その騒動でどっと疲れが押し寄せたのかその日はいつもより小一時間早く床に就いた。にも拘らず夜中に急に眼が覚めた。物音がしたわけでもなければ悪夢に魘されたというわけでもなく、地震や火災に見舞われたというのでもなければ誰かに揺り起こされたというのでもなく、朝眼が覚めるようにごく自然に眼が覚めたのだった。夜中に眼が覚めるなんてことはそれまで一度も経験したことはなく、暑くもないのに全身からじんわりと汗が滲み出てもいて、疲れが溜まっている証拠だと思った。ストレスが何もかもの原因だと思い、過労死という言葉が急に浮上してきて、それが痼りのように固まって脳裏にこびりついて離れなくなり、急に空恐ろしくなった。喉の渇きを覚えたので隣で何の悩みもなさそうに安眠している妻を起こさないように布団を抜け出して、台所の冷蔵庫の中のよく冷えた100%果汁のオレンジジュース目指してひたひたと足音を引き摺って歩いていった。電気を点けるのも邪魔臭かったので殆ど手探りの状態だった。丁度茶の間に差し掛かって一段と大きく床が軋んだときだ。何か大きな塊があるような気がした。気配というほどのものではなく、何となく何かがいるのかなという程度の感じでそのまま通り過ぎてしまうのが憚られたのだった。暗くてよく分からなかったので手探りで電灯のスイッチを探り当てて明かりを点けると、さっきの男が同じように坐っていた。私は声を呑んだ。この手の話はよく聞いているし、私も嫌いではないが、いざ自分の身に起こってみると冷静さなど途端になくしてしまい、その場にへたり込んで身動きすらできなくなった。しかし不思議と恐怖は感じなかった。ただそれがいきなり現れたので強盗か何かに出会したように驚いたのだが、それが何者か分かった時点で「ああそうか、さもありなん」と変に納得してしまい、そのもの自身には怖いとも恐ろしいとも思わなかった。
どこかで見た顔だと思い、よく知っている人物だと思ってしばらくその男を眺めていた。着物を着て胡座を掻き背筋を伸ばして坐っている男は、ただ坐っているだけだった。その顔からは何の表情も見出せず、つまり死人の表情で、時々頷くような俯くような仕種などしていたが、俯いても哀しげだとか恨めしげだとかいった表情はもちろんなく、終始無表情できちんと坐っているだけだったので、そこからは何の情報も読み取ることはできないのだった。まるで能面のように一切の表情が剥ぎ取られていた。その無表情さのせいか、男はこの茶の間の風景に絵のようにぴたりと嵌まり込んでいた。男とこの茶の間とは切っても切れない深い関係で結ばれているかのように一体となり、そこからは何の不自然さも感じなかった。
気がつくと私の方から声を掛けていた。男がどこか近しい存在に思えたのと、ごく自然にそこにいるので黙っていることになんとなく気まずさを感じて、思わず話し掛けていたのだった。
「あの、夜になるとまだ結構涼しくて、過ごし易いですね……」
応えはなく、男は眉ひとつ動かさなかった。聞こえているのかどうかも分からなかった。男は一点を見つめているようにも見えたし、何も見ていないようにも見えた。私に対して無反応というより総てに対して無反応らしかった。ただ坐っているだけだった。それでいて何ら違和感もなくそこに存在していた。私はふと思いつき、立ち上がって隣の仏間に行き、仏壇に飾ってある四枚の写真を見た。一番手前にあるのは父ので、仏頂面でこっちを睨みつけている。普段は決して人を睨むようなことのなかった父が、魂を取られるとでも思っていたのか写真の中では不思議といつもカメラを睨みつけていた。写真で見るとそのビリケン頭が一段と映える。その父の写真の左脇にあるのが母、その隣が祖父。祖父の脇に控えているのが祖母。私は祖父の写真を手に取り、じっくりと眺めつつ茶の間へと戻る。
その間一分とはなかったはずだが、そこにはすでに誰もいなかった。さっきまでそこに坐っていた男は忽然と消えていた。まだその辺にいるかもしれないと家の中を探し廻ったが、男はどこにもいなかった。釈然としないまま私は茶の間に戻った。祖父の写真を膳に立て掛け、その前に坐り、眺めてみた。じっくりと丹念に眺めた。父とは対照的に、微かに頬を緩め、柔和な面持ちでこっちを見ていた。恐らくそうに違いなかった。写真の中の祖父からひとつずつ表情を取り去っていくと、さっきの男になった。確信はまだなかったが、どうもそうらしかった。しかし不思議と「何故」という問いは私にはなかった。ごく当り前のことのように受け止めていた。「さもありなん」と呟いていた。ふと思い出して台所へ行き、冷蔵庫から100%果汁のよく冷えたオレンジジュースを取りだし、コップになみなみと注いでまず一口飲み、茶の間に戻った。祖父の写真の前に坐り、頬杖をついてオレンジジュースをちびちび飲みながら尚も眺めた。
眼が覚めるとすでに朝方だった。いつの間にか寝込んでしまったらしく、私は膳に両手を乗せてそこに顔を伏せていた。不自然な態勢で寝ていたために腕も足も痺れていて感覚がなく、実体が消失してしまったように思え、まるで自分があの無表情の男にでもなったような気がした。男と立場が逆転してしまったんじゃないかというような良からぬ妄想まで浮かんできた。寝ているうちに男に実体を奪われてしまったんじゃないだろうかと思い不安になった。今に実体を獲得した男が姿を現わすんじゃないかと思った。私から奪った実体を身に纏ってこれ見よがしに私の前に姿を現わすんじゃないかと思った。あるいはすでにどこかに行ってしまったのかもしれない。そんなことを思っているうちに痺れはいつの間にかなくなっていて、僅かに腕にその痕跡を残す程度だった。茶の間には誰もいず、普段の通り閑散としている。膳の上に立て掛けてあった祖父の写真が倒れていた。それを立て掛けてもう一度じっくり眺め、腕の痺れが完全に取れてから仏壇へと戻しにいった。昨夜より一段と確信は強まっていた。
「分かったよ、あれ」そのあともう一寝入りして起きてきた私は、朝飯を食いながら殆ど確信を込めて妻に言ってみた。「あれ、じいちゃんだ。写真でしか見てないから分かんなかったけど、ありゃじいちゃんだ。うん、間違いない」
「え? おじいちゃんが何?」と妻は訝しげに訊き返した。
「いやだから昨日ここに坐ってた人」
自ら口にすることで益々確信を強めたが、その手の話が嫌いな妻は「止めてよ、朝っぱらからそんな話」と本気で怒り、一方的に話は打ち切られてしまった。尚も私が続けようとするとキッと鋭く睨むのだった。
寝不足を抱えながら私は家を出て、眠気を誘う電車に揺られながら昨夜の出来事を反芻しようとしたものの、知らぬ間に眠ってしまい起きたらそこが降りる駅だったので慌てて飛びだし結局何も考えられなかったが、たっぷり睡眠を取り戻したお陰ですっきりと眼は覚めた。
「夢枕に立つっていう話は聞いたことありますけど、茶の間で胡座掻いてるなんてのは初めてです。それも夢枕の変形なのかな」あまり興味もなさそうに部下は言うとがぶがぶと一気にビールを煽り、「何か言ってましたか」といかにも社交辞令的に訊いた。店内は冷房が程良く効いていて快適だった。
「いや、何にも言わないんだ。ただ坐ってるだけ」さっきまで混雑していたのが嘘のように静かだったので幾分声を落して私は言った。
「そりゃ怖いですね」もうひとりがつまみを掴みながら媚びるような半笑いで言った。
「いや怖くはないんだ、不思議と。普通の人といるのとおんなじ感じだ。想像するから怖さが増すんだな。実際眼の前にすれば意外と何ともないもんだよ」
「じゃ問題ないじゃないすか」
「まあそうだけど」そう私は言ってジョッキを口まで持っていったが飲まずにテーブルに戻し、「でも、なんか意味深じゃないか」と言った。それから一気に飲み干した。部下たちはその隙を見逃さず、適当に相槌を打ってから透かさず別の話題を持ちだし、それ以上この話は続かなかった。
ほろ酔い機嫌で帰宅の途についた私は、電車に揺られながらもう一度私の周りで私だけに起こり始めたことを冷静に考えようとしたものの、今度はアルコールが邪魔をして真面に思考が働かず、ピントのぼけたご都合主義の楽天的な解釈しか出てこなかった。悪意はなさそうだから構わないじゃないかということだけが頭の周りをクルクル旋回していた。恐怖を感じないということが何よりの証拠だった。人寂しくて出てきたのかもしれない、一眼孫の姿を見たいと盆にはまだ早いが神様お釈迦様に無理に頼んで出てきたのかもしれないと思い、それを無下に追い返すわけにもいかないと思った。気が済めば自然にいなくなるだろう、神様お釈迦様だっていつまでも放ってはおかないだろうと思った。電車の揺れが眠気を誘い、そのうちまた眠ってしまった。