それが急に真顔に戻って背後を気にするかにチラチラ視線を向けるから「何見てる?」と由雄は訝り、「別に」と胡麻化す沖のその視線の先を辿ると闇から浮かび上がる半透明の恵美の霊にぶつかって「どうだった?」と無事戻ってきた歓びに脱力しそうになるのをギリギリ怺えつつ見つめれば「うん、いないみたい」と半透明の恵美の霊は答え、その一言に非常な安堵を覚えながらもまだ終わりじゃないと紀子はここから脱出することにのみ集中するがその困難を思うと途端にくじ挫けてしまい、今ごろ上は完全封鎖されていてダッシュで逃げてもだからもう遅いのではと絶望し、それより収納に鍵掛けられてしまえばアウトだとヒタヒタと寄せくる闇それ自体に怯えたように「使うって何を?」とようやく事態を呑み込めたらしい由雄が訊くと「いや私なりにね、いろいろ考えた末の総決算で、パッと派手にいこうじゃないかって思いまして」と沖は言うと真っ直ぐに背筋を伸ばし、右手でシャツの襟を触りながら天皇のために用意した花火で一介の下水管工を飾るのだから「名誉じゃないですか、天皇には不遜かもしれないけどさ」と洞内に反響するのを嫌ってか忍びやかに笑いつつ「偽とはいえ仮にも天皇なんだから」と付言し、そういうことだから「そろそろお引き取り願えますか」これ以上長引くと決断が「鈍りそうですから」と沖は卓に手をついて静かに立ち上がり、掌についた埃を尻ではた叩き落としながらあなた方を「巻き込むつもりはないですから」ご心配なくと告げると見送りできぬのを詫びるかに頭を下げ、闇に紛れようとするかに二、三歩後ろに下がって待機する構えだがその面持ちにこれ以上の追及を許さぬ悲愴なほどにも強固な決意が表出しているように感じもし、端的にそれを察したのかして静かに腰を浮かせて「行こ」と促す由雄に背押される形で紀子は穴を引き返したのだったが、最後まで燻り続けていた疑念を晴らしたいというかに小さな挙手で友梨は話を遮ると「メシアは? いなかったの?」と端的に問い、沈んだ面持ちで紀子が頷き返すと「でもだって沖はいたんでしょう? だったら」メシアがいてもおかしくないではないか「っていうか騙されてんじゃないの?」と納得いかぬげに友梨は首傾げるが、最深部まで探りを入れた半透明の恵美の霊も「いないって言うし」仮にいたとすればその優れた感応性で分からぬはずもないだろうからやはりいないのだろうと紀子は言う。いくらか理路を欠いたその説明をしかし友梨は駁し得ぬのか「そっかあマリア様が」そう言うのならと的確にそのほうに視線を向けて嘆息し、その余韻は長く尾を引いて皆の意識を牽引するかに車内に響くがその間友梨は何か物問いたげに皆の顔を順繰りに眺め、最後に振り向けた由雄に「どうすんの?」と次の展開を示唆して誰ん家を当たるのかと率直に問えば「急に言われても」よく検討してからでないとさっきみたいなことに「なってもさ、面倒だし」と濁して思考するだけの気力もないというかに深々とシートに沈み込むと「ウチ帰ってからゆっくり」それは考えようやと由雄は切りあげて車を出すよう田尻を促し、その無計画を詰るかに「そんなんじゃメシア見つかんないよ」いつまで経ってもと嗾ければ休息はそれ自体すでに次の跳躍への一歩なのだと尤もらしいことを言って相手にせず、「何ソレ?」とその意味が分からぬのか言い訳など聞かぬというかに聞き流して「もっとガンガン攻めてかなきゃ」と強気なことを友梨は言い、次は自分が乗り込んで必ずメシアを救いだすとまで言いだし、冗談とも思えぬ気合い充分なその眼光にいくらか由雄は怯みながらもそれに対抗するかに険しい顔を作って「無茶言うな」どっちが無計画かと窘めるが負けずに「行く」と言い張って聞かず、それも含めて総ては帰ってから相談しようと由雄は宥めるように言うと疲労を露わに黙り込んでそれ以上相手にならず、由雄のその拒否的反応に却って刺戟されるのかしてさらにも気負い込んだように「私がメシア救いだすんだから、待っててねメシア様」と友梨はひとりテンションを高めていってその楽観ムードは尚も健在で、その基底部に静かに脈動しているのらしく笑みこそ見せぬものの非常な興味を示して再度紀子に向き直ると「で?」と先を促す友梨に答えて狭暗い穴を引き返すと「日下さんに伝えてください、借りたモノなくしちまって申し訳ないって」との言葉を紀子は背後に聞くが振り返ることはできず、そのあとも言葉は続いていたようだが穴蔵の反響で明瞭には聞き取れなかったから最後まで聞かずに紀子は梯子を上りきり、もう人の声とも聞きわけられぬ不快な音の反響に耳塞ぐかに収納の蓋を閉めると僅かながら動悸は鎮まって周囲を見廻す余裕もできる。
薄暗いリヴィングには紀子と由雄と半透明の恵美の霊の他に人の気配はなく、極度の緊張から脱したせいか何か急に今見てきたことの総てが幻めいて思えてくるが呆けたように坐り込んだまま見交わす視線のうちにその現実性を紀子は再認すると、まだ逃げ果せてはいないと再燃する緊張に焦りながらも慎重さは失わず、静かに立ちあがって尻の埃を払ってからゆっくりと紀子は歩きだすがそれを追い越していく由雄の手には何もなく、工具箱を忘れているのを「アレ、忘れてますアレ」と指差し示して囁き叫べば由雄の声なき声が一室に響き渡り、埃に足を滑らせてこ転けそうになりながらも素速く反転して抱えあげると「早く早く」と紀子を背押して玄関に向かい、その慌てようを「大事な商売道具でしょ」と友梨はその肩をパシパシ叩いて笑うが「笑いごとじゃねえ」いつドカンてくるか分からぬのだから忘れもすると由雄は居直り、尚も笑いを燻らせつつ「だって巻き込まないって言ったんでしょ?」だったら何を慌てることがあるのかと突っ込めば「バカ、信じられっかよそんなの」と怒ったように由雄は顔を背け、捨て科白めいたその一言がしかし火を点けたらしく「バカってことないじゃん」と反撃され、常なら怯んですぐ折れるのにまだその延長にあるらしく「あいつは狂ってる、いやあいつだけじゃなくて知恵美派の連中は」皆狂っていると断じてそのような狂者の言を信じるのは馬鹿という他なく、だからそう楽観もしていられるのだとボロ糞に言われて「ひっどーい」そんな言い方ってあるかと口論にまでは至らぬが険悪な空気にはなり、こんなとき延子なら巧いこと由雄の昂奮を散らすのだろうなと思いながら紀子はどうにも手を出せないのだった。由雄の奮闘は友梨も認めているしその協力なしには何ごとも為し得なかったことも分かっていると田尻が仲裁に入ってくれたからどうにか収まりはするが、どうかするとさっきまでの怯えようが思い出されてそのギャップには同様紀子も可笑しみを感じていたから声にこそ出さぬが笑みを浮かべてしまい、目敏くそれを見つけて「何だよ紀子ちゃんまで」人を腰抜けみたいに小馬鹿にするのかと由雄は憤慨を露わにし、そんなつもりじゃ全然なくてあの場合誰だって怖いと思うだろうし私だって怖かったと紀子は弁解しながら「ご免なさい、なんか可笑しくて」と忍び笑い、玄関で泣きそうな顔して「靴くつ、オレの靴は?」とうろたえるのをどう執り成したものかと困じながらも端的に「履いてるでしょう」と教えると、引き攣った笑みを由雄は浮かべて「履いてる」と無意味に反復し、落ち着けと自身に命じつつ呼吸を整えてからチェーンを外して錠を開けると全力疾走で忍び歩いて来たときと同様空き巣の手口でセールスマンを装いつつ沖宅をあとにし、怖いくらいに静まり返った周辺住宅に神経配りつつ由雄ともども紀子は半透明の恵美の霊とともに小走りに待機の車へ急ぎ戻ったのだった。
本部事務所からの帰路の車中、そう指摘されたわけではないが一貫して好戦的な友梨の影響か自身の判断を紀子は後悔しはじめ、なぜ素直に引き下がってしまったのか、半透明の恵美の霊を疑うわけではもちろんないが知恵美はいたかもしれぬとの思いが徐々に兆して紀子を苛み、あの場合しかし下がるより手はなかったし「あすこにはいない」と由雄に慰められてそれはそれで尤もと思いながらもその断定的な言い方に却って疑念は深まり、沖らが知恵美を道連れにしないとどうして断言できるのか、天皇へと向けられていたエネルギーがその通路を断たれた今それが知恵美へ向かわぬとどうして言えるのかと紀子は徐々にその思いを強くし、際限のない由雄の法螺話をフォローしているときも、八木駒井の叱責を受ける間も常にそれは底流していたが固く栓して閉ざしていて、それが今になってドッと溢れ出てくるのをもう押しとどめることはできそうになく、今回の捜索において、いやそれだけではなく知恵美に関係するあらゆる事柄において、その躓きの石は他ならぬ自分なのではとそう紀子は思い、自分が関与することで事態が悪化し、悪化しないまでも混乱を来たすということはこれまでの経緯を振り返るまでもなく明らかなように紀子には思え、そうとすればしかし自分として為すべきことは何もないということで、沖の言った言葉を全面的に受け入れられたらどれほど心が休まるだろうと思わぬではないが到底それは信じられる話じゃなく、知恵美が何を欲し何を求めているのかせめてそれだけでも分かればと暗い窓外にただ視線を向けつつ紀子は思う。加速減速の際のGをほとんど感じることのない田尻の運転は皆の眠りを誘うが神経の異常な昂揚が端的にそれを拒み、徹夜明けめいた憔悴に襲われて皆一様に疲弊しているが疲れたなりに一仕事終えたというようなゆとりある笑みを紀子にのみ由雄は向け、神経パンクしていたから曖昧な笑みを返したのみでその意を紀子は解することもできず、沈思を装いながらも思考は全然廻らないから半透明の恵美の霊の消え入りそうな淡い姿を茫と眺めて「着きました」と気づけばすでに自宅マンション前で、礼を言って降りるその背に由雄は窓を全開にして「今日はゆっくり休んでさ」次に備えようと励まし、その声はしかしどこか遠くのほうから聞こえてくるようだしそれに応じる自身の声も録音されたものをでも聴くようで臨場感というものが全然なく、ベソとも笑みともつかぬ曖昧な形に頬を歪めて軽く会釈すると反転し、風に嬲(なぶ)られでもするかに不自然に体を揺らしながら徒労感を振り払えぬまま半透明の恵美の霊とともにひとり紀子はエレベーターに乗り込み、壁に凭れて①→②→③→④と順次表示ランプの点灯するのをいくらか充血した眼で上眼に追いながら上昇するエレベーターを下降しているように錯覚し、五階で開いた扉を一歩出ると間違いなくそこが地上五階なのがだから妙に不思議で、そのように神経が馬鹿になっているのを高みから覗くというほどの余裕はないがどこか突き放して見ている感覚なのがさらにも不思議で、右手親指と人差し指の二本で眼窩周辺部を閉じた瞼の上から軽く揉み解しながらなかば視野を閉ざしたまま二歩前を滑るように歩く半透明の恵美の霊に牽引されるようにして紀子は自室へ向かって歩きだす。