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一方的に救済者としてのみあるのではないというその逆転したような図式に知恵美=メシア=天皇とはまた違う有り様を紀子はそこに見てこういうのもアリなんだとふと思い、さらには実見者の証言は俄仕込みの説教などより遙かに説得力があるとも思い、自身実見者でもありながらひとたび伝道師の衣を纏ってしまうとその言説から自身の生の言葉は零れ落ちてしまうということに気づきもし、そうとすればこれ以上の言葉は不要と一切を田尻に任すかに紀子は押し黙って一室に漂う半透明の恵美の霊を中心にした妙な一体感にも馴染めぬまま最前からの疎外感をさらにも強くし、どうにかしてそこから脱しようと居並ぶ皆に順繰りに視線を渡したのちそろそろ締めに入る頃合いではと目配せして「朋子さんの参加で今日はたいへん有意義な」セミナーだったとの田尻の言葉でようやく小セミナーは閉じられようとするが、その前に再度恵美=マリア=皇太后に祈りを捧げようとこれは朋子の提案で、「ええ、もうそんな祈らなくたって」いいではないかと照れたように半透明の恵美の霊が言うのを「いいじゃん、ねっねっ」と拝み倒す勢いで、「いいよね?」と訊かれて紀子は無理に押しとどめることもできぬから「うん、いいんじゃないの」と同意を示すと「藤崎もほらいいって言ってるし」と朋子は言い、「勝手にもう」と不平を洩らす半透明の恵美の霊に「ほら動かない」と注意さえしてそれでは皆さん祈りましょうと朋子の音頭で再度祈りはじめる。もひとつ軌道に乗れなくて伝道師になり切れずにいたのを恵美=マリア=皇太后自身の灼かな霊験なのか一瞬ながらその視認に至ったことで救われ、照れ笑う半透明の恵美の霊を他所に二度目のさらにも深い祈りが続くなかひとり紀子は浮かぬげで、着実に恵美=マリア=皇太后は浸透しているしその灼かな霊験も顕在化しつつあるようなのだが、実際のところこれで完結するのだろうか巧いこと納まるのかとの漠とした懸念が兆すのは、やはり何か足りない何かが欠けているとの思いが拭えぬからで、その欠落とは知恵美に他ならないし知恵美なくしてこの教団の存続のあり得ぬことは紀子には自明で、これを機に総売り尽し総決算セールと巧いこといくならそれに越したことはないが知恵美の不在を思うと皆のように素直には歓べず、沖らその一派の巧妙か隊の面々の怠慢かどっちともしれないが、捜索の行き詰まりとも相俟って知恵美切り捨て案の検討を打診する八木に日下も軟化してきているらしいのを駒井から聞いてもいるため、マリア信仰の信者らへの浸透は八木の切り捨て案を側面から掩護することにもなると思えば紀子として素直に歓ぶことはやはりできず、昨日のことがネックになっているのだろうが皆が恵美=マリア=皇太后に祈るなかひとり紀子は知恵美にとその祈りを捧げるのだった。
田尻ともども待つよう言われて半透明の恵美の霊とも目配せ交わしつつ並んでソファに掛けながら「え、何ですか?」ともう反転している駒井の背に向けて紀子が訊くと、振り返りざま一瞬何か言い掛けたのをやめて一呼吸おいてから「私から言うよりもね、日下さん来ますからそのときに」と含みのある物言いで、しかも重ねて問う余地もないほど距離を置いた事務的対応のため余計気に掛かって不安というほどではないにしろいくらか落ち着かず、ゆっくり上体を後ろに傾けてソファに深く身を沈めたのはしかしこのところろくに睡眠も摂れないでいるからいくらかなりとその疲労を解消せんがためで、これから行われる日下との対話に備えてというのでもなく、田尻に背を向けるようにいくらか左に体を傾斜させて背凭れに左の耳を紀子は軽く押しあてると頬に触れる合成皮革の感触が妙に心地好く、常から寝つきは悪いほうだし場所が変わると寝られぬ質でもあるからその気遣いもないと油断していると度を超した疲労のせいか本当に眠ってしまいそうになったからすぐにまた身を起こし、それを察してか「寝てていいですよ来たら起こします」と気遣うように田尻は言うがそうもいかぬと紀子は前傾姿勢を保って緑茶のカフェインに縋りつつ日下の来るのを待つ。そのうち捜索隊の面々が集まってくるとこれも日下の指示で駒井が待つようとどめ、功次の取り成しが効いているのか表立っての非難なり警戒的な素振りこそ見せぬもののまだ互いの懸隔はかなりあるから妙な居心地悪さを等しく懐きつつ歯科医の待合室にも似た緊迫した静寂のなかさらに待たされ、皆の緊張が臨界に達するというころになって予定より三〇分ほど遅れて日下が現れるとその蓄積された緊張が日下に向けて奔出されるかというとそうでもなく、むしろ日下によって緩和されるようなのを意識して狡い手を使うと紀子は思い、日下にしかしそのような策を弄する裏面はないだろうから案外ただ遅れただけなのかもしれぬと思い直して皆が一斉に顔を振り向けたゆっくり近づいてくるその面貌をひとり遅れて差し覗けば、久しく見ぬうちにいくらか面窶れしたような気がし、日下は日下なりにいろいろあるのだろうとしかし紀子が好意的なのは沖らとはまた違う意味で知恵美派と見做しているからで、営業マンとしての実績は別にして落ち着きないただの中年男に過ぎない非カリスマの日下が教祖でいられるのも中心軸としての知恵美=メシア=天皇が今尚機能しているからだと日下は思い、僅かに気配を感じるのみで直接眼にしたこともほとんどない恵美=マリア=皇太后がそれに代わり得るだけの魅力なり能力なり備えているのかもひとつ疑問なのもそのためで、駒井の報告にあるように小セミナーでの実績を評価するにしても尚その疑問の解消されることはなく、自らそれを確認し得るこれが最後の機会と思えば緊張もするし声もいくらか上擦って「お待たせしました」とその低姿勢は常のものながらゆっくりとした足取りにどことなく気負いのようなものが感じられ、何らか重大な発表のあることは確からしいが詳細どころかその概要さえ聞いてはいないから紀子は急に不安になり、田尻を経て半透明の恵美の霊へと視線を向けるが等しく不安な面持ちにぶつかってさらにも不安を募らせる。再度日下へと視線を戻すことができなくなって顔俯けてその声を待てば身動ぎの気配ののち自席に着く音が静かに響き、それきりしかし動きがないから何勿体ぶっているのかと気になるが眼を向けられないから余計落ち着かず、そのように身動ぎもせず感覚を研ぎ澄ましてみても一向視覚に捉えることはできいなから自分にその才はないのかと諦めたように「ええ」と日下は痰の絡んだような甲高い声で皆さんに「報告があります」とまず言い、それでも諦め切れなくてすかさず視線を走らせるが捉えることはやはりできず、気負い込んで前傾させた上体を引き戻すと不様なほどにも背凭れに沈み込ませ、投げやりというのではないがその第一声に較べてトーンもグンと落ちた気の抜けた口調で「しばらく前からあることに奔走してまして」と言うのを聞いて難航している土地購入の件と紀子は諒解し、何だそのことかといくらか安堵したから組み合わせた手から視線を剥がして何とか日下に向けることができ、見るとしかし死に掛けのリスみたいにまるで生気のない顔をしているから却って驚き、このところのゴタゴタ続きで皆相応に参っているのだと改めて紀子は思うとともに自分だけが苦しみ喘いでいるかのように思い成していたことを短絡と自省し、その憔悴振りを憐れみながらもしかし視線がどこか冷淡なのはその皺寄せが最もきつく現れているのは自分のところだとの思いが一方であるからで、そのように信頼と不信との相反する感情をふたつながら懐きつつその真意を見定めんと日下の言葉に耳傾ければ、詳細の一々を説明はしないが契約に至らず流れてしまったと日下は残念そうに言うと浅い溜め息とともに脱力したようにさらにも椅子の背に沈み込み、二廻りも縮んだようなその姿が自己演出じゃないかと疑うほどひどく年寄り染みているから気の毒には思いながらも知恵美の不在との関連でそれを捉え直すことになればその重要性も再認識されて捜索にも一層力を入れることになるはずで、抑もそのための招集なのかもと紀子はふと思い、そうとすれば落胆もただの身振りというのではないにしろ少なくともある程度は演出と見做せるから、何も気の毒に思うことはないし捜索の強化ともなれば自分もそれに関わることができるかもといくらか気が楽になる。