友方=Hの垂れ流し ホーム

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「私のこと避けてない?」布巾で膳を拭いていた手を止めて私を見据え、唐突に妻はそう言った。「避けてるでしょ」普段と何ら変わらないごく普通の調子で挨拶でもするように言った。私は平静を装いながら間発を入れずに「そんなことないよ」と首を振る。

布巾を広げ汚れた面を内側に折り返して畳んでまた拭き始めながら「でも、なんかそんなふうに見えるけど……」とまるで他人事のように言う。妙に力が入り何か眼に見えない黴菌をでも拭き取るというように向きになって拭いているようだった。ふと柱時計を見上げた。その私の視線が合図のように時計の針は十一時を指し、ボンボン鳴り始めた。

このところ攻撃を仕掛けるのは妻で、私は防戦一方だった。以前の私ならこれくらいは軽く去なしていただろうが、一方で御先祖の制御にその労力の殆どを奪われていて妻への注意力が散漫になっていたため、その殆どが不意打ちに近く返答はしどろもどろになっていた。それが妻の疑念を更に深めているらしかった。

猿たちは更に小型化し、二日後にはリスのようになっていた。この頃は恐らく白亜紀後期から暁新世前期に掛けての頃で、6500万年前くらいだろう。恐竜絶滅の時期だ。恐竜が絶滅したお陰で、下草に隠れて虫を食ったり木に登って果実を食ったりしてコソコソ生きていた哺乳類は日を浴びることができ、天下を取れたんだった。その頃に出てきたのが初期の霊長類だというプルガトリウスとかいう奴だ。最初、テレビの陰から頭を覗かせているのに気づいたときは本物のリスかと思い声を上げそうになったが、そろそろと全身を現したのを見て御先祖だと分かった。そのリスみたいなのがフサフサした尻尾を振り廻しながら私の周りをちょこまかと走り過ぎるのだった。二、三匹が離れたところを走り廻るのは見ていて可愛いものだったが、すぐに何十匹、何百匹と現れだし、猿御先祖に取って替わり、そうなるとあまり気持ちのいいものではなく、飯の上を走り過ぎるのにはさすがに私も閉口し食欲が半減した。そのリスの乗った飯を家族は旨そうに食っていて、それを見て更に食欲は減退した。

私の箸が一向に進まないのを見て「どうしたの、全然食べてないじゃない」と訝しげに妻は言い、「不味かった?」と言ってぐっと私を覗き込んだ。

「こんな状況で食えるか」と思わず言いそうになるが、「気分が悪いんだ」とだけようやく答えた。実際気分が悪く吐き気さえしていた。リスらを見ると吐いてしまいそうに思ったので吐き気が治まるまでしばらく眼を瞑っていた。

リスは瞬く間に鼠に変貌した。三畳紀末の約2億年前に現れたモルガヌコドンとかいう奴が、最初期の哺乳類ということらしく、それが汎獣類に進化し真獣類に進化して霊長類が現れるにはジュラ紀、白亜紀の1億5000万年ほどを恐竜の影に隠れて生き続けなければならなかった。一説によると大気の酸素濃度がそれを阻んでいたらしく、活発な運動をするには大量の酸素が必要だが、それには濃度が低すぎたのかもしれない。

鼠らはリス以上に猛威を奮い、私の不自然な行動は周囲の眼につき始め、その私を見る眼はすっかり変わってしまった。まるで精神異常者を見る眼つきだった。仕事上のことを除いて誰も私に話し掛けなくなった。何人かで固まって話しているところへ入り込もうとすると蜘蛛の子を散らすようにいなくなるのだった。私の知らないところで変な噂が立っているらしかった。内容までは分からなかったが、どうせ良くない噂に決まっていた。危機感を感じた。そういう噂は逸早く人事に入っているはずで、私のことが取り沙汰されていることもほぼ確実と言えた。表だってそれを理由に解雇することはないだろうが、最有力候補に上っていることは間違いない。御先祖が愈々現実的問題にまで波及し始めたのだった。しかしそれをどうすることもできなかった。御先祖を押しとどめ封殺することはできないのだった。

ただ御先祖が小型化したことで視界は滅法よくなった。壁によじ登ったりするのでたまにデスクの上を飛び跳ねたり箪笥の上などから落ちてくることもあったが、鼠らは殆ど地を這うだけだったので足元さえ気に掛けなければ辛うじて無視できた。横になることだけはしかしできなかったので布団では眠れず、睡眠の殆どを通勤電車の中でとるようになった。地面は黒一色に染まり、しかもうねうねとうねり蠢いていた。まるで地面そのものが生きて動いているというようにうねっていて、その上を歩くのは困難を極め歩いているだけで気分が悪くなり酔ってしまうのだった。転げそうになりながら階段を上って下り改札を抜けて駅を出ると、街頭に照らされ月明かりに照らされた御先祖が不気味に光っていた。蠢く御先祖の大地が光っていた。その上を二十分歩いて家に帰らなければならないのだった。ヨタヨタとよろめき歩いている私の五メートルほど先で鼠御先祖が一匹跳ねた。別のところで別の御先祖がまた跳ねた。何か小馬鹿にされたように思い腹が立った。癪に障って足元の御先祖を思い切り踏みつけるが、足応えもなく空しくなるだけだった。


私はトカゲとか蛇とかその手のものは苦手で、見ただけで背筋に電流が走り眩暈を覚えるほどなので、最初にそれを目撃したときは卒倒しそうになった。現在の地球上にいるものとは違うのだが、爬虫類には違いなかった。厳密には哺乳類型爬虫類というのだろう。布団に横になって地を這う御先祖たちに悩まされながらも精神を落ち着かせようと深呼吸を繰り返していたときだった。二時間くらいしてようやく眠りに落ちそうになったとき、頭の上を何かがゆっくりと這っていく気配を感じ、嫌な予感がしてふと眼をやったのだが、眼にした途端に堪らず飛び退いた。

それには妻も驚いたらしく、「えっ何、どうしたの?」と言い様私に続いて起き上がった。私が一点を見つめて身じろぎもしないのを不審がり、私の目線の先に一瞬眼をやってから、「どうしたの?」と重ねて訊いた。

「いや何でもない、ちょっと気になることがあって……」適当に取り繕ってはみたもののその不自然さは拭い切れない。「ここんとこ疲れてて……」と語尾を濁し、いかにもそれらしく振る舞いはしたが、妻の不審は解けそうもなかった。

しかしこれはなかば本当だった。この何週間馴れないことが立て続けに起こったためにかなり神経を使っていて、それを取り出してみれば磨り減り摩耗しているのが分かると思った。妻はどう対応していいのか分からないというように黙って私を見つめていた。その妻の後ろをトカゲのような奴がのそのそと歩いていた。すでに何十匹と現れ、辺りをうろついている。私の布団の上にも這い上がってきていた。それでもこれも御先祖なんだと思って眺めやると少しは可愛くも見えるような気もした。そうとでも思うしかなかった。ゆっくりと横になった。わらわらと御先祖が這い上がってき、私を包み込んだ。一睡もできなかった。

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