急に畏まったように田尻は座り直すと控えめに室内を見廻しながら「ここはでもアレですね、出ませんね」ともひとつ分からぬことを言い、何気ないその言葉にしかし妙に深刻に「え、何が?」と問われたからいくらか田尻はうろたえて「あ、いや何でも」と濁して口籠り、得心したように「あそうかマリアが」と独り言ちるのを「だから何?」と執念く訊くが胡麻化すように明日の「予定は全部キャンセルってことで」その旨駒井に連絡すると田尻は上着から自身の携帯を取りだし、メモリを探るその右親指の動きを紀子は注視しながら休めるならそれに越したことはないが駒井が承諾するか疑問だし急な変更も難しいだろうし、何より信者らに申し訳ないから「明日は出ます」とそれを制すと、ピタッと右親指の動きをとめて俯けていた顔をこっちに向けて「え、でも、いんですか?」と訊かれて紀子は「行きます」と小声ながらもキッパリと告げ、その決意のほどを見てとると抵抗は無理と判断してか渋々ながら田尻は携帯を仕舞う。その勢いに乗じてそれに備える意味でもここで消耗されてはだから却って困ると紀子は帰宅を促すが恵美=マリア=皇太后監視の元で何ができるというわけでもないからと田尻は看護を求めて已まず、呆れたように「だってもう何もすることないでしょう」と紀子が言うと常に傍らに付き添ってあることが「看護の看護たる所以じゃないですか」と尤もらしいことを言いながら田尻は卓のほうから躙り寄ってきて、またしてもそれが河馬井とオーバーラップして朋子じゃないが河馬井菌にこの身を侵蝕されていくような気さえしてその繁殖能力の凄まじさに何より紀子は恐怖を覚え、表面しかし平静を装って「真希さんがでもほら」気にするといけないからと言われて田尻はいくらか怯むが病人をひとり放っといて帰れますかと頑なで、生真面目なだけに鈍感な田尻に苛立ちながらも「私にはほら恵美もついてるし何たってマリアなんだから」絶大な加護は間違いなしで、知恵美=メシア=天皇にも匹敵するその灼かな霊験に掛かれば一拝みで寒気は去りまた一拝みで頭痛は遠退きさらに一拝みすれば快癒間違いなし「ってね」と渾身の道化で胡麻化せば、それには半透明の恵美の霊のほうが面喰らったようで「まさか」そんなことできるわけないと首を振り、そのまさかでネタが割れて「適当なこと言って」胡麻化さないでくれと叱られる。その誇大表現を詫びつつも適当と一言で退けることもできぬというかに「ていうか、それくらい心強いって」ことだと紀子が補足すると「そら分かりますけど」実際的な効力を考えると不確定なものに頼るのはどうかと思うと田尻は言い、言ってからそれに気づいたらしく「あ、いや別にマリア様卑下してるわけじゃなくて」命に関わる重病でもないのだからそのセンサーに引っ掛からなくても不思議はないと弁解するように言い、そのうろたえようが可笑しいというかに笑顔で「気にしてない気にしてない」と半透明の恵美の霊は言い、それを聞いて安堵したのか安易な神頼みはよくないしマリアの負担を強いるだけと気遣うように田尻は言い、その霊験の不確定を言われると弱いが「ソレってでもさ、大したことないってことじゃ」ないのか、そうとすれば看病の必要もないではないかと屈せず紀子は帰宅を促し、さらには知恵美との緊密な繋がりもあると自説を述べて如何にもそれが弱点を補完し得るかのようだがこれも何の根拠もないただの思い込みに過ぎず、というより紀子の強い願望に過ぎぬから説得力はなく、それでも強引に「ほらその神棚、あるでしょ」と田尻の背後を指差し示してそこが知恵美の居室だったことを明かし、毎日欠かさず知恵美=メシア=天皇に祈願しているし当然それは多くの信者らの祈りとともに知恵美に聞き届けられているはずだから良くなりこそすれ悪くなる「なんてことないんだから」と紀子は言い、だったらなぜ熱など出すのかと問われたら答えに窮するがそれより田尻は神棚に興味を示し、つと立ってそれに向かうと「ここにメシアが?」と何か崇高なものでも目の当たりにしたようにその三九八で四一七九円の小っさい神棚を眺め入る。
その背に向けて知恵美はいつかきっと「ここに帰ってくるって」信じていると半透明の恵美の霊の言葉を代言するかに紀子は言い、ただ日下の言うように自力での帰還が果たせるとは思えぬからこっちから「迎えに行ってあげなきゃって」思っている旨紀子は明かすが、そのひどく楽観的な物言いを虚勢と知りつつ「迎えに行くたってどこにいるんだか」分からぬのにどうやって探し当てるのか、組織立っての捜索に全然進展がなかったからあのような無惨な結果になったのではないかとその不可能を田尻は指摘し、無理するからこういうことになると説教めいた口調で諭せば、だからこそ祈っているのだしそれより他に不可能を可能にする手立てはないではないかといくらか憮然とした面持ちで紀子は言い、もひとつ詰めの甘い指摘に田尻は恥じ入るように俯いてしまうがすぐまた顔を上げて「じゃオレも祈ります」いくらか足しにはなるだろうと再度神棚に向き直り、そのあとに続いて「じゃ私も」と半透明の恵美の霊が田尻の横に並び立つとふたり揃って威儀を正して手を合わせるが、急に振り返って紀子を見つめて「柏手、打つんでしたっけ」と訊かれて紀子は「そう」と頷きながら控え目に小さく柏手を打つ田尻と音のせぬ柏手を打つ半透明の恵美の霊の祈りをベッドの中から見守り、心眼で以てその祈りの飛びゆく先を辿るかに知恵美に思いを馳せるが自室を一歩飛びだすと途端に見失ってひとり虚空に投げだされてしまうし応答がないから届いたかどうかさえ分からず、虚しく自室に舞い戻ると改めてその不在が巨大な軛として自身のうちに暗澹とした影を落しているのを嘆くのだった。マイナスのイメージしか喚起できぬことに紀子が悲嘆している間も神棚前では田尻と半透明の恵美の霊の祈りが続き、祈りを終えるとその祈りが効いたのか、それともその霊視能力で知恵美との緊密な結びつきを感得したのか神棚に宿るその灼かな霊験の残滓を垣間見でもしたのか紀子には知りようもないが「ホントにだいじょぶですか?」と幾度も念押しながらも「分かりました」とようやく田尻は帰ることを承諾し、それでも尚不安なのか明日の朝一番で「電話しますから」と言って電話口までの距離を田尻は目測するとそこまで紀子が行けぬかもしれないことを考慮して枕元に携帯を置いておくといい「そっちに掛けますから」と言われて紀子はその通りに従い、「マリア様も頼みますよ」と言い置いて田尻が帰るとしばらく耳を澄ましてその足音が聞こえなくなってから紀子はドアに施錠し、一息ついて反転すると壁に背を支えながら今自分のいる地点からベッドまでの距離を目測して往路は田尻に支えられていたから楽々ここまで来られたが復路を思うとベッドまでのその道のりが遙か天竺への十万八千里と紀子には思え、急に足弱の老婆にでもなったかにその場に頽れそうになるのを踏ん張って耐え、常なら一〇歩もあれば行ける距離をゆっくりと壁伝いに辿ってベッドを目指し、よろめきながらもどうにかその縁まで辿り着くと「着いたあ」と歓喜の呟きとともに手を伸ばして明かりを消し、臆したような緩慢な動作でベッドにその身を横たえる。