で明るいと見えた通りはしかしさして日も射さぬ曇天で、ついさっきまで、というかこの路地に入る直前まで晴れていたような気がしたがさして気にもとめず、着古したジーンズに伸びきり色褪せたTシャツだけの薄着でいくらか肌寒く感じたものの上着一枚とりに戻るのは面倒だし鳥肌立つほどの寒さでもないからと背後に控える虚ろな暗渠を一睨みして歩みを進める。とはいえ知らぬ道に入ったら迷うのは道理で、その路地を抜けたところでもう岡本は迷ってしまっていた。そこで反転して引き返せばよかったものを、見知らぬ街にひとり放りだされたわけでもないし、越してきてまだ三週間とはいえ、界隈の地図は大概頭に入ってるからいずれ見知ったところに出ぬはずはないと岡本は瞬時の迷いを振りはらい、駅方面に見当をつけて通りを左手へ向かった。

どうも様子がいつもと違うのにしばらくして岡本は気づく。脇道も枝道もない一本道がクネクネと蛇行しながらつづくばかりで、いつも通る街道に一向出ないのだ。どう考えてもその街道と交差するはずなのに、しかも駅へと向かっているのだから道幅も広くなってもよさそうなものを一様に同じ幅でつづいていてなんだか袋小路の予感がしもしていくらか不安を覚えるが、それでも方角だけはたしかなはずで駅のほうへは向かっているからとにかく岡本は先を急いだ。岡本の不安を嘲笑うかに道はしかし徐々に狭まっていき、いよいよ引き返そうかと本気で検討しはじめたころ、やっと街道らしき通りに出ることができたが、近道のつもりが却って遠廻りしたような恰好で、苛立たしげに舌打ちすると歩速を緩めながら全体どの辺りに出たのかと岡本は周囲を見廻す。見たところたしかに街道らしいが車の往来もなく、といって閑散としているかといえばそんなことはなく、通り一体は妙に華やいだ祭とも見紛う賑わいで、雰囲気に呑まれて立ち止まった岡本は次の一歩が踏みだせず、引き返すということはしかし念頭になく、遅れそうとの焦りがその背をじわじわと圧迫するのを意識しつつ前のめりに右の足を岡本は送りだすと、あとはもう自動的に身体が前へ前へと移動していくのに任せるだけだった。

そのえらく賑やかな通りにはなぜか仏具屋ばかりが並んでいて通り一体は立ち込める抹香臭に囲繞(いにょう)され、その濃密な塊が鼻先を掠めるたび岡本は噎せ返る。俗に仏壇通りと呼ばれる浅草通りかと思わせるほどの光景で、各店頭にはズラリと客引きが立ち、それぞれ自店の意匠をプリントした前掛けをして揉み手で笑っているが、その笑い顔があまりに機械的で岡本は不気味に思い、一瞬怯んで歩みが止まりかけるが止まったら捕まる捕まったら絶対に何か買わされるとほとんど反射的に走りださぬ勢いでスパートをかけたのは、ついこないだ訪問販売で空気清浄器だかなんだかの一式を買わされたいやな記憶が脳裡を掠めたからで、今月これ以上の出費は痛いと意を決するような思いで買わない買わされまいと強力なバリアを張り巡らして楯にもし、念仏のように小声に買わない買わないと呟きながら自身呟いてることには一向気づいていないのだった。いつだって時間ギリギリだから捕まっては厄介と眼を合わさぬよう俯き加減に早足で一気に通りを突っ切り、脇目も振らずに歩いてどうにか辿り着いたのだったと岡本は記憶するが、息を整える暇もなく真向かいの席を軋ませるなり「ゴメン待った?」と切れ切れの声で詫びたその自身の声がもう遥か昔のことのように霞んでいて、現実感の伴わない画像の粗いビデオでも見るような希薄さなのを岡本は不思議に思い、不安とともに再度そのときの行程を辿り直せば妙に椅子の座りの悪かったことが思いだされるが、岡本が身じろぎするたび座りの悪い椅子は軋みをあげ、自身押し殺している呻きを暴きたてるかのそれは軋みのようで腹のうちで岡本は椅子を呪った。

いやらしく椅子の軋むなか、ふと周囲の猥雑な音しか聞こえないのを岡本は訝しみ、いつもならここで物凄い剣幕で怒りをあらわにするはずのゆかりが妙に大人しいからだということに気づいてさらに不審に思い、心持ち顔をあげて上目にその表情を盗み見れば待っていたかにその眼を捉えたゆかりはニッコと微笑み笑顔のまま言う。

「終わりにしよ」

そのひどくあっさりした物言いは、すでにすべてを整理しつくしてただ報告のみ伝えるというような何ひとつ弁明の余地のないもので、それだけに事態の深刻さをよりいっそう際立たせるふうで一瞬にして岡本は凍りつく。ドラマならここでそれまで流れていたBGMなり周囲の雑音なりのすべてが消えて画面もスローあるいはフィックスになるのだろうが、そっくりそれと同じだと変なことに感心したりするのもひどく動揺したせいで思考回路がバカになったからだと目の前の冷めた態度というか落ちつき払って笑みさえ浮かべているゆかりのその笑みに反応できぬまま岡本は思う。何バカみたいな顔してんのと常のゆかりなら速攻で突っ込むところを相変わらず満面の笑みを振りまいているから底知れぬ恐怖を岡本は覚え、何か答えねばならないと思いつつ何も答えることができない。最悪の局面まできてしまうとそれまでの焦慮も不安もすべて吹き飛んで無能者にでもなったようで、虚ろな視線に煙草を吸う手つきも一種気狂いじみてしまうが、さらにもいっそう狂的な笑みを不意に岡本は浮かべ、といってまるで自覚していないそれは笑みで、卑屈さとふてぶてしさとを併せもつ底のしれない異様な笑みにゆかりはいくらか気圧されたようだが、ティーカップではなく水の入ったコップを取ると一口含んで唇を湿らせ、岡本に引けを取らぬ穏やかな笑みで応じる構えを見せる。

年季の違いをまざまざと示されて適いっこないというかに岡本の笑みはあえなく消え、さらには憑き物がとれたように全身脱力して椅子のうえで一回りも縮まったようで、もう話すことなど何もないというような不逞な態度で煙草を吹かすゆかりに、というよりゆかりの吐く煙に視線が流れていくのをなかば意識しつつ流れるままに視線を泳がせ、何を怒っているのだろうとぼんやりと岡本は考えながらこれからどうするのかとの問いを発するが、自身の行く末ということじゃなくて今日このあとの一日の時間をどう過ごすのかというそれは問いで、なぜかそれが気になって仕方なく、今考えるべきはもっとべつのことだと思惟の方向をあるべきところへ戻そうとするのだが、結局巧くいかなくてパチンコでもして潰すよりないかと道化じみた物言いに紛らすのだった。

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