闇に眼が馴れてくるとさっきまで田尻の占めていた枕元のその同じ位置に横座りの体勢で心配げに見守る半透明の恵美の霊の姿が微かに見え、頻りにしかし背後を顧みて気にするようなその身振りに「あ、お祈り忘れた」と囁くように紀子は言うが再度起きあがる余力はないから横になったままで勘弁してもらい、背を向けた半透明の恵美の霊の向こうに透けて見える神棚に祈るともう何もすることはないこれで一日が終わったと思い、眼元まで蒲団を引っ被ると徐々に効いてきた抗生物質による眠気に抗いつつ明日以降の展開に思いを巡らせるが、ふと半透明の恵美の霊のほうに視線を流すと如何にも霊的存在らしいあるかなきかの虚ろな像として見え、自身の感官の鈍化に違いないが紀子にはそれが不思議に思え、そうと知りつつすぐ眼の前にいる半透明の恵美の霊が単なる幻のように思えて仕方なく、いや、今改めてそう思うのではなくて内奥でずっとそのように感じていたことに今気づいたというそれは感覚で、それがしかし単なる幻で内的自己の外的投影にすぎぬとすれば知恵美との緊密な繋がりもその交信も総てが幻ということなってしまうから紀子をひどく不安にさせ、本来のあるべき半透明の恵美の霊に戻ってくれと密かに紀子は念じながら本来のあるべき半透明の恵美の霊とはどういうものかとふと思う。如何なる定義も受けつけぬまるで捕えどころのない非存在というのが紀子の出した答えだがその空虚な答えに紀子は満足できず、「ねえ」と言えば「何?」と答えるしその挙措にしても生前と何ひとつ変わりないのになぜこうも空虚に感じてしまうのか、ただちょっと透けてるってだけなのにそれだけのことでなぜ埋めることのできぬ絶対的な差異とそれを感じるのか、その総てが半透明性に起因していてもっとよく見定めれば解消できるかも、できないまでもいくらかは拭いとることもできるだろうと踏んでそこに焦点合わせるがもひとつ巧くいかず、というより却ってマイナスに作用したらしく見るうちその深い闇に取り込まれたかに不安は肥大し、一方でマリア=皇太后とも崇められている半透明の恵美の霊が空虚な闇のはずがないしそのような不確かなものじゃ絶対にないはずとそれを紀子は斥けつつ性根据えて見据えるが不安の解消することはなく、基本的なところがグラついてしまって恵美って誰、半透明の恵美の霊って何と混乱し、そんなことも分からぬのか、熱のせいか薬のせいか知らないが自分がどんどん馬鹿になっていくとそう紀子は思い、馬鹿になればしかし不安も去るかと思えばそうでもなくて馬鹿は馬鹿なりに不安がるというだけで不安なことには変わりなく、いや馬鹿だけにむしろ際限なく肥大して深い闇そのものとしてそれは紀子の眼前に屹立し、その闇に見据えられてどうしようもなく不安になってしまって何か見てはいけないものを見てしまったのだと紀子は思い、その孤独な不安は耐えがたく、田尻を帰したことを後悔さえする。枕元の携帯で連絡すればすぐにも駆けつけてくれることは分かっているが紀子にそれはできず、これを自分に課せられた試練と思ってその不安に耐え抜くことを紀子は決意するが、総ては知恵美の不在に端を発しているのだからそれを根治しないことにはどうにもならず、このままいくと非理性に陥ることさえ願い兼ねないと紀子はさらにも不安になり、そのように神経磨り減らしながらも徐々に薬が効いきて意識も散漫になり、不安を抱えながらも徐々に入眠へと移行してウトウトし掛けたときだったか一旦眠りに落ちて不意に目醒めたんだったか定かではないが、閉じた瞼の端のほうに茫と霞む光があるようなのにふと紀子は気づき、最初それを紀子は半透明の恵美の霊が光るのかと思ったがそうではないらしく、石化したような眼球をそのほうに向ければ視線の右端辺りにある卓の上で何かが光っているのらしく、煙草の吸い差しかとも一瞬思うがそれにしては光り具合が異なるしそれよりはずっと明るく、といって豆球ほども明るくはないが、いやそれ以前に誰が煙草を吸ったのか紀子は熱で欲していなかったし田尻も気を遣って吸わなかったから煙草ではあり得ず、じゃあ何なのかと無理にも瞼を押し広げてその発光体を見極めようと薄闇のなか紀子は眼を凝らす。空中を浮遊するかにそれは微妙に卓上を揺れ動いているのが観察の結果判明し、どこか人魂めいても見えるから田尻が呼び寄せたのかとちょっと怖い気もするが、これこそが幻ではと思うと妙に納得され、いやそうではなくてこれこそが紛れもない現実でその正体はすでに知れているではないかと紀子は思い、その淡さ加減が端的にそれを示しているしそれより他ないと紀子は確信するが思うように体が動かず、気配のみではなく確かにそうだと見定めたいのにそっちのほうに寝返りさえ打てぬから「見て恵美ちょっとほらそこ」と教えるが掠れているというよりほとんど声になっていないから全然届かず、眼顔で合図を送っても自分にばかり注意を向けて背後の現象にはまるで気もつかず、自身へのもどかしさと半透明の恵美の霊へのもどかしさとで紀子はベッドの中で身を捩るが蒲団に拘束されるかに身動ぎひとつできず、それでも尚抵抗して苦しげに藻掻くのを魘されているとでも思うらしく「だいじょぶ?」と半透明の恵美の霊は顔近づけてくるが、私じゃなくて後ろ後ろと懸命に知らせるものの全然届かないしその不安な面持ちに最前の不安がぶり返しもして朧な発光体から焦点がズレてしまい、一旦ズレるともう巧いこと合わなくなって焦れば焦るほどボケボケに像は歪んでいく。
そのあと急に意識が薄れて再度眠りに落ちてしまったからその正体を確認できずにしまい、翌朝目醒めてから思い返してもその細部は薄れてしまっているからそれが何を予見するものだったのか紀子にはもひとつ分からず、帰還なのか決別なのかどっちを告げ知らせるものなのかとそれでも紀子は考えずにはいられず、どうともしかし解釈できるから不安だけがあとに残り、薬が効いて熱はいくらか退いたもののその不安に紀子は鬱ぎ込んで頭が痛く、巧いこと隠し果せなかったからひどく心配して「やっぱり休んだほうが」よくはないかと朝の電話で田尻は言ったのだが、行くと言ったからには「行きます」と強引に切ってしまい、その強気な態度とは裏腹にしかし内心紀子はひどく揺れていて、前に見た夢ではその姿を眼にしたのに昨夜のそれでは気配をしか感じられなかったということはその距離がその結びつきが徐々に遠くなり稀薄になっているということなのかもしれず、そうとしてもそれが知恵美の意志によるものか何か別の要因のせいなのかでそれへの対処は変わってくるのだが、それさえ分からぬから早いこと手を打たねばと焦りながらもその一手で以後の進展も変わると思えば動きたくても容易には動けないのだった。そのジレンマに苛つく紀子にそんなこと「ないって、久し振りだから恥ずかしんだよ」と半透明の恵美の霊は言うが、そのあまりの短絡に呆れて「これ以上待っててもダメなんだよきっと」すぐにも動きだせとのアレはだから催促なんだ「知恵美からのさ」と出任せに紀子は言い、言いながら自身そう思い込もうとして信者への聞き込みには限界があるしそれだけではやはりどうにも埒開かぬということが実際的な問題として浮上してもきたのだからこの際不法だろうと構うものかと紀子は決し、それにはしかし半透明の恵美の霊のほうが早まるなと忠告するほどで、そうかといってすでに捜索隊は解散してしまったし教団も当てにはできないのだからこっちから動かねば何の進展もないしダラダラやっているうちにも知恵美派の計画は着々進行しているのだからと紀子は譲らず、沖ら知恵美派に対してか信者らに露見した場合に備えての牽制か分からぬが、今から思えば八木にしろ日下にしろただ振りとして動いていただけで実際本気で奪回する気などなかったのかもしれず、恵美=マリア=皇太后で代替できて教団の運営が可能ならそれで構わぬくらいにしか思っていないのだと紀子は言い、異端分子がそれで排除できるなら儲けものとさえ思っているかもしれぬと飛躍した思考に陥ってしまうのを紀子は知りつつ避けようもなくそこへ嵌り込んでいくのだった。