短絡し浮かれていた自身への怒りを募らせるなか、気を紛らせるようにコーヒーをすすりながら横目にゆかりを窺えば、岡本の懸念など知らぬげにゆかりはノブくんの話に打ち興じていて、その彼氏は辛いのとかダメでさあべつに激辛とかじゃなくてぜんぜん普通のカレーなのに腹痛えとかいってトイレ探すの大変だったんだからなどと会ったこともない男の些末な行動なり男との親密な会話の詳細なりがゆかりの口から発せられるたび岡本はオレに何を期待しているのかと考えざるをえず、下手な相槌でこっちの動揺を気取られないかとそればかり気になって結局下手な相槌を打ってしまうのだった。その口ぶりから察するにしかしノブくんとの関係が早くも座礁しかけているらしいのを岡本は認め、ノブくんでは癒されぬ底の孤独なり閉塞なりを抱えてゆかりが思い悩んでいるとすれば、そこにつけ入る隙も生じるかと思わぬでもなかったが、あわよくばリセットできるかもしれないと積極的に討って出る気もないのは、仮にゆかりがそのノブくんと別れたとして元の鞘に戻る可能性もあまり期待できないと思うからで、ゆかりにとって岡本はやはり単に元彼ということでしかないらしかった。
過去の人に成り果ててしまったその事実を突きつけられて愕然となり、ついで漠とした怒りに囚われてゆかりにそれを向けるのは筋違いだがなんとなく怒りに引きずられる恰好で岡本は苛立ちを募らせていき、別種の沈黙としてそれが岡本を圧迫しはじめたころ、不意にアレ見せてと言われてアレとは何かと訝しげな視線を返せばアレよアレとゆかりはアレとしか言わず、なんだよアレじゃ分かんないだろと怒りに任せて声荒げると怒んなくたっていいでしょ箱だよ箱こないだのヤツ白いのふたつあったじゃんとゆかりは言うのだった。箱と聞いてやはりそうかと内心岡本が頷いたのはソレを巡る闇の組織か何かが存在していることを確信的に了解したからで、ついにそれが動きだしたのだとそう思い、ひとつ対応を間違えればえらいことになると忽ち恐怖に包まれてしまってあたふたと腰を浮かして岡本はうろたえるが、それに追い打ちかけるかに「ねえ箱どこにあんの?」とドスを効かしたゆかりの声が岡本の脾腹に落ちてくる。
頽れるように再度岡本は腰を下ろすとなぜゆかりがとソレとゆかりとの関係がもひとつ分からなくて一点疑念を残しつつも箱の回収がその目的だとすればここへ来た意味もそれなり腑に落ちるような気がしないでもなく、とはいえじっくり考えている暇はなく向うは待ってなどくれないと焦るが、素直に従うべきか否かで岡本はずいぶんと迷い、といってそれは瞬き二、三回ほどの時間にすぎないが迷いに迷った挙げ句隠して隠し果せるものでもないと観念して腰をあげる。どこへ置いたかさえしかし忘れてしまっているのに一歩踏みだしてから気づいて岡本は慌て、ここでもたついて外で待機してるかもしれない強面のヤクザな連中に踏み込みでもされたらすべて終わりだと焦れば焦るほどその所在は知れず、部屋中探しまわって脱ぎ捨てたTシャツの下に埋もれているのを見つけたのはゆかりだが、全体それは埃に塗れて薄汚く、きったないなあと不平を垂れて洗ってよと岡本の胸元にゆかりは箱を突きだした。手にしたそれを洗っていいものかどうか分からなくてためらっていると早くしろと言わんばかりにほらとゆかりは流しのほうを指し示して岡本の背をぐいと押し、押されて流しに行きながらふと店員の言葉を思いだした岡本は固く絞った濡れ布巾で汚れを丁寧に拭きとると、はいとゆかりに手渡した。
片手に受けようとしてゆかりはそれを取り落としそうになり、もっと丁寧に扱ってくれとの岡本の思いを知ってか知らずか手のなかで箱をバウンドさせながらおっとっとと戯(おど)けて言うゆかりの気が知れず、怒りとも恐怖ともつかぬ感情に襲われて泣きそうになるのを辛うじて岡本は抑えるが、コレちょうだいと言われたときには「やっぱり」と裏返った声が出たような気がした。ゆかりの反応を見るに辛くもそれは呑み込めたらしく、とはいえかなり動揺してでもコレはほらアレだからとまともに返答さえできず、その動揺がしかし箱をよりコアなアイテムか何かに思わせてしまったのか、あるいはつけ入る隙を与えてしまったのか、二コあるんだから一コくらいくれたっていいでしょこっちの小っちゃいのでいいからとゆかりはなかば強引に承諾させると両掌のうえでコロコロと箱を転がすのだった。ゆかりの手のなかでそれは黄白く蠢いてまるで自らの力で動いているかのように錯覚させ、いやたしかにそれは自ら振動しているようで、その振動に同期するかにゆかりのほうもなんだか揺れ蠢いているような気がし、いやそんなはずはなくやはりそれは錯覚で、あるいは箱が幻覚を見せているのか、やはり何かドラッグの一種なのかと身震いし、混乱した岡本にそれ以上まともな思惟の働く余地はなかった。
怪しげな組織の片棒を担いでいるとの不遜な想像をチラとでも念頭してしまうともうそうとしか思えず、ここで逆らったら却って危険だと観念するが本当にコレを渡してしまっていいのかと岡本はまだためらっていた。ゆかりが組織と無関係だとすれば、当然ゆかりもその標的になってしまうからやはり渡すべきじゃないと長い逡巡の果てにようやく結論した岡本だが、獲物を手にしたからもう用はないというかにじゃコレもらってくねと引き止める岡本を手もなく振り切ってゆかりは帰ってしまった。ひとつ残された箱を手に岡本は為す術もなく茫としていてゆかりを危地に追い込んでしまったかもしれぬとの自責の念に駆られたのは、それからしばらくしてふと視線をやった時計が午前二時を過ぎているのに気づいてからで、こんな遅くにひとりで帰したこともさることながらゆかりもまた利用されているだけだとしたら最も危地に近くあるのは自室で怯えている岡本ではなくゆかりのほうで、そうとすれば未然にそれを防ぎえなかったオレの罪だと岡本は悔いた。といって今からあとを追ってもすでに遅いと諦めて已むなく床についたが諦めきれるはずもないから気になって仕方なく、不甲斐ない自分を呪うのみの一夜を岡本は寝ずに明かしたのだった。窓の外が仄かに明るみだしたころ臨海に達した不安に背押されてケータイに掛けると「朝っぱらから何?」と苛立った掠れ声が返ってき、常に変わらぬその声に岡本はようやく胸を撫で下ろして「箱は?」と問えば、知らないわよと怒ったようにゆかりは言うとそんなことでいちいち掛けてこないでよと通話を切られてしまい、箱の所在を問うたのはまずかったかと反省するが安否は確認できたから安心して眠ることができ、寝過ごしてしかし会社には遅れてしまった。
それはただの箱にすぎなかった。すっぽりと掌に納まる大きさの変哲もないただの黄白い箱のいったいどこにそれほどの魅力が秘められているというのか、自分だけがその秘密を知らされていないということに岡本はいくらか苛立ちを感じないでもなかったが、べつにさしたる損失でもないような気もし、そうとすれば手放してもいいようなものだが自分ひとりその魅力を了解できぬままというのがどうにも癪で、日を追うごとにその思いは強固になって気づけば手放そうとの気は微塵もなく、少なくともその魅力の何たるかを了解してからでも遅くはないと観察を試みることにしたのだった。観察といっても眼のつくところに箱を置いてただ眺めやるというだけの、意志的な行為には程遠いぼんやりとした眺めやりにすぎず、それでも日々眺めるうちに気づいたことはあり、植物的とそれを形容しうるものか分からないがその緩慢さが岡本にそう思わせたのはたしかで、つまり箱は成長していた。成長とそれを言っていいかは分からない。成長と言って悪ければ膨張でも肥大でも何でもいいが、とにかく日ごとに大きくなっているようなのだった。ある意味それは衝撃的な発見で、冗談と見做していた店員の言葉が一挙に真実味を帯びたものとして急浮上してくるが、それとともに消えかけていた闇の組織という疑念もまた擡げてきて岡本を悩ませるのだった。
一方でそのようにも疑念を抱え込んで怯えながら他方で箱への興味が湧いてくるようなのが不思議だが、むしろそのようにも謎めいた背景が見え隠れするからこそ興味も湧くのだろうと岡本は思い、店員の言葉に従って岡本はそれから毎日起床とともに濡れ布巾で丁寧に箱を拭き、直射光もよくないらしいのできっちりとカーテンを閉ざすことも怠りなく、一頻り眺めてから出勤するのが常になった。表面に付着した水分を吸って膨らんでるだけかもしれないが、箱は日々その体積を増していき、それを眺めて一日岡本は飽きなかった。黄色味がかった白色のどこか石膏モチーフめいた箱に岡本は漠然とながら惹かれているのを感じていて、それがなんなのか分からぬまま、その分からなさがある種魅力ともなって愛着とまでは言えないがそれなり大切に扱うようになり、埃に塗れてくすんでいた表面もいつか瑞々しく潤いに溢れてそれ本来の黄白い肌合いを取り戻していた。少なくとも岡本にはそう思えた。
店員の手にしていた箱やゆかりの持っていった箱のようにそれ自らが動くかといえば全然それは動いたりせず、少なくとも岡本が眺めているあいだは微動もしなかった。その体積は日々着実に増大しているようだが重量のほうはそれほど増えてはいないようで、いや、手にした感覚だけから言えばむしろ軽くなっているような気がし、吸収された水分が箱の内部でその構成する成分と何らか化学反応を起こし、それでガスが溜まって膨張しているのかもしれないと鼻先を近づけて臭いを嗅いでもみるが、プラスティックめいた箱それ自体の微かな臭いより他何の臭いもしないので真偽は分からない。それでも岡本が店員の説明の通りに朝晩二回の水拭きを欠かさなかったのは、某か変化を期待していたということなのかもしれず、意識のどこかでこれが生と無縁のただの箱とは認めたくないとの漠としたしかし切実な思いがあるような気もしないではなかった。