身体を持たぬ霊的存在の身軽さなのか抑もその存在の有り様からしてそのような苦しみの一切から解き放たれているということなのか半透明の恵美の霊は苦悶するようでもなくヘラヘラと淡い像で空中に漂うかに坐している恰好で、いい気なものと思わず口にし掛かってしかしその自分本位な思い込みに紀子は気づき、その存在の稀薄さや現実への非関与性に苦しみ嘆いていたのを自身眼にしたことを思い返し、マリア=皇太后という装置によって間接的にもせよその現実への関与が可能になったとはいえその本質まで変じたというわけじゃないだろうから内に秘めたその苦しみはやはり今尚抱えているはずで、いい気になっているのはむしろ自分じゃないかと紀子は思うとともに自身を緊縛する綱がキリキリときつく引き絞られるようなのを甘んじて受けるというのではないにしろぐっと怺えて耐え、淡いその像を視野の中心に据えて眼を向けるべきはここで知恵美に直結しているのはここより他ないのだというように紀子は半透明の恵美の霊を見つめ、それに答えるかに同様な切実さで半透明の恵美の霊は見つめ返すが不意に妙案を思いついたというように躙(にじ)り寄ってくるのを「何?」と牽制するかに訊けば「徳雄先生は?」と半透明の恵美の霊は言い、それのどこが妙案かとあからさまな落胆を示して「ダメだよ今それどこじゃないって」と斥ければ「じゃどうすんの?」他に頼むところはないじゃないかという面持ちでさらに間近に詰め寄ってきて、決して責め立てるふうではないもののじっと見つめて離さず、背後の透けた半透明にそれほどの眼光があるかと思うほどそれは強い眼差しで、それ本来の霊的力か知恵美の掩護なのかその微かだが強い眼差しに見つめられて紀子はいくらかたじろぎ、その奥を覗き見たところでしかし不可知な空虚をしか見出せぬから非存在との対話の本質的な不可能を紀子は改めて思い知り、その眼差しの強さにというよりその奥の空虚に動じて「どうしよう」と弱気に呟くのみでどうにも煮詰まってしまって何の策も見出せず、その無力な自分に腹を立てる気さえ起きぬほどにも落ち込んでしまい、尚も見つめる半透明の恵美の霊の視線から逃れるように「オシッコ」とトイレに立つ。常からそこを思索の場と決めているわけではないが何らかひり出せそうな気がしたから便座に腰掛けてひとり紀子は沈思を続け、出てくるのはしかし薄黄色の臭いオシッコだけで血反吐に塗れた思惟の欠片さえひり出すことはできず、そんなものかと独り言ちつつオシッコに濡れた局部を拭って身仕舞い整えると脇のコックを捻って水を流し、手を洗いながら便器の底に吸い込まれる水流をチラと目端に捉えてコックの一捻りで綺麗に流される糞尿のように今抱えている問題の総てを流してしまいたいとふと思い、というよりそれらの問題に対して何ら処理能力を持たぬこの身を流してしまいたいと紀子は思い、強固なはずの決意も揺らいできてどうともなれと投げやりな気持ちで倒れ込むようにベッドに突っ伏すとそのまま眠りに落ち掛け、危ういところで「お祈りは?」と半透明の恵美の霊に言われて身を起こすと主不在の神棚に並んで向かい、その無事の帰還を祈念するとこれで一日が終わったとの実感が急に湧いてきて、総ての機能が停止してそれ以上思考することさえ無理というように「お休み」と突っ伏して寝る構えだが全然眠れず、いくらか虚ろな状態にはなるものの眠りには遂に落ちることなく、諦めて再度上体を起こして窓外を眺めるともなく眺めながら高ぶった神経の処理に困じる紀子の隠そうとして隠しきれぬその憔悴を田尻は気に掛けつつ敢えて穿鑿することもないが、いくらか気詰まりな空気をそれは醸したから会話も探り探りでぎこちないし一日行動を共にするうち自然鬱積も募るし、他に散じるところもないとなれば田尻マネージャーに噴出するしかないのだった。
その心的なケアも仕事の一環と心得てか鬱陶しがることもなく聞いてくれるからつい要らぬことまで話してしまい、とはいえ田尻の聞き手としての態度それ自体は殊更親身というのでもなく、聞きながら運転に集中するようでもあってミラー越しの軽い目配せと僅かに示す頷きくらいがその確かな反応で、全体田尻は何の構えもなくサラリと受け流しでもするかに軽げな素振りだから全身痼ったかの重苦しい気分がそれでいくらかなりと解れもしてつい気が弛んだが、むしろ親身な素振りを少しでも見せていたら却って紀子は警戒したはずで、その押しつけがましいところのない一歩退いたドライな感じが戸越しの対話というのか塀越しの遣りとりというのか、その心情を吐露するのに程良い隔たりで、その具合のいい距離感に何もかもというのではないにしろその蟠りの粗方を紀子は明かしてしまい、その同情を買って自陣に取り込もうとの計算尽くの吐露ではだから全然ないしそれについて意見を乞うというのでもなく、その辺心得てか田尻も何も言わずにしばらく運転に専念するふうだったが「何てったらいいのか」よく分からないがと不意に切りだし、昔っから自分は孤独でこの世界から呪われていると信じていたと言い、その過酷な心霊体験からすればそれも頷けると紀子は思いながらしかし何を唐突に言いだすのかといくらか戸惑いもしてろくに相槌もできずにいるが、気にすることなく田尻は先を続けてこの世界の内にある限りその凶悪な呪いからは逃れられぬと思いながらそれからの逃走を諦めることもできず、ジワジワと侵蝕されて確実に疲弊していったのだった。その帰結としてあるとき自身の終局を見晴るかすところまで来たように思い為し、このまま消え去るのかと思いながらふと不可解な荷をひとり背負わされて狂死するという展開はあまりに理不尽で、世界とは理不尽なものだと言われてしまえばそれまでだが理不尽なりにも納得くらいさせてほしく、それも許されぬというのがどうにも不愉快で怒りさえ覚えて「やられてばっかじゃ癪じゃないですか」と血気盛んに対抗してひとり闘おうとしたこともあるらしく、今から思うとひどい「お笑いですけど」と自嘲的といのうでもない対象化した笑みをミラー越しに田尻は浮かべると「ほら映画であったじゃないですか、ゴースト何とかってオバケ退治の」とその失念した映画のタイトルを訊かれて紀子は「ああマシュマロマンの」とそれのみ記憶に鮮明で、田尻同様そのタイトルを思い出せなくて「ゴーストマシュマロ? 違うな、何だっけ?」と助手席に振れば「ゴーストバスターズ」と半透明の恵美の霊は即答し、「そうそのバス何とか」の伝で自身のこの特異体質を有効に活用できるのではと思い、世界に拮抗できるとは思わぬながら小便くらい引っ掛けることはできるかもと愚かにも思い為し、いや、できるできないじゃなくてそれより他に選択の余地はないしその闘争の内にこそ自身の存在の意義はあるんじゃないか「ってバカみたいに思い込んでて半年くらいかな」その実際的な活動について懊悩していたと言い、その悉くを自身の若さのせいにしてこれは明らかに自嘲的な笑いを田尻は笑う。そのごつい顔立ちとは裏腹な線の細い笑いが収まってもその先はなく、妙な間が車内に拡がって常なら触れずに遣り過ごすなり別の話題にシフトさせるなりして何らか回避行動に出るところだが今の紀子にそれを推し量るゆとりはなく、総てが知恵美を中心にしてしか思考できぬかにそれとの関連で捉えてしまうから気になって仕方なく、こっちも曝けたのだからと居直るかに固着した空気を無理にも抑え込んで打つ手はそれで見出せたのかと紀子が訊けば「ていうかあの、ほら、ひとりエッチしてて」巧いこと回避策を見出すに至り、退治るよりも見ない努力をするようになって「それっきりです」と面目なさげに田尻は言い、それに退治たところで「切りないですよ」死者は累積的に増えるばかりだからとその無意味を嘆きもして、そこにかつての自分ともども封じ込めようとでもするかに「バカですよね」と苦笑に紛らせ、全部をその対象に据えるならあるいはそうかもしれないが一部の質悪いのだけを相手になら「無意味ってこともないんじゃ」ないかとの紀子の指摘に、それはそうかもしれぬが「霊って意外と質悪いから」と田尻がその実感を率直に言えば、「それって偏見」と半透明の恵美の霊に言われて「すいません、そんなつもりじゃ」なかったと詫びるが「でもマリア様はマリア様で霊とは」その本質から違うと田尻は言い切り、その真っ直ぐな視線には半透明の恵美の霊もたじろぐほどで後部座席に逃げてくるがそれを田尻は追うことなくすぐ前方に視線を戻し、今もその孤絶感に何ら「変わりはないですけど」いくらか心持ちが変じたのもつまりは恵美=マリア=皇太后に接してからで、暗闇に光が射すとはこのことかというほどそれは眩しく輝いていて自身照らされているのか進むべき先を照らしているのかは分からぬながら、この一条の光さえあれば自分はそれなり真っ当に生きていけると今どきドラマでも使わぬような臭っさいセリフを冗談めかしてではなく生真面目に田尻は言い、今なら「そのゴーストバスにもなれる気が」すると決然と言ってから「いや本気でなろうとかいうんじゃなくて」それだけの気構えは充分あるという意味だと言い直す。そのいくらか告白めいた言葉に頬を染めているかまではよく認め得ぬながらながら「やだ、そんなあ」と半透明の恵美の霊は照れ笑い、その照れた素振りで自身の過剰表現に気づいたらしく田尻は僅かに耳を赤くしながらそれが偽りのない今の自分の心情だということを述べ、半透明の恵美の霊への心酔はしかし純粋に個人的な感銘で信仰とそれをいえるかどうかは今尚疑問だと田尻は詫びもするが、信仰云々についてなら自分もそれは同じだから何も詫びるに及ばないと紀子が明かせば「何てったらいいのか」教団とは関係なしに関わりを持ちたいというのが本音で、ただそれを言うと何か下心でもあるように思うかもしれぬが、全く何もないとは「そら言いませんけど」ないと言ってもいいほどそれは微々たるもので、確かに向後それが爆発的に発展しないという保証はないから確言はできないが自分としてそれは禁則と弁えていると田尻は言い、走行中にも拘らず半身をグルリ振り向けると教団抜きの「専属マネージャーっていうんですかね、そんなふうに思ってくれたら」嬉しいと何か非常な決意を込めた眼差しで田尻は言う。