友方=Hの垂れ流し ホーム

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不意に背後に感じた人の気配に怯えて振り返り見ればアルバイトらしき店員で、その岡本の怯えようにむしろ店員のほうが慌てた様子で小声にいらっしゃいませを投げてそそくさと奥へ行ってしまうが、不信人物と目されては適わないと殊さら普通を装って意味もなくポケットを弄(まさぐ)っていたら小銭が出てきたので、さして渇いていたわけでもなかったが缶コーヒーを岡本はレジへと持っていき、それを免罪符か何かのように胸の辺りに掲げ持って店を出ると歩きながら飲んだのだが、なんだか味が変だった。二口三口と確かめるように舌のうえを転がしてから嚥下すると、そのたび濃密になるそれはいちじくの味がするのだった。その意味の全体を捉えようとするかにじっと缶を見つめていると、逃げても無駄だと嘲るようなノブくんの声が聞こえるような気がし、首筋を妙に嘘寒い風が擦過するのをその呼気を吹き掛けられたように思いもし、さっきの恐怖に忽ち射竦められて血の気が引いていくのをどうにか持ちこたえるが、視野も急激に狭まってその場に立っているのもやっとだしフラフラと足元も覚束ず、とにかく真っ直ぐ歩けなくて道路を斜交いに進んでいたから車でも通ったらひとたまりもなかったが、平日の昼過ぎだからか辺りは閑散と人通りもないし車の気配さえなかったから撥ねられたりはしなかった。

それよりも素肌に刺さる寒風がなんだか痛くて耐えがたく、湯気立つコーヒーはしかしいちじく味で飲むに飲めないから苛立たしげに手に持つ缶を岡本は睨めつけるとそのいちじく味のコーヒーを黒い路上にぶちまけ、ついで缶を路肩に音立たぬようそっと立て置くと観念したように道を引き返していくが、途中差し掛かった公園に吸い込まれるように足を向けたのはやはりまだ気持ちの整理がつかないからで、濡れているのも構わず隅のベンチに腰かけて黒ずんだ敷石を蹴るような仕草をくり返しながら項垂れて何も考えていなかったのは、考えれば考えるほど深みに嵌まっていくようだったからだ。風向きの具合で小便の臭いがしたりしなかったりする遊具のひとつもないその狭く暗い公園の隅のベンチで、ひととき岡本は休息しつつ引き上げるタイミングを見計らっていたが、鬱々と坐り込んでいると却って気は塞いでいくばかりで一向帰れる状態になれず、部屋へはもう戻れないかもしれないと幾度か思い、そのたびしかし戻らねばと自身に強く命じていた。二体を廃棄して完全に抹消し尽すことが唯一自分の生き延びる道なのだと言い聞かせて自身を奮い立たせようとした。

そのうち風向きが変わって小便の臭いがしなくなったその間隙を縫うようにしてそれは聞こえてきたのだが、不意に耳元でゆかりの声がしたから岡本は驚き、死体=人形=箱が追い掛けてきたのかそれを棄て去ったもうひとりが訪ね来たのかできることなら後者のほうであってくれと願いつつゆっくりと振り返りみるがそこには誰もおらず、空耳かと安堵するがやはり声はしていてノイズに満ちて不鮮明なひどく聞き取りにくいものながら、あなたがわたしの彼氏だったことなんてないです一度もとその声は言い、ついでその情景が脳裡にこれも不鮮明ながら映しだされるが、冗談とも思えないのはひどく深刻そうな面持ちだったからで、これ以上つき纏うのはやめてくださいと事務的にしかし強固な意思をあらわにしていくらか震える声でゆっくりと後ずさりながらゆかりは告げ、さらに一段と声を強めて絞りだすように「訴えますから」と言ったのだった。

その言葉の意味が分からないというように「訴える」と鸚鵡返しに呟いて離れゆくゆかりに追い縋ろうと岡本が一歩踏みだすと凄まじい形相で睨めつけられ、硬直した岡本を尻目に走り去っていくゆかりの後ろ姿がしかしそこだけノイズの取り去られた鮮明な像として浮かびあがるのをこれは何なのだろうと岡本は不思議な感覚に捉えられ、これはオレの記憶なんだろうか、こんなことが実際にあったんだろうかと首傾げるが、今の今までそんな記憶はなかったと岡本はそれを否定した。あったことをないと言われるのは心外だしこれは絶対に自分の記憶じゃなく、そのような事実の改竄(かいざん)に屈するわけにはいかないと岡本はその間違った記憶を妄想として一蹴しようとするが、なぜか脳裡にこびりついて離れず、これこそが本当のことだと岡本に告げ知らせようとでもするかに斥けても斥けても執念く浮かびあがってくるのだった。そのうちまた風向きが変わって今度は小便の匂いに紛れるようにして聞こえてきたのだが、苛つき上擦った声音のしかし勝ち誇ったような調子もあらわな口調で、弁護士とも話はついてるからいずれ近いうちに法的措置に出るとノブくんの声が決然と言い、その憎悪と嫌悪に満ちた冷やかな視線は岡本を射抜くかに見据えられていて、なぜそんな眼で見るのかまるで分からなくて笑みに紛らせば、尚さら怒りを買ったらしく何笑ってんだよと怒鳴られてしまい、とにかくお前はもう終わりだ覚悟しとけと捨て台詞を吐いて部屋を出ていくノブくんの像がこれもクリアに浮かびあがってきたのだった。

何の脈絡もなく唐突に降りかかってきた自身まるで記憶にないそれら画像と音声の数々に岡本は戸惑い、しばらく理解に苦しんでいたがやはり自身の記憶であるはずがないと判断し、何もかも嘘だ、それらは悉く何者かに刷り込まれたニセの記憶に決まってると頑なに否定し拒みつづけてどうかすると壊れそうな自分を危うい均衡で保っていたが、まだ気持ちの整理のつかない岡本を追い立てるかにまた降りだしてきて、霧のような雨だったからさして濡れることもなかったが仕方なく岡本は腰をあげて帰途に就き、ゆっくりとそこへ向かって歩いていくが、アパートへ近づくにつれていちじくが薫ってくるような気がして足取りは重く、どうにか辿り着いても濡れそぼち錆の目立つ外階段の下に立っただけで足が竦むというわけじゃないがその場に佇んでそこから先へ足が進まないし、何とか自室のドア前まで至ってもその向うに死体=人形=箱のゆかりと死体そのもののノブくんとがいるかと思うとなかなかノブに手がかけられず、ようやっとそれを掴み廻しても果たして再びこの異界から出てくることができるのだろうか、そのねっとりと纏わりつくいちじくから解放される日はやってくるだろうかと絶望的な思いに沈み込み、もうほとんど決死の思いでそっとドアを開けて聞こえぬほどの声でただいまを呟いたのだったが、忽ちそれはいちじくに絡めとられて消え入ってしまう。

部屋を空けていたのはせいぜい小一時間くらいのはずなのに室内はもういちじくに満たされていて窓を開けねばどうにも耐えられず、とはいえノブくんを晒すわけにもいかないからカーテンを閉ざしたまま細めに開けて換気扇を廻すがそれでは全然追いつかず、濃度はどんどん高くなって息を継ぐのさえ困難なほどにもそれは器官の奥の奥へと侵入して全身を蝕むようなのだった。一刻の猶予もない、とにかく処理しなければと後先考えず転げているノブくんの両脇を岡本は抱え持って浴室へと引きずっていき、無造作に投げ下ろすとついでゆかりを浴室へと運んでノブくんの上に重ね置き、ドアを閉めて押入れに取って返すと空気清浄器を取りだして適当にセッティングしてスイッチを入れるが、モーターか何かが回転するような静かな唸りはするものの効いてるのかいないのかもひとつ分からず、依然室内は濃密ないちじくの薫りで眩暈しそうなほどなので、やはりそれだけでは心許ないと窓を開け放って外気を入れたのだった。それなのに外気までもがいちじくの薫りに毒されてしまったのらしく、どこもかしこももういちじくの薫りしかしないのだった。

誰かが岡本を呼んでいるらしく浴室のほうからそれは響いてきたが、換気扇と空気清浄器の音に紛れてよく聞きとれず、途切れ途切れに聞こえるその声に覚えはないが誰かと耳そばだてるのも恐いようで、なかばそれから意識を遠ざけるように窓辺に佇んで隣家の貧相な裏庭を岡本は睨み据えていた。そのうち貧相な奥さんが出てきて貧相な植木に水を撒く様子で、しばらくその緩慢な動作を岡本は眺めていたが、こっちの気配に気づいたかして不意に見上げたその視線とぶつかってしまい、咄嗟に後ずさってその身を岡本は隠すがコソコソ隠れなどしたら却って怪しまれると思えば訝しげな面持ちで尚も奥さんがこっちを窺っているような気がし、あるいはいちじくの薫りを訝ってのことかも知れないと窓を閉ざしたかったが見ている前で閉めたら余計不審を買うと窓辺に近づくこともできなかった。背後からは耳馴れぬ声が執念く岡本を呼びつづけていて、岡本の耳に届くか届かないかのそれは微かな響きにすぎないが、あまり長いことつづけられて外に洩れても困るし今尚様子を窺っているかもしれぬ奥さんに聞かれりしたら厄介だから注意してやろうと身を翻し、一歩を踏みだしたところでしかし不意に何かが込み上げきて胃のなかのものを岡本はすべて吐いたが、口内にはすっぱい胃液ではなく、況してクノール・カップスープでもなく、いちじくの甘い薫りがひろがっているのだった。

─了─

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