友方=Hの垂れ流し ホーム

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室内を一瞥した途端間違えたと紀子は半歩後退(あとずさ)るがそんなはずはなく、鞍村の出迎えに接して確かにここに間違いないと再度よく眺めれば、同じ室ながらその蛍光灯が新しいものと取り替えられて隅まで明るく照らされているからパースの狂ったような不安定な異質空間では最早なく、それでも尚傾いているような気がしてならないのは老朽した建物自体の傾きに他ならず、明るいだけに染みや汚れの眼について前より以上に小汚く思えるし呼吸するたび器官に埃が吸着するかに噎せ返るのも換気が充分ではないからで、そのようにしてひとつひとつのディテールに妙にリアルな手応えを感じながらその現実感に紀子は却って違和を感じ、ドア前にひとり茫と立ち尽してこの違和感は明かりのせいだけではなくて何か別のものに起因しているのではと思い、それが何に因るのか見極めようとの気はないながらさらに細かく観察しようと構え、その瞬間しかし背中に触れるものをふと感じて横目見れば鞍村で、背に添えられたその掌にさらに前へと押し出される形で紀子は一歩踏みだしながら観察の一瞥を明るすぎる室内にくれる。その一瞥で何が分かるというのではないが少なくともこの前の不安定な異質空間のなかば闇に支配されたような怖い空気に自身妙に馴染んでしまっていたことに紀子は気づき、ではなぜそれに馴染んでしまうのかとさらに突っ込んで問うことはしかし怖くてできず、ただ、今この場にいることがひどく場違いな気がして臆したように次の一歩が踏みだせず、というより腰が引けて後退したいくらいなのだが背に添えられた鞍村の掌がそれを阻(はば)み、さらにも前へ前へと押し出されて明るい蛍光灯の真下へ引き出されいく自身を紀子は受刑者に準(なぞら)えもし、断罪される自身を幻視さえして罪を恥じるかに顔俯ければ真上からの強い光が濃い影を落として沈鬱な表情をさらにも暗く沈んだように見せ、伝道師のそれは様相ではないとその姿を横目見ながら田尻は思い、どう立て直したものか思惟を巡らしつつ半透明の恵美の霊とともにその脇に控えて見守っているのを紀子は横目に見ていくらか体勢を立て直す。とはいえ何もかもが一掃されたような違和感は拭えぬし自分ひとり疎外されたような気はするし、そのどうしようもない孤絶感と罪責感とを紀子は抱えながら鞍村に促されるまま落ち着く場所を探るかに見廻せば、室内中央に四つ細長い折り畳み式の机が置かれていてその両サイドに向かい合う形に六脚ずつ計十二脚のパイプ椅子が配置され、前回のように車座にパイプ椅子を配置したどこか儀式張った雰囲気ではだからなく、町内会の備品の湯呑みも茶菓とともにジャーの脇に用意されて万端整っていつでもはじめられるという構えで各自すでに席に着いて待機しているから町内会の会議の最中とも思える雰囲気で、十二脚中埋まっているのは五脚のみであとは空席だが戸惑うのも無理はないと田尻は思いつつその顔触れをひとりひとり順繰りに紀子が辿っていくと、その祖母の脇に控え目に坐す朋子の姿を見出し、その祖母にも増して小さく見えるのをいくらか気に掛けつつも「来たんだ」と声掛ければ「うん」と小さく頷き、次いで紀子の背後に控える半透明の恵美の霊にコクリと小さな辞儀をする。そのふたりの間に開るように朋子の祖母は席を立つと、素速い身熟しで紀子の手を取って年寄りとも思えぬ力で強く握り締めて礼を言うのに「礼ならマリア様に」と逃げれば「どこです? マリア様」と虚空に呼び掛け、気配を感じてかそのほうに顔を向けて眼を懲らすがまるで焦点が合っていないし両手を伸ばして虚空を掴むその動きは目隠しでもされているようで滑稽さは拭いようもなく、あからさまに笑うことはしかしできぬから皆視線を逸らして笑いを怺え、それを見兼ねてか「ほらそこお、眼の前にいるじゃん」見えないのかと的確に朋子が指摘すると、幾度か煙を払うような仕草をしてから落胆したように「見えんよ」と朋子の祖母は嘆き、眇めた視線を虚空に残しつつゆっくりと自席に戻るその背にそっと紀子は右手を添えて「そのうちきっと見えますって」と言いながら知恵美ならその発した言葉は忽ち現実となるのにと思い、自身のその偽善に嫌気が差して座礁したように凹んでいくのを強く意識しつつ鞍村の進行で小セミナーがはじめられればそうも言ってられず、無理から伝道師モードにシフトさせると駒井からレクチャーされた恵美=マリア=皇太后礼讃の辞を常より低いテンションだが何とかこなし、朋子のことで事前にどれだけ話し合われたか知らないが皆のテンションはそれでも下がることなく、何もかもマリア様のご加護に他ならないとその祈りにも一層熱が入るが祈る間も祈りを終えても一仕事終えたとの実感もなく、ただ非常な疲れを覚えただけで自分は一体ここで何をしているのかと紀子は瞬間現実を見失い、総ては明るすぎるこの室の違和感のせいと思う。

朋子はしかしこの場の雰囲気をそれなりに気に入ったようでその祖母の導きか知らぬがすっかり溶け込んでいるように見え、というのもここは朋子にとって下の帽子屋とともに子供の頃に頻繁に訪れていた懐かしい場所なのらしく、鞍村とは面識ないと思うけど居並ぶふたりの老婆には覚えがあり、えと、横野さんと桝居さんてったっけ、確かに見覚えあって寄合いだか町内会だか知らないけど出席する祖母に連れてこられたときに何度か見た記憶あるし、こうやって三人居並んでんのとか見てると嘗ての延長のようにもなんか思えてきて、それだけじゃないけどこれが紀子の言うようなカルトな教団の秘密な小集会とはもひとつ思えず、っていうかここ来た瞬間そういうややこしいことは全部吹っ飛んじゃってただひたすら懐かしいってガキみたいにテンション上がっちゃったからそういうのはどうでもよくて、いやどうでもいいってことはないけどほとんど眼中になくて、何でか分かんないけどエネルギー充填されてるみたいな、凄っごくリラックスできるっていうのかアロマかなんかヤってんのかって一瞬疑ったけどそうじゃないみたいで、なんかカビ臭いしね、純粋にこの場所のパワーかなんかで、っていうかやっぱアレなのかなとか思ったりするけどそんときはもう懐かしさにどっぷり浸ってるみたいな、だって何年振りなのよここ来んのってええと十五年だっけか、違うよもっと、えと、二十年くらいになるよ多分、それなのに変わってないんだもん全然ここさ、驚くよそりゃ驚かないほうがどうかしてるって、でも何で急にこんな元気なのかコレってなんか変、ゼッタイ変だっておかしいよ急にと自身その急変に戸惑いながらも存分それに浸りきり、なぜこうも変わらずにあるのかそれがしかし何より朋子には不思議で、眩暈したように席に着くとその変わらぬ何かを突き止めようするかに何度も何度もグルリを見廻し、そんなときにほら藤崎が来たからなんか調子狂っちゃって、もひとつ噛み合わないし何も藤崎言わなかったけど変な眼で見てたからやっぱ迷惑だったかなとか一瞬思って、いやそんなことないってすぐ思い直したけどそれもこの場所のパワーかとそう朋子は思い、自身逃避と知りながらも回避行動としてはこれもアリだろうし案外近道なのかもしれないとノスタルジアに沈潜するかに「全然変わってない」と屈託なげに言うのだった。

誰が促したわけでもなく自分から喋りだしたこの建物に纏わる朋子の昔話に最も関心を寄せて熱心に耳傾けていたのは半透明の恵美の霊で、それが余計刺戟したかしてほとんど半透明の恵美の霊にのみ朋子は話し掛け、その対話だか独話だか峻別不能な話しぶりに鞍村は訝しげな視線を投げながら続けさせたものか押しとどめたものか迷い、とめるなと眼顔で紀子はそれを制して聞く振りしつつ皆で観察的に窺っていると不意に朋子は立ち上がって室の隅に行き、一点を注視してその前にしゃがむと「わあ、まだあるコレ」と壁面を指差し示し、何かと皆が首を巡らすなか興じてスイと席を立って「何なに?」と滑るようにその背後に半透明の恵美の霊は立ち、それに気づいて振り返りつつ「ほらココ」と指示された場所を覗き込む半透明の恵美の霊の反応はしかし曖昧で、それが何かはいまいち分からないから「何?」と紀子が訊けば何か知らぬが引っ掻いたような跡が幾筋もあると半透明の恵美の霊は首を捻り、それがどうかしたのか何の跡かと次いで朋子に訊けば刃物に興味を持ちはじめた頃に「うまいうまいとか言っておだてられて」調子扱いて彫刻刀でつけた跡だと説明しながら補修もされぬまま残っているその汚れた壁面を朋子は間近に眺め、労るようにやさしくその削り跡を指でなぞりつつそのとき誤って指を切ったことをふと思い出し、思い出したことは総て言わねば気が済まぬというようにどうでもいいことを延々喋る朋子に正直皆辟易していたが、半透明の恵美の霊が「それでそれで」と先を促すからやめろとも言えないのだった。左人差し指の爪脇辺りを彫刻刀で深く抉り取ったように自身感覚していたが実際には薄皮が剥がれた程度で出血もほとんどなく、大した傷じゃだから全然なかったんだけど痛みと僅かながら滲む血に動転して泣きながらこれで死ぬんだと恐怖したことをも朋子は思い出し、それが例の件とダブって一挙にそこに引き戻されそうになったから一瞬焦り、その一瞬の沈黙が皆の注意を惹きもして訝しげな視線に絡め取られてふりだしかとかなり凹むが、そのとき巧いこと「それでそれで」が入ったから「そう、それでね」と次の言葉を絞りだせたんだけど、ギリギリ切り抜けたって感じでほんとヤバかったしそのそれでそれでにだからかなり助けられたって感じで、でなきゃまた逆戻りだったとその絶妙の相の手に朋子はマリアの導きを目の当たりにしたように思いもしたから非常な慰安を覚え、そのそれでそれでが身の内にあるサビを確実に落としていくような酵素の働きで頑固な汚れも落とすみたいなイメージとか喚起して、っていうか私のエキス吸い取ってる河馬井菌を着実に殲滅していると朋子は思い、ただ話してるだけなのにその何でもない相槌がなぜこうも奥深く響くのかがしかし不思議で、これがつまり信仰ってことなのかとその瞬きする間にも消えてしまいそうな朧な姿に話し掛けながら漠然と朋子は思う。

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