対策といってもこれといって対策など何もない。いなくなるという可能性に期待しつつこのまま我慢し続けるか、早々に見切りをつけて引っ越すか、でなければ霊能者にでも頼んで御祓いをしてもらい御清めをしてもらうしかなかった。放っとけばいずれいなくなるという保証などどこにもなく我慢にも限界はあり引っ越すにしてもすぐにとはいかないので、それ以外でやれることは総てやってみるべきだと思い、御祓いも悪くはないと思った。むしろそれで解決するものならそれに越したことはなく、早々に追っ払ったほうがいいと思った。あんなものに悩まされ続けるのはご免だ。早速実際的なことを検討しようとしたのだが、不意に「他言は無用」という父の言葉が頭の中に響いた。耳元で父に囁かれでもしたかのようにはっきりと響き渡り、一瞬父がいるのかと振り返りそうになるほどだった。それは私の頭のどこかにカチリと音を立てて引っ掛かり、喉に詰まった魚の小骨のように脳味噌に深く食い込んだ。その言葉が堅固な防波堤となって脳内に居座り、どうやら御祓いの決行を阻むらしい様子だった。御祓いという言葉そのものが禁句になってしまったように思い、重苦しい抵抗感なしにそれを頭に思い浮かべることすらできなくなった。「他言は無用」の名の許に総てが再編成されてしまった。そうなると私にはどうしようもなく、成り行きに任せるしかなかったが、元々御祓いなどは信用してもいなかったし、霊能者など詐欺師みたいなもんだと常々思ってもいたのでどうということはないのだった。とは言え戻ればまた御先祖攻め臭い攻めに遭うだろうことは確実だったので気が重く、アイスコーヒーを二回おかわりしても私の体はソファーと一体になってしまったかのように腰が上がらなかった。しかしいつまでもそこにいられるわけでもなく、冷房が寒く感じだしたこともあって、とりあえず店を出ることにした。扉を押して外に出るとむっとする熱気に押し返されそうになった。店を出たのはいいが、急のことで殆ど金も持って来なかったのでアイスコーヒーでその殆どを使い果たしてしまい、この辺には他に行くところもないので家に帰るしかなかった。御先祖のところに戻るしかないのだった。
引っ越そう、それ以外にない。家に着くまでにあれこれ考えたが結局そこに落ち着いた。家も土地も売り払ってどこか別の土地に引っ越そう。先祖の霊などとは何の関係もない見知らぬ土地に行って穏やかに暮らそう。できれば今より通勤に時間の掛からないところがいいのだが、贅沢は言ってられない。とにかく御先祖とは一切縁を切ってしまうことだ。あんなのとかかずらっていても碌なことはない。そう決めてしまうと途端に晴れがましくなり、足取りも軽く弾むように玄関をくぐり、出迎えた御先祖に軽く一瞥をかまして上がり込んだ。だがその夜妻に打ち明けると、「嫌よ」と言下に否定されてしまった。
「今さら何で引っ越さなきゃなんないの」憤然として妻は言った。「今までここに住んできたのは何のためだと思ってるの」と妻は言い、子供のためとか健康のためとか、その他ありとあらゆる理由を指折り数え上げてその根拠のなさを言うのだった。今時どこに住んだって大差はないという私の意見は一蹴された。「大違いよ」と妻は言い、「あなた、何にも知らないのね」と言って、どこで仕入れてきたのか知らないが、環境汚染に対するあらゆる情報を持ちだして捲くし立て、私は反論の余地もなく完膚なきまでに叩きのめされた。その間も御先祖たちは私の周りで立ったり坐ったり動いたり止まったりグルグル旋回したりなどしていて、何か嗤われてるような小馬鹿にされてるような気がした。「どんなに足掻いたって逃げられるものか」と、その無表情の眼は言っているように見えた。それを振り払うように粘り強く口説いてはみたものの、妻は取り合ってもくれなかった。自己の正当性を信じて疑わない妻の考えを覆えすことはできなかった。
翌日、思ったより早く帰って来てしまい、帰宅時間を少しでも引き伸ばすために駅横の喫茶店に入り、ウエイトレスの胸だの尻だのを観賞しながら閉店まで時間を潰していた。相変らず冷房はガンガンに効いていて店内は寒く、時々店のどこかで誰かがくしゃみをするのが聞こえた。最初のオーダーはアイスコーヒーだったが、二杯目からはホットを注文した。閉店時間になって愈々帰らざるを得なくなり、伝票を手に取って重い腰を無理に引き剥がすようにソファーから持ち上げて立ち上がろうとしたとき、何の前触れもなく唐突に御先祖が現れ、私はまたソファーにへたり込んだ。その御先祖は新顔で、更に一層小汚く乞食同然の形をしていて、宙の一点をじっと見据え、冷房が寒いとでもいうように体を小刻みに震わせていた。こんなところにまで出てくるとは思いも寄らず、驚くというよりは腹立たしく思った。しかも臭いに先行して現れたのだった。臭いはあとから申し訳程度に臭っただけですぐに消えてしまい、予兆としての機能を果していなかった。思わず「こんなとこまでついて来んなよ」と言いそうになって私は声を呑んだ。
しばらく御先祖を眺めていたが、消える様子もなくいつまでも居座っているので観念して立ち上がり、勘定を済ますと家に向かって歩きだした。その後ろを御先祖が背後霊のようにぴったり張りついていた。ようにではなくまさに背後霊だった。駅前の交差点で御先祖と並んで信号待ちをしていると、私の左横にまたひとり御先祖が現れた。無性に腹が立って顔面に思い切り肘鉄を食らわしてみたが、手応えはもちろんなかった。それが更に怒りを掻き立てた。家に帰り着くまでに更に五人が現れた。ひとり現れる度に足は重くなっていき、ずるずる引き摺るようにしてしまいには歩いていた。歩きながら自分が運動の時間を終えて暗い独房へと戻る囚人のようだと思った。常に私につき纏って離れない御先祖はさしずめ看守といったところか。看守の監視は巧妙で、それから逃れることは不可能だった。家は御先祖で溢れ返った。
御先祖のテリトリーはそれを境に爆発的に拡大し始め、私のいるところにはどこでも現れるようになった。満員電車で不快げに立っている人々の中に全く意に介さないというような人がいると思ったらそれが御先祖だったり、車道を平然と車にも轢かれずに歩いている人がいると驚いて見ればそれも御先祖だったり、ホームレスが一段と増えたと思えばその大半が御先祖だったりと、私の行く先々で何の脈絡もなく現れてくるのだった。私の周囲には常に誰かしら御先祖がいた。それが常態となった。
いつの間にか祖父の姿は見えなくなっていた。他の御先祖に紛れて見えないんじゃなく、全く現れなくなってしまった。殆どがちょん髷を結っているむさ苦しい形をした江戸時代の百姓で、時代の古い御先祖の方が格が上なのか、新たに現れる新顔の御先祖を中心にして出てきているようだった。それでも消えていく数より新たに加わる数の方が圧倒的に多く、御先祖の数はどんどん増えていった。まるで私が御先祖の住む家に間借りしているようだった。
引っ越せば何とかなると思っていた。引っ越すことで総てを顛倒させ何もかも悉く清算できるんじゃないかと思っていた。だからその可能性を再三妻に提言し続けていたのだった。しかし家から解放された御先祖に引っ越し策は有効じゃないと気づいた。家の呪縛から解かれた御先祖は引っ越し先にも現れるに違いなかった。引っ越しはできないのだった。
ホームの端の方のベンチに腰掛けて電車が来るのを待っていた。朝だというのにすでにかなりの暑さになっていて汗が止まらなかった。拭いても拭いても止め処なく流れ続けた。腰掛けるベンチはいつも大体決まっていてそこに真っ直ぐ向かってきたのだが、誰かが先に来て腰掛けていたのだった。御先祖だった。私は無視してその上からベンチに坐った。隣にも会社員らしいスーツ姿の若者が眠気を顕にして坐っているが、半分透けて同じ位置に御先祖も坐っている。ホームも御先祖で一杯で、線路の上にまで溢れている。終始忙しなく動き廻る奴やひと所に蹲って動かない奴やその廻りを廻っている奴や立ち上がったりしゃがんだりを繰り返している奴や、それぞれがてんでんばらばらの動作をてんでんばらばらにしていた。その様をぼんやりと眺めるともなく眺めていた。ひとりひとりの動きはてんでんばらばらで皆違うのだが不思議とそこには個性は感じられず、総てが平均化されて同じように見えるのだがひとりひとりは別々に動いていた。個であるようで全体で、全体であるようで個だった。個と全体がうまい具合に調和していた。ひとつひとつの動きは無秩序だが全体としては波の様相を表す電磁波のようなものなのかと思った。ふとそれに感心していることに気づき、危うく騙されるところだったとヒヤリとした。額の汗を拭った。