ふと何かの気配に目醒めると、虚ろに空(くう)を見据える女が素裸で壁に凭れているのを視野の端に認めた。いや、身じろぎひとつ女はしていなかったのだから気配というのとも違う気がするが、何か常とは異なる空気を感じたことはたしからしく、そうでなければその時間に岡本が目を醒ますことはまずないからだ。わずかに腰の痛みがあるようだったが目醒めるほどのものじゃないし、白みかかったばかりの外はまだ青暗く不気味に静まり返っているし、尿意さえなかったから目醒めたこと自体不思議で、天井に向けていた焦点も定かならぬ視線を下ろすとともに右方へ首を傾けたその先に女はいたのだった。その前にある座卓が視野の妨げになっているせいで最初シミめいた黒い塊にすぎなかったそれが徐々に女の肢体と認識されてくるにつれ、霊とか何か非現実的存在とまずは直感されたから岡本は恐怖して息を呑み、ついでたしかにそれが生身の女らしいのを闇に馴れた視覚に捉えるとまたべつの恐怖が一室に瀰漫するかに岡本の呼吸を阻害して女と対峙しつつ凝結した時間を岡本はもがいた。
徐々に顔かたちが見分けられるようになってやっと見知った人物らしいとの認識を得ていくらか恐怖は緩和されたが、呆けたような眼差しのせいでそれでもしばらく誰なのかは分からなかった。声を掛けることがためらわれたのはその段階に至ってもまだやはりいくらか恐怖していたからだが、いくら見知った人物だとて勝手に人んちに上がり込まれるのは困ると少しく怒りが兆してくるとその勢いを借って恐怖を脇へと押しやり、岡本はじっと女を凝視した。その視線に浮かび上がってきたのはどうもゆかりらしく、さらなる凝視にやはりそれはゆかりに違いないとの確信を強め、そこでようやく岡本は安堵できたのだった。それでもゆかりから眼を離すことなくゆっくりと起きあがり、濃霧のなかを手探り歩くかに少しずつ距離を縮めていってその前にしかしいくらか距離をおいてしゃがみ込めば、薄闇にその裸身は黄白く浮かんである意味艶かしく、眺めるともなくゆかりの肢体を眺めつつその異様さに改めて擡げてくる疑念にこれはいったい何なんだと岡本は考え込んでしまう。もちろんそれはゆかりにほかならないし岡本にはそれよりほかの答えを見出すことなどできなかったが、ゆかりだとの答えを捨象してさらにも問いつづけてしまうのは、やはりどうしようもなく異和を感じてしまうからで、つまりゆかりの振る舞いとしてそれがあまりに異様なためにその異和の出どころを突きとめたく岡本は執念く眺めつづけて已まないのだった。もとよりゆかりには振り廻されることの多かった岡本にその思惑の分かろうはずはなく、軽い外反拇趾(がいはんぼし)の歪んだ足裡がハの字の形に黄白く浮かびあがっているのを見つめながら、心持ちひろげられた両の脚のつけ根から覗く、足裡の白とは対照的な黒々した毛叢にしかし視線は釘づけられず、無造作に投げだされた恰好の両の腕のその先の、握るでもなく開くでもない半端に開き閉じられた五指にいつか岡本は視線をとどめおき、黒々した毛叢よりも尚それは艶かしかった。
無言の対峙が闇をいっそう闇深く、静寂をよりいっそう無音に近づけ、端的にそれが岡本を次の行動へと駆り立てたのだったが、ゆかりの裸身をこれほどまじまじ見つめたことはかつてなく、夜明けとともに堅牢と思われた闇に綻びが生じてくるとその姿もよりあらわに浮かびあがってくるが、あらわになっただけ艶かしさも増すかといえばそうでもなく、そのゆかりの裸身に岡本が扇情されることはなかった。嫌悪というほどじゃないにしてもなんとなく不浄さが漂い、猥褻というのとも違う何か妙な生々しさが露呈しているようで自然と眼を背けてしまうのだった。死体への距離感にそれは酷似しているんじゃないかとふと岡本は思い、あまりに不遜なその思いつきに眼顔で詫びるが岡本の意に反してそれは確信に近く膨れあがり、といって間近に死体に接したことなど岡本には一度もなかったからイメージのそれは死体にすぎず、犯罪にまつわる死体なり心霊現象にまつわる死体なりの多くは電波に乗って巷に流布している安手のイメージしか岡本には想起できないが、それでも死体は死体で、そこに付帯する諸々のイメージと目の前にあるそれとが妙に一致しているように思えたのだった。
つまりそれは死体だった。生きた死体。といってゾンビとかいうのではなく、魂の抜けだしたあとに残される脱け殻みたいな、生と死との間に位置してどっちに属しているのか瞭然としない半端な状態の、つまり生きた死体と岡本は思い、そう思うとしかし尚さら近寄りがたく、さらにはこの部屋自体が異界に落ち込んでしまったようにさえ思えてきてなんだかひどく息苦しいし咽喉も渇いてきて、たしか冷蔵庫に飲みかけのミネラルウォーターがあったと思いだした岡本はゆっくりと立ち上がると冷蔵庫とゆかりとその両方を視野に納めながら静かにそこへ向かった。よく冷えたミネラルウォーターをほとんど一息で飲み干すと口内から食道へと伝い流れるその冷たさにようやく岡本は眼を醒まし、再度ゆかりの傍へ近づきながら死体との想念を払拭しようと薄闇に茫と浮かびあがる黄白い裸身をしばらく眺めていたが、ノブくんはどうしたのだろうとふと思い、ゆかりひとりおいて帰ったとは考えられないからどっかその辺で寝てるのかもしれないと視線を巡らすが、暗くてよくは見定められぬながら部屋のどこにも姿はないらしかった。
刻々明るみを増してくる自室で死体めいたゆかりと相対しているうち岡本は妙な感覚に捕らわれていくのを自覚するが、慾情に掻き立てられたというのではなく、過去の現前というのかゆかりと過ごした日々の記憶が虚ろながら想起され、何かゆかりとの関係の総決算のように辿り直していきながらしかし変だと岡本が首を傾げたのは、全体それが妙に捻じくれてしまっていて何か分からない不定要素が混入しているのに気づいたからで、問うような視線を投げるもゆかりは何も答えることなく、錯雑した記憶に岡本はしばらく苦悶していたが、そのうちどこかで警報の鳴っているのが微かに聞こえ、そう思ううちにも徐々にそれは近づいてくる感じで大きくなってああそうかこれは目覚ましの音だと気づいて目醒めれば、たしかにそれは目覚ましの音で手探りに岡本はスイッチを切ったが、再度寝入りそうになったから俯せに寝返り打って腕立て伏せの体勢から無理やり起きあがると四つ這いで蒲団から抜けだした。
それでもまだ覚醒には至らなくて尚しばらく岡本は坐り込んでいたが、壁面に凭れた恰好のまま尚ゆかりが裸身でいるのを認めて夢じゃなかったと再確認するとともにようやく尻を床から引き剥がしてゆかりの衣服を探すが、どこにもそれは見当たらなかった。そんなプレイは趣味じゃないから裸のまま放置してもおけないし朝晩の冷え込みだってそれなりキツくなっているからカゼでも引かれたらあとで何言われるか知れないと服どこやったと訊いてみるがゆかりは何も答えず、いったい誰の仕業かと推測するにノブくんよりほかあり得ず、ひどいことをすると舌打ちしつつとりあえず自身のTシャツと短パンを岡本は着せようとした。ゆかりへの配慮からか明かりを点けずにこればかりは死体染みていない黄白い肌を晒しているゆかりに岡本は自身の衣服を着せていくが、グッタリと脱力しているせいか人形みたいで、というよりそれは人形そのもので、抱きかかえる恰好でその半身を肩に凭れかけさせるが、それだけでも全体細身の体つきながらその重量がズシリと伸しかかってうまく着せられず、バランスを崩して三度までも後頭部を床に打ちつけてしまった。それでもゆかりは呻きも叫びもしないから岡本はひどく不安になり、呼吸しているか脈拍は正常か幾度も確認するが、規則正しい寝息が聞こえるし異常らしい異常も認められなかったから、とにかく着衣を完了させようとその手をとって袖に通した。Tシャツは割と楽に着せることができたが短パンを履かせるには尻を浮かせなければならず、これが非常な困難を伴って剥きだしの性器なり陰毛なりが鼻先辺りに幾度となく擦れ、慾情する暇はしかしなく、着せ終わるころには額から首筋から腋下からほんのりと汗が滲んでいた。
部屋はもうかなり明るく、閉ざしたカーテンの隙き間から覗く外光の青白い筋が床を這ってゆかりのひろげた脚の先を斜めに横切り、その前に腰掛けている岡本との間を分断するように反対側の壁辺りまで伸びていて、そのせいか異界めいた雰囲気はまだ充分に醸されているからなんとなく落ち着かなかった。とはいえ岡本の知るかぎりゆかりがこんな放恣な姿を平然とさらすことなどなかったはずで、それだけでもう充分異常な振る舞いといってよく、これは果たしてオレの知っているゆかりなのかとの疑念が湧いてくるが、ゆかりでなければじゃあいったい誰なのかと問うてみてもゆかりとしか答えようはなく、ゆかりとしかし言いがたいのもたしかで、何かが決定的に違っているのだった。といって何が違っているというのでもなく、その違いを明示できないのが岡本にはもどかしく、約一年と二ヵ月交際をつづけてきた者の見解とも思えぬその曖昧さに我ながら呆れ果てて一方的に交際の解消を宣告されるのも尤もだと今さらながら反省などしつつ換気しようと窓を開けると、柔らかな朝日が差し込んできて異界めいた様相を一挙に拭い去ってくれるが、その間隙を縫って冷風が足もとを撫で、さらにそれはゆかりの髪を靡かせ頬に纏いつかせた。そのわずかなゆらめきが何か意思の表れのようで瞬間岡本は頬を引き攣らせるが、わずかに逡巡しただけでその脇にしゃがみ込むと両の脇から手を差し入れて背中で組み合わせ、ソファまで引きずっていってそこに坐らせるとそのあらわな脚にタオルケットを一枚かけた。