子供の頃はこの辺り一帯畑ばかりで明かりらしい明かりも殆どなく、日が暮れて月がなければ真っ暗だったが、ここ十年くらいで道なりに次々家が建ち、道路も整備され、今では家々の明かりが到る所に見え、街灯の光が明るく道路を照らしている。明るくはあっても都心の繁華街のような賑やかさはなく、駅前を離れるに従って音はひとつひとつその姿を消していき、家に近づくほど静かさを増していき、痴漢注意の立て看板が目立つ。通勤には片道二時間三十五分も掛かり、事実的に仕事以上の重労働だったが、それでもこんなところに居続けるのは、都心に住めるだけの余裕がないというよりは時期を待っているうちにこの辺りもそこそこ開けてきてコンビニもでき、昔ほど不便でもなくまあまあ快適な生活ができるようになり、なかばベッドタウン化して通勤圏内にもなったからだし、そこそこ開けたとは言っても開発のど真ん中でもなく、道路も多くの予想を反して大きく迂回してしまい、そのため幸か不幸かまだまだ緑は残っていて子供たちにはその方がいいと昨今の自然保護、環境保護の風潮に倣って妻も言い始めたためだ。そんなわけで遊び場には事欠かないのか二人の息子は今頃の子供には珍しく学校から帰るとランドセルを玄関に放り出してすぐに外へ遊びに行き、日が暮れるまで帰ってこず、だから日頃から生傷が絶えない。しかしそうなると妻は「少しは勉強しなさい」と教育ママ振りを発揮し、「言うこと聞かないと塾に行かすわよ」などと言って子供たちを脅していた。もちろんそれに怯む子供たちではなく、毎日ドロドロに汚れて帰ってくるのだった。あと二週間もすれば夏休みに入るというときで、休みの度に纏わりつかれプールだ海だと駆り出されるだろうことを思うと気が重かった。いや気が重いというなら四六時中つき纏われる妻の方だ。
「今年こそはって思ってるのよ、二人とも。去年のこともあるし……」妻は子供たちの代弁者としての任を果すというように言うと、私の返答を待った。
「あんなの子供騙しじゃないか」思わず口を衝いて出たが、これではあまりに芸がなく説得力もない。
「だって子供だもの」と予想通りの妻の答え。
「何も混んでるときを選んで行かなくても……」しかし私には拒否権など殆どなかった。
点々と寂しげに灯る街頭の下を風に吹かれながら二十分てくてく歩いて家に帰り、臭いの消えたことを改めて確認して安堵し満足しながらいつものように茶の間の私の席に就こうとすると、すでに先客がいた。来客があるとは聞いてなかったし今も妻は言わなかったが、その客はまるでここは自分の家だというように私の席にどっかと腰を下ろしていた。見覚えはなかったもののいかにも自然に寛いでいて、何となく見たことがあるような気もしたので会ったことはあるのだろうと「あっ、どうも、いらっしゃい」と挨拶したが、客は憮然として何も言わず、会釈すらもなく、ピクリともせずにただ正面を見つめているだけだった。変な客だと思いながらも妻に「なあ、あの人誰だっけ」と訊くと、「えっ、何のこと」と言うので、「いや、お客さんだよ、茶の間にいる」と言ったら「誰が茶の間にいるって?」と訝しげに問い返した。「いるじゃないか、誰だっけ」更に私が詰め寄ると、変なことを訊くといった顔をあからさまに示して「何言ってるの。あなた、最近ちょっと変よ。仕事のしすぎで疲れてるんじゃない?」などと言うのだが、その反応を見た限りでは私をからかっている様子でもなく真剣そのもなので不審に思い、「ちょっと見てみろよ」と妻を促して茶の間へ行き、尚も私の席に胡座を掻いているその客を差し示した。本人を眼の前にしては妻もいないとは言えないはずで、勝ち誇ったように妻の方を見返ると、しかし妻は「誰もいないじゃない。もう、からかうのは止めてよ」と半分怒ったように言って私の背中をぴしゃりと叩いた。
妻は私をからかっているのか、それとも本当に見えないのか。いや見えないはずはなく、やはり私をからかっているのだ。しかし何故妻がそんな馬鹿げたことを言うのか納得がいかない。妻は生来真面目でその口から冗談の発せられたのを私は聞いたことがなく、たまに私が冗談を言っても本気になって怒るような性格なのだから、冗談で言っているとは思えないのだが、しかし眼の前にいる人間をいないというのはどう考えても冗談でしかないだろう。しかもあまりにも質の悪い冗談だ。いつから冗談など言うようになったのだろうと思いながら、「からかってるのはお前だろ。いるじゃないか、見ろよ、ほら」と客の手前声を落として言ったが、振り返ってみるとそこには誰もいなかった。ほんの一瞬前には確かに男が胡座を掻いて坐っていたのだが、茶の間には私と妻との二人しかいない。座布団に手を当ててみると冷たくひんやりして、人のいた形跡はなかった。そう言わざるを得ない。
「おかしいな、確かにいたんだ……」私の言葉は空しく茶の間に谺した。
「疲れてるのよ、仕事のしすぎなのよ」言いながら妻は台所へと戻り、すぐに食事を運んで戻ってくるとそれを膳に並べながら、「残業ばっかりしてるから」と言う。
そうかもしれなかった。残業した日は家に帰り着く頃には軽く十二時を廻っていたし、電車がなくなって帰れないことも度々あった。目立った自覚症状こそないもののストレスも相当あるのだろう。先日の異臭などもその現れだろうし、父の死もそれに拍車を掛ける原因になっていると言えなくもない。そうかと言って大量の休暇を取れる身分でもなく、あくせく働くしかないしがないサラリーマンの身としては、ストレスと上手く付き合っていくしかなく、騙し騙し帳尻を合わせていくしかない。結局あれは幻覚だということに話は落ち着いたものの、しかし妻はひどく心配したようで一度医者に診てもらってはどうかということを頻りに言っていたが、私は年一回の会社で行われる定期検診なども避けているほどの根っからの医者嫌いで、妻もそれを知っていたので強要はしなかったし、そんな時間もないので当然のごとくそれは沙汰止みになった。