前から調子の悪かったエレベーター前の蛍光灯がちょうどその真下を過ぎた途端に消えたからひどく驚き、震える声で「ああっ」と悲鳴を上げたのはしかし紀子ではなく半透明の恵美の霊で、その悲鳴に余計不安を掻き立てられて何かそれを凶兆のように思いながら端的に疲れからの重い足取りでそれでも少し早足になって紀子は自室に至ると、ドアの前で律儀に待つ半透明の恵美の霊のために錠を開け、滑るように入るそのあとからむく浮腫んだ足を引き摺るように上がって手探りで明かりを点け、空腹だが食欲は全然ないから水だけタンブラーに半分ほど飲んでお祈りだけして寝よと寝仕度を済まし、軋む体をその横に並べて常のように神棚に向かいながらしかし不意に紀子は身を竦ませて何を自分はしているのだろうと思い、横並びに立つ半透明の恵美の霊を見るとさらにも何をしているのかと疑念は膨らみ、その果敢な潜入によって知恵美への急接近を果たしながら何の成果もなくそこからまたとおざか遠離ってしまったことに今さら祈ってどうなると紀子は苛立ち、どうなるどころか日下八木のやっていることとそれは同じではないかとその偽善に改めて気づくとともに眼の前にしている事象の悉くに拒否的になり、それ以上に今ある自身の存在それ自体を紀子は厭悪して胸の前に合わせ掛けた両の手をダラリと体側に落としてしまう。その灼かな霊験の残光によってか一点知恵美と繋がっているその神棚を真面に紀子は直視できず、タンスの引出しの木目のプリントに視線を落としてその濃淡の線を無意味に眺めていると、どっちの耳かは明瞭ではないが妙に甘ったるい声で“イニシエーションなんだからそんな深刻にならなくたって”と囁き掛ける沖の声を幻聴するが実際耳にしたその声のトーンとそれは全然違うし、次いでその声が呼び水となってか茫と闇に浮かぶ沖の顔が脳裡を過りもするがその顔もまた如何にもな悪漢の小憎らしい造形に変成されているから混乱は増し、何か今日一日を丸ごと全部リセットしようとでもするかに、いや、念じれば叶うとでもいうかに紀子はその脳裡の沖に強くかぶり頭を振り、イニシエーションとか言いながらその実態は質悪いドッキリじゃないか、馬鹿にしているそんなのこっちは全然望んじゃいないのにと日下らの遣り口に激しい怒りを覚え、結局知恵美にも会えず終いで何もかも有耶無耶なままだから尚のこといいように利用されただけなのではと判断力の低下に伴って総てに紀子は懐疑的になり、全体今日は何だったのだろうとふと思い、ただ振り廻されただけで何の成果もなかったことを思うと暗澹たる思いに沈み、いやそれ以上に怯んで逃げた自身のその卑劣ともいえる行動に無性に腹が立ちもして教団へのそれよりも遙かに巨大な不信を自身に対して紀子は懐き、だから知恵美は帰ってこないのだしイニシエーションというのもつまりはその口実にすぎぬのではと最終的に混濁した思惟はそこへ落ち込んでいき、知恵美がそれを望んだとすればその帰還はあり得ないし祈ってもだから無意味で、捜索の打ち切りにしてもそれを偽装と解すればそれぞれの断片が巧いこと繋がってひとつになるようにも思え、日下の欺瞞などではだからなくて総ては知恵美の指示なのでは、直接の指示があったにしろなかったにしろ自分との関係を絶つための計略ではないかと一転知恵美へと疑念が兆すと途端にそれは肥大して真実らしく思えてきて、拙い兆候と知りつつ悉くそこへと雪崩れ込んでいくのを回避できず、最大の禁忌を犯してしまったことに紀子は気づくが制御できぬ疑念の奔流は真面な思惟を攪拌して悉く潰してしまうため収めようとして収められないのだった。
神棚前に茫然と佇んでこっちを見つめる半透明の恵美の霊の視線が何か神経にじか直に接続されでもしたように強烈な痛みとして感じられ、並び立っていることさえ罪というかに自身を紀子は責め苛み、ここまで堕してしまった自分にその帰還を祈る資格は最早ないと絶望的に紀子は思い、思いながらしかし手は無意識に胸の前で合わされていてこれだけは遂げねばというように半透明の恵美の霊に続くが、その打ち鳴らす無音の柏手が脳裡に響き渡るのを茫と意識に捉えながら自身パンパンと柏手打つまでには至ることなくヘナヘナと頽れて坐り込んでしまい、すぐその脇にしゃがみ込んで「どうしたの? 具合悪いの?」と心配げな半透明の恵美の霊に「ちょっと」と濁すが否定はせず、今日一日で自身の処理能力を超える出来事がいろいろあったから疲れたし心的に特に「ダメージ強かったみたいで」今ごろそれがドッと押し寄せてきたと紀子は言い、それ自体嘘じゃないから卓を支えに膝行してベッド脇に背を凭せ掛けて少し休めばいくらか楽にはなるだろうと眼を閉じ軽く深呼吸する。身体的に楽にはなっても精神的には全然楽にならないしそれが昂じていく度合も徐々に激しくなるようで、妙な具合に脳神経のネットワークが断線したようになって自室なのにひと他人ん家みたいな気がして落ち着かず、別に紀子のせいでもないんだから悲観することはないし「そうやって一歩ずつ近づいてくんだよきっと、三歩進んで二歩下がるみたいな」と道化たように言うのを常ならそのくだらなさに却って笑い興じるところだが低迷から脱することさえ困難な今紀子に笑いを返す余裕はなく、気拙いというのでもないが妙に白けたその間が半透明の恵美の霊との僅かな隔たりとなって途切れたまま会話は中断され、再開する意志もなく瞑想でもするかに静かに坐しているがその実心は乱れに乱れて疲弊するばかりで、諦めたように紀子は一言「寝る」と呟くとずり上がるように腰を浮かして立ち上がり、乱れたパジャマを整えてベッドに入ってその蒲団の匂いに辛うじて錯乱気味の神経を鎮めることができ、元通りとはいえぬまでも神経系もそれなり真面に機能しはじめたようでほどなく眠りに落ち、夜中に幾度も目醒めたりして安眠こそできぬながらも浅い眠りを眠ったのだった。
翌朝覚醒を促すために点けたテレビで都内三ヵ所での爆発事故の報道に接し、そこで初めて沖宅以外の潜伏場所を紀子は知ったのだが、自身眼にし耳にしたことなのにも拘らずその報道に事実性の保証を得たというように驚きを新たにし、NHKを基点に各局の報道を随時確認していくがその事件性についてはどこも一切触れていないのが不可解で、三件の爆発の関連性についても捜査中と報じてはいるもののその可能性は極めて薄いともコメントされていて、端的にそれを受け入れながらも何か作為めいたものを紀子はその裏に感じ、あるいはこれもまだイニシエーションの一環で巧妙に作られたニセ番組なのではと勘繰りもするがいくら何でもそれはあり得ぬと否定し、経過を待たねば詳細も分からないだろうと思い為して気を鎮めようとするが、ひとり自室に籠もっていると鬱屈は増すだけだし半透明の恵美の霊ともども穴蔵での恐怖が再燃するかに鳥肌立ったりもしてどうにも居たたまれず、由雄からの呼び出しの電話はだから却って好都合で「すぐ行きます」と速攻で来たのだったが、ヴァニラの甘い香りのなか「だからって自爆ってこたねえよな」と由雄が言ったのをヴァニラの甘い香りとともに紀子は反芻しながら沖の告げたことをどう解すべきかで思い悩み、徒労に終わるとなかば分かっていながらしかし思惟がそこへ向かうのを押しとどめることはできず、切りがないと独り言ちながらも幾度目かの反芻を紀子はくり返す。総ては入信に必須のイニシエーションのために仕組まれた芝居にすぎないとあのとき沖は言ったのだがそれが事実なら死なねばならぬ理由などないはずで、その不可解な死は恵美のそれほどではないにしろかなりの衝撃で、イニシエーションがまだ継続中との疑念はだから最後まで拭いきれないのだが知恵美との再会の果たせぬうちはその捜索を終わらせることもできないと紀子は決意を新たにし、とはいえ唯一の手掛かりといっていい沖ら知恵美派の面々がいなくなってしまった今それは完全に行き詰まったといってよく、甘いヴァニラの濃密な香りに酔ったように集まった顔触れを紀子は茫と眺めながらその交わされる会話に耳傾けるがその半分以上は記憶にとどめ得ず、断片の継ぎ接ぎからではその全体も容易には掴めないしその欠落部分において何が話されたのか半透明の恵美の霊に訊いても「さあ、よく覚えてない」と全然当てにならず、田尻にそれを補ってもらう他ないのだった。