感傷的になる間もなく「急いでください遅れそうです」と急かされて小走りに小セミナーへと向かい、淡々とスケジュールをこなしていくがその間も紀子の思いは波立ち揺れ続けて治まることはなく、というのもこの伝道をずっと続けたとしてその地道な積み重ねがいつか知恵美の帰還に繋がるとはとても思えぬからで、日下八木の思惑を思えばそれは尚更だしむしろその懸隔を助長するだけなのではとさえ紀子は思い、実際的な行動について真剣に考慮せねばとの焦りがひとつ小セミナーを終えるごとに加算されてそろそろそれが限界に達しようとしてもいて、この状況下でしかしそれを果たすには相当無理をしなきゃならないだろうが徳雄先生の掩護を自ら禁じてしまったからにはやはり田尻の助力が不可欠で、最前の田尻の言葉を信じるならそれは約束されたようなものだから紀子にはそれなり心強いが、それでも尚知恵美捜索の困難なことに変わりはないから出口なしのこの現況に紀子は喘ぎ、最終的に教団からの離脱も視野に入れながら動きだすタイミングを計るかに身を撓めて待ち、待ち続けるその緊迫にしかし心的疲労はさらにも増して隈掛かったその眼が窶れたというより老いたという衰え方を端的に示しているのを湯上がりに立った鏡面の向こうに発見し、ふとそこに映る半裸の自分に睨めつけられたような気がし「不細工」と嘆きとも怒りともつかぬ呟きを紀子はその鏡面の自身に向けて吐くが、そっくりそれは跳ね返ってきて自身を打つから却って凹み、それでも尚鏡面を見据えて罵言を吐き続けるがその跳ね返りに打たれてさらにも凹み、その虚しい悪循環を見兼ねてか「自分をそんな追い込まなくたって」と半透明の恵美の霊が窘めるのに内心救われたように思いながらもそれに抗うかに体は鏡前から動かない。というより鏡面の自分にその両肩をしっかりと押さえつけられてしまったかに身動きできず、虚像に主導を握られることへの憤りか主体は飽くまでこの自分なのだと宣するかに紀子はその不細工な鏡面の自分を何としてでも捻じ伏せようと睨めつけるが同じ鋭い視線に睨めつけられ、その隈掛かった眼のみならず体のそこここに刻印された河馬井の残影が湯上がりの火照った肌にクッキリと浮き上がるような気さえしたからさらにも紀子は打ち拉がれ、悉くそれを滅殺するには知恵美の灼かな霊験より他ないのか、それとも自力で滅殺してこそその帰還も果たされるということなのか、どっちにしても実現の見込みは極めて薄いように紀子には思え、そうかといって単独捜索に乗りだすことをやめるわけにはいかないしその予想される絶望的な終局を思うと怖じ気づかぬではなかったが、後先考えてたら何もできないと自身を奮い立たせて鏡面の自分へ何かに憑かれたような笑みを浮かべ、同じ笑みをまた返されてそれがひどく効いたのかして立ち直れぬほどのダメージを受ける。その一撃が総てというのではないが精神的にも肉体的にもこれ以上にないほど壊れてしまったと紀子は思い、それにも拘らず尚非理性に陥らぬのはなぜなのかと思わずにいられないが、それこそが知恵美=メシア=天皇の灼かな霊験とすればそれは却って酷な仕打ちで燃え尽きても燃え尽きてもすぐ元通り再生してしまう地獄の責め苦に等しく、毎日の欠かさぬお祈りの見返りがこれではその霊験も当てにはならぬと思い、そのような不遜な考えに陥るのも心身ともに摩滅しきっているからで一旦リセットでもしなければどうにもならず、そうとすれば尚更自身を貶めるような愚は避けねばならないのに鏡面の自身を打ちのめし打ちのめされるという無為を紀子はいつまでもくり返し、不意に横合いから「怖いよ、なんか」とその狂的を半透明の恵美の霊に指摘されて自身のその不様な様への憤りから「恵美はいいよ映らないから」と思わず口にしてハッとして振り返れば、心持ち俯けた顔をこっちに向けて何か言おうとするが何も言わずに口を噤んでそれこそウラメシヤと化けて出る幽霊めいた面持ちで見つめるから「ゴメン、最低だね」と自身への憎嫌悪で項垂れながら紀子は詫び、それでも尚鏡面に貼りついているのを見兼ねてかその前に開るように乗りだした半透明の恵美の霊に「お祈りしてもう寝よ」と言われてようやく鏡前から離れることができ、身を引き剥がすようにして紀子は半裸のままパジャマを小脇にバスルームから逃れ出る。
湯冷めして微熱のあるのを「無理しないほうが」いいと言い、一日くらい休んだってなんてことないしそれで文句言われたら「私がさ、直談判したげるから」と半透明の恵美の霊は言うが、微熱くらいで休むわけにもいかぬし「七度越えてないから」さして心配することもないと紀子はその意を変えることはなく、生前の恵美のように熱に強くはない紀子にしかし六度九分は相当な苦で、熱に上せて茫とした意識で倍にも膨れたような頭を重たげにフラつかせながら小セミナーに臨むが熱のせいで逆にテンション上がって変に饒舌になり、出来不出来は別としてそれなり好評を博したから調子扱いてそのノリで押し続け、その分体調を悪化させて気づけば七度六分で「だから言ったじゃん」と半透明の恵美の霊に叱られて「ゴメン」と詫びるが、上せて足元覚束ないし真っ直ぐ立っていることさえできず、物理的に手を貸せぬ半透明の恵美の霊の心配げな面持ちを眼にしてか横抱きに抱え上げようと身構える田尻にそこまでしないでも「だいじょぶ」だからと辞し、それでも腋を支えられて自室まで運ばれながらその倍にも膨れたような頭でしかし半分も機能しない思考を紀子は巡らせ、田尻のごつい腰骨がちょうどウエストの窪みにフィットしていて一歩ごとにそれが紀子を突くようなのが妙に意識され、熱のせいか過剰な反応を体は示して徐々に性的な刺戟となって意識されもし、熱(いき)り立った田尻のペニスを紀子は思い出すがそれと比例して河馬井の残影がオーバーラップしてしまうから嫌悪のほうが先に立ち、その不快に顔を歪めるのを熱のせいと取られてさらにも強く抱え込んで体を密着させるし「もうすぐです」とのその声まで憑依されたかに河馬井の声になってしまっているから余計不快に苦しむが離れてくれとも言えないのだった。紀子をベッドに寝かせてからも何くれとなく田尻は世話を焼いてその専属マネージャーとの宣言を実践するかの意気込みだが、何をしても悉く河馬井とダブって見えてしまうから紀子にそれは耐えがたく、なるべく見ないようにしながら「あしたのこともあるし」と帰宅を促すと「それなら尚更」帰れぬし紀子が動けなければ恵美=マリアも動けないのだから自分ひとりセミナーに出ても無意味で、それより過酷なスケジュールと知りつつそれに従事させたことをマネージャーとして責任感じていると田尻は詫びるが、田尻のせいというよりそれは駒井に帰せられるべき責任だし延いては教団の運営それ自体に関わる問題だから日下八木に問うべきところで田尻の責められる筋でもなかろうと自身理性的になることで河馬井からの逃走を図りつつ紀子が言えば、それらも引っ包めて無批判に受け容れたのだから「同罪です」と田尻は項垂れ、霊の顔色は見えすぎるほどよく見えるのに「人の顔色ひとつ見れない」自身の無能を呪いもし、その責任のみ「ってわけじゃもちろんなくて」眼の前で苦しんでいる病人を放っといて帰るわけにはいかぬと看病する旨田尻は言う。次いで何か物色する様子で部屋のあちこちに眼を走らせながら「薬とかないんですか?」と訊かれて紀子は「タンスの上の、神棚の脇のそうソレ」と指示して薬箱を田尻は卓に移し置くと、いくつかあるカゼ薬を「どれです?」とひとつずつ示して訊き、うちひとつを「ソレ」と紀子が示すと「コレですか」とその蓋を開けながらさっと視線を走らせて一瞥すると「でもコレ期限切れてますけど」と訝しげに田尻は告げて「ほら」と箱を手渡され、見ると確かに過ぎているから「じゃあ他のヤツ」と紀子は返すがどれも期限が過ぎていて、それら卓に置かれた期限切れの薬をしばらく田尻は呆れたように眺めていたが決意を表わすかに小さく頷くと「買ってきます」と告げ、答えも待たずに立ち掛けるのを今まで知らずに服用していたが何ら副作用もないのだからと紀子は押しとどめ、副作用はないかもしれぬが効果も期待はできないだろうと田尻の言うのをしかし紀子は押しきって最も新しいのを選んでジャーで沸かした白湯で飲み、人心地つくとほんの数秒の長い沈黙がぐっと迫りだすようにして立ち現れ、熱による発汗からだろう自身の汗の臭いが一瞬鼻を掠めて妙に性的な刺激を田尻は意識してしまうし気拙さを助長しもしてそれとなく互いに視線を逸らす。