友方=Hの垂れ流し ホーム

08

死体=人形と化してしまったゆかりとともに長時間自室に籠っていると吐き気を催すまでには至らぬもののどうにも気分が優れず、カゼのせいとも言えないのは外出しているときには特に目立った変調が意識されることはないからで、端的にそれを死体=人形の無言の圧迫が齎す心因性のものとずっと岡本は思っていて、ゆかりといる心地よさと死体といる不快さとの微妙な均衡でどうにか保っているような状態と認識していたが、一日閉め切ったままの部屋に帰宅したとき強烈に意識されたことで発覚した事実は、熟れた果実の匂いが一室に瀰漫しているということだった。ゆかりにと用意していたいちじくはしかし残らず岡本が平らげているからそれが原因とも思えず、といってほかに疑わしいものとてないからやはりこれかとその香を引き較べてみると、たしかにそれは熟れたいちじくの濃密な薫りに違いないかった。とはいえこれほどにも気分が悪くなるというのはどうも不自然で、さらによく比較検討するに同じ薫りながら自室に瀰漫するほうのそれにのみ岡本は過剰ともいえる反応を示して直接鼻先にいちじくを宛(あてが)って思いきり嗅いでも眩暈すら起こさないということが判明した。原因はほかにあるということをそれは端的に示しているが、さらなる追求に専心するための集中力をすでに岡本は欠いていて、というか熟れたいちじくの濃密な薫りが否応なくそれを妨げていて、麻痺したように項垂れたまま長い時間を茫としていたせいかひどく気分が悪く、窓を全開にして換気をした。

外の空気を吸っていくらか意識の濁りがとれると岡本はまたべつの変化に気づき、日に幾度もその前を行きつ戻りつしているのに全然気づかなかったのがむしろおかしいくらいだが、ゆかりの周囲に粒状の糞が散乱しているのを発見したのだった。というよりクッキリと残る自身の足跡からその存在が知れたということで、ゆかりとのゴタゴタで箱の所在が知れなくなって散失したと思ったらゆかりの下に潰されてあるのかと一旦ゆかりをソファ向かいの壁際まで退避させてソファ周りを岡本は探すが、箱はついに見つけ出せず、本体なくして糞だけがしかしその後もバラ撒かれつづけたから、その状況の不可解にゆかりが箱を食ったのかと当のゆかりに訊いても答えはないが、ふたつが混然と折り重なってしまったとのあり得ぬ妄想に岡本は憑かれてしまい、ゆかりはゆかりでありながら同時に箱でもあるとそう結論づけて妙に納得してしまったのも、全体異界めいたこの部屋の濃密ないちじくの薫りのせいに違いなかった。

何が起きてもだから不思議はないし相応に覚悟めいた心持ちにもなっていて、現象それ自体への馴れも手伝って精神的にいくらか余裕ができてはいた。たしか換気扇を廻し窓も全開にしてその窓際に仁王立つ恰好で煙草を手にもうかなり冷たい夜風にあたりながら部屋の空気を入れ換えているときと岡本は記憶するが、ゆかりの腰かけたソファの足元においた自身の鞄からケータイの鳴るのが聞こえ、その膝にかけたタオルケットに軽く片肘ついて出れば聞こえてきたのはまたもゆかりの声で、ゆっくりと首を巡らし見ればそこにいるゆかりはケータイも何も手にしてはいないから、このゆかりの声じゃないことは確実なのだが、通話口の向うのそれもゆかりのものに違いなく、何も喋らぬ目の前のゆかりと何ごとか頻りに捲したてている声だけのゆかりとに挟まれる恰好で岡本は言葉を失う。

立ち上がり少しく距離をとって眺めやるがゆかりは身動きひとつせず、にもかかわらず通話口からはまだ声が聞こえていて、何を話しているのかしかし岡本の耳にはもひとつ届かず、何か映画の吹き替えめいたズレたような感覚だけが妙に意識され、といって吹き替えのズレのそれは比じゃなく、決してひとつに回収されることなくそれぞれが独立して互いに反発し合い、ゆかりという一個の全体がバラバラに解体されてしまったような気がした。その乖離がもたらすある種の眩暈に岡本はバランスを失ってテーブルに手をつき、そのまま椅子を引いて腰かけるがまだ体はバランスを欠いていて肘をついて支えていないと椅子ごと倒れそうな気がした。いや、そう思ったときにはもう横ざまに倒れていて、左肩と左側頭部をしたたか打ちつけて岡本は低く呻いたが、しばらく起きあがりもせずモゾモゾと転げ廻っているうちにいつかその鼻先に黄白い足指が掠め、常から外反拇趾を気にして人前に晒すことを好まなかったその足指の先端部に触れるとそれは妙に冷たく、死体との思いを強くする。

全体これはどういう仕組みなのか教えてくれと視線で眼前のゆかりに訴えつつ声でケータイの向うに岡本は問いかけるが何わけ分かんないこと言ってんのと声のゆかりは取り合わず、常のように用件のみ早口で告げるとじゃそういうことでと一方的に通話を切ってしまう。ここに肉体を残してその声のみが外を彷徨っているということに岡本は恐怖というよりむしろ不快を覚え、人んちに何の断わりもなしに肉体だけおいてどっかへ行ってしまうなど迷惑このうえないと憤慨するが、精神は不滅でも肉体は不滅じゃないだろうし精神を欠いたバランスの悪い肉体はそう長持ちもしないだろうと思えばすぐにも戻ってきてほしく、死体=人形への薄気味悪さも手伝ってか一刻も早く回収に来てくれ「頼むよ」と届くはずもない通話口に訴えつづけるのだった。

しばらくして声のゆかりの用件とは何だったのだろうとそれをよく記憶していないことに岡本は気づき、目の前のゆかりにさっきのアレ何だったのと問うてもみるが答えが返ってくるわけもなく、何か大事な用件だったりしたら困るなと思いながらも死体=人形という厄介窮まる荷物を背負わされてるだけで手一杯なのに、これ以上の厄介事は勘弁してくれと無視する構えでゆかりに背を向けるように寝返り打つが、首筋を撫でる外気が思った以上に冷たいし板張りの寝心地の悪さもあって五分ほどで岡本は起きあがると窓を閉め、それから流しに立って熱々の深皿を両手にして戻ってくる。

その湯気立つクノール・カップスープを飲み終えて皿を洗おうと立ちかけたところでチャイムが鳴ったのだったが、用心深く誰何すればわたしだよわたしとそれはゆかりの声で、やっと本体に戻る気になったのか、さっきの電話はその件だったのかと岡本は安堵するとそれでもいくらか警戒しつつドアを開けたのだが、不思議なことに訪れたゆかりは肉体を備えていた。声のみの存在じゃなかったからといってべつに腹を立てることでもないのだが妙に不愉快で、分裂なり増殖なりということが岡本の念頭に全然なかったからだが、ゆかり自身こっちの状況を把握してなかったのかもしれないと思うとひとり気を揉んでいた自分がバカなだけじゃないかと無性に腹が立ちもし、こんな傍迷惑な代物早くどっかにやってくれないだろうかとしかしあからさまに抗議もできず、困惑げな笑みを向けて入室を促すのだった。

部屋へ上がろうと框に右の足をゆかりは乗せるがそこで動きが止まってましって茫然と佇んだまま一言も発せず、ゆっくりと岡本のほうへ視線を向けるとそのまま後ずさって何も言わず部屋を出ていってしまい、支えを失ってひとりでに閉まったドアの前に佇んで甲高く響く外階段の音を岡本は聞いていたが、遠ざかり消えゆく足音に我に返るとゆかりのあとを追ってすぐ部屋を飛びだした。逃げるとはひどい、オレにどうしろというのか、切り刻んで捨てろとでもいうのか。そんなことしたら間違いなく事件になるし、そんな約束した覚えもないからあの肉体を養う義理もなかろうはずで、何としてでも持って帰ってもらおうと岡本は夜道にサンダルを響かせて急いだ。すぐ追いつくと思ったのだが、どこへ消えてしまったのか四囲のどこにもゆかりの姿はなく、ウロウロと狭暗い路地をしばらく岡本は探し廻るがゆかりを見つけだすことはできず、空しく自室に戻ってくればソファに座した一方のゆかりは何ごともなかったように死体=人形に専念していて、その超然たる面持ちに岡本は自身の行動がひどく間の抜けたものに思え、目の前にあるこの肉体こそが本来のゆかりで逃げていったあれは幻だったのではないかとさえ思えてくる。

ここにあるのはしかし肉体のみの言わば抜け殻で、今のところ岡本の問いかけに何ひとつ反応を示さないのだからそう言っても差し支えないはずだが、それではこれは、この肉体は、黄白い艶やかな肌合いのままのこの生ける屍は、いったい誰の所有に帰すのかとふと岡本は思い、法的な所有権はこの際無視する、というのもそんなものは何の役にも立たないからで、とにかく誰の所有なのかと勘案するに、その本来の所有者たるゆかりの精神はどこやらへ蓄電してしまったのだから今や誰の所有にも帰してないんじゃないかとそう岡本は思い、精神がその肉体を排除したのか肉体がその精神を見限ったのか知らないが、分離してしまったそれは廃棄されたゴミに等しいと岡本は結論し、ゴミならいずれ処分せねばならないとしかしそれを思うと気が重かった。

無抵抗の人間を陵辱することにさして興味はないはずだが、これは肉体のみあって精神がないと短絡してしまうとそのような頽廃的快楽に目醒めてしまいそうにも思え、少なくとも岡本の視線を絡めとるだけの艶かしさを具えたそれは肉体に違いなく、一方でいい知れぬ不快感を懐きながらも好き自由に弄(もてあそ)ぶこともできる自分だけの肉体という思いが抗いがたく浮上してくるし、その萌芽としての眺めやりということをなかば自覚してもいて、食事を摂りながらテレビを観ながらチラチラとそこへ視線が向いてしまうのだった。そのようにして眺めているうちにその華奢な肉体の巨大な暗渠に吸い込まれそうな気がし、よく見知った体だから恐怖というのではないにしてもやはりいくらか気味悪く、いや、本当にそれをよく見知っているといえるのかとふと岡本は思うとまるで何か別様の物体へとそれが変じてしまったように思え、いや、それはもう岡本の知っているゆかりではなく、全然べつの何ものかになってしまっている。死体=人形=箱という不可解窮まるものへと成り変わってしまっているのだった。

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