要領を得ない極めて漠然とした内容で、父が何を言いたいのか私には見当もつかなかった。大体父の話はいつも漠として中心を欠いており、周辺の断片的な事柄を羅列するだけなので、それを再構成するのに苦労するのだが、このときの話はその最たるもので、まるで内容が掴めなかった。父の死に関係しているらしいことはそれでも分かったのだが、それ以外は何のことなのかさっぱり分からない。遺言なら遺言でもっとはっきりした内容だろうし、家のことやら土地のことやらにも言及するだろうから遺言ではなさそうだったが、父の死に関係しているらしいので遺言と取れなくもない。しかしそれにしては話に具体性がなく、死に関して自ら思うところをただ羅列したというようにも思えるし、適当なことを言って息子をからかっているように思えなくもなかった。馴れれば面白いとは理解を超えている。第一私にしても妻もいれば小五と小三の息子もいる二児の父で、ましてや一家の長であり、覚悟しろなどと言わずもがなのことを言うこと自体が変だ。眺めるともなく眺めると、父は一廻りも二廻りも小さくこぢんまりして見えた。父らしくないと内心思いつつも、しかし私はそれを父親としての息子への配慮でもあろうかと勝手に解釈し、そんなものかと思い父も老いたなと思った。しかしそうではなかった。
私の内心の恣意的な解釈を見透かしたかのように、「おれのことじゃあないぜ」と父はやや憮然として言った。覚悟をし面白いのは父の死のことではなかったらしい。言われてみればそれもそうで、身内の死を面白いというのはどう考えても真面じゃないし、自分の死を面白がれと嗾けるのも狂気の沙汰で、到底諾えるものではない。
「じゃあ一体何のこと言ってんの」私が問い糾すと、父は腕を組み顔を顰めてほんの少し黙考してから、「何でもいいさ、とにかく覚悟しとけってえことだ。馴れりゃあ大したこたあねえ。うちの御先祖はみんなそうやって来たのさ。根柳家の当主の、それが運命なのよ」と言い、唇が乾いたのかピチャピチャと音をさせながら舌で嘗め廻してから、「ま、一種の通過儀礼みたいなもんだ」と言う。尚も私が詰め寄ろうとすると、「最初っから全部種を明かしちゃ手品だってつまんねえよ」と怒ったように言って、それ以上の質問を受けつけなかった。
「ああ、それからな、何があっても他言は無用だぜ」と父は言うと、クククとくぐもった笑いをしばらくしていたが、私のやや不審げな視線に気づいて、ゲホッと痰の絡んだ粘っこい咳をひとつしてそれを遮り、短く刈り込んだビリケンのような頭をひと撫でして億劫そうに立ち上がると、ひょこひょこと妙に頭を上下させる歩き方で縁側に行き、いつものように腰掛けた。そして最後に一言、「まあ、そういうことだ」と私に背中を向けたまま言った。話はそれで終わったらしい。仕方なく私は退出した。
どうにも掴みどころのない話で父が一体何を言いたかったのかは結局分からず、そのとき私は愈々父がボケたと思い、なかば覚悟を決め、妻にもそう言っておいたが、それ以来わけの分からない世迷い言は一言たりとも口にせず、縁側でコトリと倒れるまでいつもの矍鑠として他を寄せつけない父であり続けたので、そのことはすぐに忘れてしまったのだった。
変な臭いがしていたことは確かだ。妻と二人の子供たちと晩飯を食っていたときだ。こうして家族揃って飯を食うのは稀というほどでもないが、決して多くはない。私の帰りが遅いのと休みが区々だからだ。そのせいか皆ほんの少し浮ついた調子でちぐはぐな感じが顕で口数も少なく、馴れるまでに多少の時間を要した。それでもとにかく模範的な一家団欒の図だったのだが、それを否定するように異臭が漂い始めたのだった。妻に言っても「そんな臭いなんかしないわよ」と言われ、「鼻、おかしいんじゃないの、耳鼻科行ったら」などとどやされ相手にもされず、子供たちも揃えて首を横に振ったが、私は鼻は悪い方じゃないので間違いなく臭いはしているはずなのだ。獣じみたというか、何かが腐ったようなというか、何かいろんなものが混合されているような複雑微妙な臭いで、しかもそれは時々刻々めまぐるしく変化し、あるとき魚の腐ったような臭いがしたかと思うと次の瞬間にはアンモニア臭に変わっていたり、そうかと思うと家畜のような臭いになったり汚物のような臭いになったりして、何の臭いと特定することができないのだ。とても一口では言い表せない。生ゴミの臭いのような気もしたが、台所に行きゴミ箱に顔を突っ込んで確認した限りではそれも違う。とにかく臭っていることだけは間違いなく、どうかするとそれが鼻先をすっと掠めるようにして臭うのだ。嫌な臭いかというとそれほどでもなく、ほんの微かに臭うだけなのだが、しかし決していい匂いとは言えないので、臭うとやはり不快になる。とにかく臭いの元を発見しようと家中を点検して廻ったが、それらしいものを見つけだすことは遂にできなかった。芳香剤などを家中にばら撒いても効果なく、脱臭剤も試してみたが結果は捗々しくなかった。却ってその臭いが際立ってしまい逆効果だった。
世間を騒がせたいくつかの異臭事件をふと思い出して、もしかして家の外に原因があるのかと意気込み勇んで飛びだしてはみたものの、一歩家を出てしまうとそれまで頻りに私の鼻を刺戟していた臭いは嘘のように消えてしまうのだった。やはり私の鼻がおかしいのかとすごすごと家に戻るとまた臭いはするのだった。
「やっぱり臭うよ。なあ、臭うだろ」自分に自信がなくなり頻りに妻に同意を求めたが、妻は「臭わないわよ全然」とすげない返事をぞんざいに返してよこすだけで、「今忙しんだから、あとにして」と取り合わない。テレビでも見て気を紛らすしかなかったが、そんなときに限って何もやっていないのだった。仕方なく適当にチャンネルを合わせてぼんやりと眺めていた。するとしばらくは何も臭わなくなり、何だ大丈夫じゃないかと思って少し安心し掛けたが、油断していると何かの拍子にまた臭い始めるのだった。
「気にするから余計臭うような気がするのよ」と妻は言い、「臭いで死ぬ人はいないわ」と嘲るように言う。毒ガスかもしれないとの私の疑問に、妻は「じゃあ何であなただけに臭うの」と切り返す。私もまさか本気で毒ガスだとは思ってはいなかったが、そうではないにしてもその前にストレスでやられると思った。ふと父の焼ける臭いということを連想し、思わずそれが口を衝いて出そうになったので慌てて打ち消した。
床に就いてもその猛襲は繰り返され、半醒半睡の眠りに落ちる瞬間を狙って臭いは発生して意識を覚醒へと引き戻し、そのためなかなか寝つかれず、睡眠不足が祟って翌日は一日中ぼうっとして過ごし仕事にも些か支障を来した。疲れ切って家に帰るとしかし臭いは弱まっていて、遂には何の臭いもしなくなって完全に元の状態に戻ったのだが、結局その原因は分からずじまいだった。仕事疲れが影響していたのかもしれないと、そのときは漠然と思っていた。溜まっていたストレスが何かの加減で粘膜の細胞を刺戟し興奮させ続け、デタラメな臭いを感じさせていたのかもしれないとそう思っていた。風呂に入ってこびり付いた疲れを綺麗に洗い流し、臭いにも邪魔されず深い眠りに就き、心地よく目覚めた。