清潔が何よりなので朝晩二回水拭きをし、糞の始末はこまめにすること、日射しに弱いので直射日光は避けること、全体神経質なので構いすぎても却ってストレスになるからなるべくそっとしておくこと、との説明を店員がはじめたのに岡本は耳を疑い、仏具屋と見えたのは錯覚で実はここはペットショップだったのかと再度ぐるりを見廻せば、自身の周りに犇めいているものはどう見ても仏具に違いなく、そうとすれば頑なな岡本の態度に焦慮したあまり恐らく以前勤めていたペットショップでの口上が紛れ込んだのでもあろうと推測し、向うも必死なのだなと思うといくらか余裕もできてペットは飼えぬからと笑顔で断ると箱ですよこれはペットじゃありませんと自身の失態を嗤われたせいかむきになって店員は言い募り、でも箱が糞をするのはおかしいじゃないですかと図に乗って岡本がつづけると今どき箱だって糞くらいしますよお客さまと退くに退けなくなったらしく居直ってそう言ったのだった。
箱が糞などするわけないがあからさまに指摘するのも大人気ないような気がするしそう断言されてしまうとなぜかそれ以上反論もできず、口籠ったまま店員に押し切られる恰好でなかば購入を承諾したような雰囲気になり、ヤバい展開だと焦りながらもここが踏ん張りどころと黙していると、店員は馴れ馴れしく身を寄せてきて「分かりました。お客様だけ特別に一六〇〇円、税込みで一六八〇円、どうです?」と小声に言うが、もともとの価格さえ知らないしそれが妥当かどうかさえ岡本には分からないから応じようもなく、世話などできないと突っぱねるが全然声にならないから何か詐術にでもかけられたような不安を岡本は覚え、嫌な汗がこめかみを伝い流れるのを右手の甲で拭いつつ買う意志のないことを伝えんと懸命に首振るのだが、ハイハイとそれに答えるかに店員は頷いているのみだった。
これはただの箱なのかとの疑念が不意に岡本の脳裡を掠め、何か違法なモノだったりしたら困るし知らぬうち何か相当ヤバいことに加担させられてしまう可能性だってなくはないと思うと急に岡本は怖くなり、気の弱い人に箱を押しつけて何かヤバい代物の運び屋に仕立てるとかそういうことだってありえると飛躍した想像をしてしまい、ここがペットショップじゃないことが妙なリアリティーを感じさせもしたから絶対に手を出すなとの至上命令を掲げて店員に対するが、気づけば丁寧に包装された箱がもう手渡されているし店員の手には千円札二枚が握られてさえいる。
すでに店員の手に渡ってしまった千円札を返せと詰めよる気概は岡本になく、受け取った釣り銭三二〇円をジーンズの前ポケットに無造作に突っ込むと早足で店を出ようとするが焦って方向を見失い、出口が分からず立ち往生しているとお客さんと肩を叩かれてまだ何か買わすつもりかと訝りつつ振り返ると、はいこれサービスと店員は何かを岡本の手に握らせる。これ以上かかわりたくない一心から荷物になるので要らぬとも言えず、よく確認もせずに小脇にして速攻で逃げる岡本の背に「ありがとうございました、またどうぞ」との声が嫌らしく纏わりつき、それが足に絡んで転けそうになる。その隙をついてまた別の呼込みがワラワラと身に迫るのを察知すると恐怖とともに身の危険を岡本は感じ、常にない敏捷さで体勢を立て直すと一散に駆けだして人のいないほういないほうへと逃げていくが、店舗は尽きることなくつづいているかに思え、そう思うだけでもう息切れてしまい、自身の基礎体力の無さを岡本が痛感したのは自宅アパートに帰宅してからで、身体的疲労に加えて精神的疲労が重なって解消のより困難なものとなって鬱々と部屋に籠っていたが一向気の晴れることはなかった。その間つづいた曇天も岡本の鬱屈を延引させるのに少なからず作用したことはたしかで、一切が夢だったらとその間幾度となく願うも箱の存在が空しく否と告げていて、一六八〇円はたしかに支払われて岡本の許にそれは今ない。一六八〇円を失ったことが惜しいのではしかしなく、得体の知れぬ箱を掴まされたことへの不安と苛立ちが憂鬱の根幹をなしていて、とはいえ下手に処分することもできないから始末に負えず、世話をするなどむろん視野になかったから二つながら部屋の隅に投げだされたまま箱は放置されていた。
その間何をしていたかも模糊として定かじゃないが、たしか鬱々たる長い一日の果てにようやく日付の変わるころと岡本は記憶するが玄関のチャイムが鳴り響くのを耳にして、その非常識に腹立つよりもついにきたと何がきたのか見当もつかぬながらそう岡本は思い、常の倍ほどの速さで脈打ちだした鼓動を鎮めようと呼吸を整えてから気配を殺してドアに躙(にじ)りより、こそっと当てた右の眼で覗き見た広角レンズの向うにはしかし歪んだゆかりの顔が揺らめいてあり、覗いてるのは分かってる早く開けろとその眼は岡本を睨めつけていた。この部屋にゆかりの私物は一切なかったはずだし時間も時間だから何か差し迫ったことで訪ねてきたらしいのは分かるが、ついこないだ振ったばかりの男の部屋に今さら何の用があるのかと疑念の兆してくるのを岡本は禁じえず、それが何かと考えてみてもしかし岡本には想像も及ばない。とはいえゆかりの来訪それ自体は岡本にとって僥倖で、それまでの鬱屈のすべてが晴れるというわけには行かないにしろ妙に浮き足立ってしまい、神妙な面持ちはそれでも崩すことなく招き入れたのだったが、幾日も抱えていた憂鬱に引き摺られての若干の疑念は打ち消しがたく滲出(しんしゅつ)していて、コーヒーを入れるあいだも何とはなしにゆかりのほうを窺い見てしまってカップに注ぐ手許が狂い、卓に零れた数滴の黒い雫を丁寧にティッシュで拭って丸めたそれをゴミ箱へ投げ入れながら尚も岡本はゆかりへと視線を注いでしまうのだった。
見たところゆかりは妙にソワソワしていて何か切りだしたそうなのだがためらっている様子で落ち着きなく、部屋の隅々を仔細に観察するふうに動き廻っている視線からもそれは明らかで、一般的に言っても別れた男の許へ自ら訪ねてくること自体異例な出来事だろうし常のゆかりからすれば尚のこと考えも及ばぬそれは展開といってよく、ゆかり自身がそのことの異常性にひどく緊張してもいるのだろうと岡本は見てとり、その緊張を解す手立てをしかし何ひとつ思いつかぬまま冷めないうちにと無難にコーヒーを勧めるくらいしかできなかったのは、岡本のほうもゆかりと同程度に、いやことによるとそれ以上に緊張していたからで、実際コーヒーをすすめるその声は抑揚もおかしな具合の変に裏返った頓狂な響きで、その声に驚いたのか若干首を竦めながらわずかにゆかりは頷いたがコーヒーに手をつけることはなく、モゾモゾと身を捩(よじ)って「あのね」と切りだしたのだった。そのどこか媚びるような視線なり挙措なりが常のゆかりらしからぬものだったから「何?」と岡本は身構えるがそれっきりゆかりは何も言わず、神妙に構えて様子を窺いながらもそのらしくない媚態に包まれたゆかりの挙措は却って岡本を疑念に駆り立てるようだった。とはいえそれ以上にゆかりの来訪したことへの歓びのほうが圧倒的に強くあったのも事実で、その歓びの前にいつか疑念など霧消して根拠のない妙な期待感のみで岡本の意識は満たされてしまい、かつてあった蜜月の復活を予感させなくもないその雰囲気にいくらか浸りつつさらにも期待を膨らませていくのだった。
その岡本の無根拠の期待を助長して已まないゆかりの沈黙は果てもなくつづくかに思えたが、ついに臨海に達したかして妙に切迫した面持ちで「ちょっと」とゆかりは言い、逸る思いを抑えつつ「何?」と岡本が促せば、トイレ貸してと言うより早くゆかりは腰をあげてスタスタとトイレに駆け込んでいき、その後ろ姿を横目に見やりつつそれまでの緊張が一瞬に解けて溜息つくと全体ゆかりは何しにきたのかと岡本はまたも思惟に沈潜してしまう。無根拠な期待感に牽引されて見出したのはあるいは交際の破棄を宣告したことを後悔してるんじゃないかということで、一度言明したことを撤回することに非常なためらいを見せ頑なそれに固執する常のゆかりを思うとありえそうにもないが、期待感に膨らんだ岡本の思惟はその可能性を否定しがたく、そうとすればその撤回を求めに取るものもとりあえずやって来たとそういうことなんじゃないだろうかと窮めて独善的な希望的観測を打ち消しがたく抱いてしまい、何か話がありながら切りだしにくいというその素振りが何よりもすべてを物語っているように思えて仕方なかった。そこからさらにも飛躍した論理で岡本は思考を巡らしていき、得体の知れぬ箱を巡る不安なり鬱屈なりからありもしない妄想に憑かれてしまったのかもしれないとそう岡本は思い、破局はなかった、そのような事実はなかったのだとさえ思えてきてすべてを箱のせいにして片づけようとし、改めてそのことの意味を問い直すように記憶をひとつひとつ参照しようとしたが、ゆかりが戻ってきたのでとりあえずそれは後廻しと座につくゆかりに視線を向ければ、カップを覆い隠すように両掌を添えてその中を覗き込むようにしながら半身を乗りだし切りだすタイミングを計るかにゆかりは身構えていて、今度こそと高まる緊張に岡本は咽喉の渇きを覚えてコーヒーを二口飲んだ。
それに釣られてか手にしたカップをゆかりは持ち上げるが直ぐ卓に戻しおき、上目に岡本のほうを窺いながら岡本のコーヒーをすする音に掻き消えてしまいそうなほどにも華細(かぼそ)な声で「あのね」とゆかりは切りだすが、やはりその先はなかなか口にできぬらしく、非常な期待感とともに根気よく待機する岡本へ向けて発話を試みようとするゆかりの前向きな姿勢に岡本は感極まり、何も聞かぬうちからすべてを許す気になっていて何もかもなかったことにすると胸のうちで叫んでいた。その叫びが届いたかどうかは分からないが注視する岡本の視線を捉えてやや唐突に「ノブくんがね」とゆかりは発し、ノブくんとは誰かと口にはしないが確実に面貌に表出しただろう岡本の疑念を見てとってか今交際している彼氏なんだけどとゆかりは説明し、そのノブくんとやらがどうしたのこうしたのとそれまでのためらいが嘘のように一転して常の調子で喋りだすのを岡本はただ茫然と眺めているのみで、その言説の受容を拒否するように思考もなかば停止していったいどれほど自失していたか知れないが、その間もゆかりの饒舌は已むことなく、微かに届くその声に殴られつづけるかに岡本の神経は寸断されていくのだった。期待は完全に裏切られ、といってそれは何の根拠もない岡本の勝手な妄想にすぎなかったのだが、どうにも絶望的な思いに暮れてしまってひとり妄想を逞しくしていた自身を岡本は呪いながら、いったいゆかりは何しにきたのかと最初の問いへと否応なしに引き戻されてしまうのだった。