馴染みのある声に耳傍で「紀子紀子」と呼ばれて目醒めるが運転席に田尻の姿はないし助手席に半透明の恵美の霊の姿もなく、どこへ行ったのか自分ひとり置いて小セミナーに行ってしまったのか、今頃ふたりで信者らの拍手喝采を浴びているのか、自分はその伝道師としての能力を疑われ見限られてしまったのかと一瞬紀子は悲観するが、気配に横を見れば後部座席のドアが開いていて外に立って小腰を屈めて心配げに覗き込んでいる田尻と半透明の恵美の霊の視線とぶつかり、自分の目醒めるのを待っていたのだと紀子は把握するがその思惟をまで逐一覗き見られたかに狼狽し、とりあえず何か言わねばと「寝てた?」と訊けば「うんちょっとね」との答えで、背凭れから半身を引き剥がしながら「どこ?」とさらに訊けば「えとほらあの何とかさんて」との分からぬ答えに「いやあの麻那辺んとこです」と田尻が補足し、それで総てを諒解して紀子が車を降りると「ほらあすこです」と斜向いにあるアパートらしき建物を示され、「あんまり時間もないですから」とマネージャーらしく言って田尻は促す。気を揉むふたりを他所にスヤスヤ居眠っていたのかと思うと田尻にその意があるとは思わぬながら何かそれを譴責されたように紀子は感じて「ご免なさい、なんか」自分だけ楽してるようでと詫びるが、謝られた田尻のほうが却って恐縮して「そんな全然気にすることじゃ」ないし移動の間充分休んで次に備えるのはむしろ必要なのに自分の雑な運転に加えて声高にマリア様と話してもいてよく眠れなかったのではと詫び、そのようにして互いに自分こそと譲り合っているうちに、ものの三、四〇秒で部屋前に至ってしまって気持ちの整理はつかないし睡眠のほうに半分方意識も置いたままだしとその緊張は一気に昂じ、凝固したままドア前に立ち尽していると背後から腕が伸びてきて脇のチャイムにスルスルと伸び、一本だけ真っ直ぐに伸ばされた節々の太い人差し指が四角なボタンを押し込めるとピワンポヲンとチャイムが鳴り、田尻によって鳴らされたそのチャイムのひどく歪んだ音が不快というのではないが昂じていた緊張をさらにも高め、体ごと振り返ると半透明の恵美の霊と並び立つ田尻に向き直ってくれぐれも「真希さんの件は」とそれだけ辛うじて念押しながら田尻を一歩下がらせると、ひとり紀子はドア正面に立って麻那辺の出てくるのを待つが、いくら待っても出てこないし立て続けにチャイムを押しても出てくる気配は一向にないから「いないのかな?」と半透明の恵美の霊が言う。平日の昼時だからいなくても不思議はないがなぜか直感的にいるような気がしたから「見てみよか?」と半透明の恵美の霊がドア突き抜けて中を覗こうするのを紀子は制し、しばらく待って再度チャイムをピワンポヲンと鳴らすとドア向こうで不意に気配が立ち、半透明の恵美の霊の「いたっ」との低い呟きで三者に緊張が走るが錠が開けられゆっくりと開いたドアは十センチほどの隙間しかなく、それ以上開かないのはチェーンが掛かっているからで、不意に訪れた見も知らぬ男女二人組に不審を感じるのは当然だろうし後ろに控える田尻の身に纏っている淡グレーのスーツに紀子の派手ではないが明るめのピンクのツーピースという辺りの、それなり営業マンか何かに見えないでもない装いから警戒しているのかもしれず、まずその不審を除かねばならないがそれにはこっちの身分を明らかにせねばならず、紀子の現在所属している唯一の団体はしかし『神聖チエミ教』に他ならないからそれを告げれば尚更不審を煽ることになるはずで何と切りだせばいいのかその端緒が掴めず、本業のグラフィックデザイナーとしてはほとんど失業状態だし仮にそれを示したとしてもいずれ教団との絡みで説明せねばならないのだから何の脈絡もないし却って混乱を招く怖れさえある。宗教絡みとはいえ用向きは勧誘じゃないから卑屈になることはないし吉岡から教団のことを聞いているかもしれず、吉岡と結託していたらアウトだがそうでなければ話くらいは聞いてくれるかもしれないし巧くすれば何らか情報が得られるかもと紀子が身を乗りだしたところでドア向こうから顔もよく現わさぬまま「今忙しいからまたにして」と投げつけられてすぐ閉められてしまい、まだ何も言わぬ先からそれはないだろうとそのあからさまな拒絶を示すかに施錠の音が虚しく響くのをひとりじゃ受け止めきれぬとでもいうように悲痛な面持ちで振り返れば、煙に燻されたように眼を細めつつなかば不快を露わにして「感じ悪いですね?」と田尻は身を乗りださぬ勢いで、その二の腕に紀子は両手を添えると田尻の上せを吸熱するかに軽く押し遣りながら「あなたが出たらややこしくなるから」と脇で待機することを厳命して半透明の恵美の霊とともにひとり紀子は再度ドアに向かい、このまま引き下がるわけにもいかぬとも一度ピワンポヲンと鳴らすが出てくる気配はない。ただ吉岡の所在を知りたいだけなのにと紀子は中にいる麻那辺に呼び掛けるかに思念し、時間は取らせぬから出てきてくれとさらに思念で呼び掛けつつその警戒振りがただの見知らぬ訪問者へのものとはどことなく異なっているように感じられもしたから何か知っているのかもしれないと尚更引けなくなり、待つほどにその思いは強くなって五分粘って再度開けてもらったときには知ってるに違いないというふうになっていたが「えっ誰だってえ?」と鬱陶しげに麻那辺は言い、胡麻化したって駄目なんだからと「いやあのだから吉岡さん、知ってますよねあのほら以前工場で、ご一緒だったとか聞いたもんですから」と直截に紀子が訊けば「ああ吉岡ねえ」とようやく話が通じたらしく一度ドアを閉じてチェーンを外してから再度開けるとサンダル突っ掛けて出てきて「吉岡がどうかしたの?」と訊き、一週間は着たままに違いないと思うようなTシャツに短パンというその姿に呆気にとられて答えられないでいると「あ分かった」と手を挙げて制して「金持って逃げたとか、そうだろ図星だろ、いつかやるってオレ思ってたんだ、よかったあいつに金貸してなくて」と強ち外れてもいない微妙な線を突いてくる。
どこまで事情に通じているか知らぬが何某か知っているのは間違いないと紀子は確信して「いえあのそうじゃなくて」所用あって話がしたいのだが連絡取れないのだと告げ、知っているなら連絡先を教えてはもらえぬかと訊くといくらか逆立った固そうな髪を右掌と左掌で交互に撫でつけながら「そうねえ、どこだったかなあ」と勿体振った口振りで、ああと何かを思いだした素振りを示すが「あんた彼女か? もうやったの? あいつよかオレのが巧いよ」と問いには答えず、「ちょっと上がってかない? も少ししたら思い出せそうな気が」と腕を伸ばしてきて、危険を感じてというよりその不潔な汗臭さに紀子は半歩飛び退きながら知っているのかいないのかそれだけでも答えてくれと強く言えば嫌らしい笑みを浮かべつつ最近連絡がないとようやく答えて「こっちのほうが知りたいくらい」とそれは嘘ではないらしく、何の手掛かりもなく無駄足に終わるがどうにも去りがたく茫とその場に佇んでいると「それよかちょっと上がってかない?」としつっこく身を擦り寄せてきて、それを押し返すこともできずに戸惑っていると麻那辺と紀子の間に身を滑り込ませながら「あんたさ、真希に何したんだ?」と不意に田尻が言いだし、「ていうかやったんだろ、なあ?」と詰め寄って手こそ出さぬものの返答次第ではそれも辞さない勢いだとの素振りで身構えれば、邪魔臭そうな暑苦しそうな蹙め顔で「あん? 何のこと?」と髪掻き上げるその態度が気に入らぬというように「何を好きこのんでこんなヤツと」と田尻は舌打ちして不快げに睨めつける。その想像裡には淫らな像が展開されているだろうと思うとこれ以上放置すれば田尻がヤバいからもう限界と判断して背後から抱きかかえるようにしながら「何でもないです失礼しました」と取りなして帰ろうとする紀子の背中に「ああそういや何か箱預かったっけな」と麻那辺は呼び掛け、その一撃で完全に紀子はやられて「え、箱ってどんな?」とその不潔な汗臭さも忘れて間近に迫れば「木の箱だよ確かこんくらいの」と二本指でサイズを示し、それが知恵美の桐箱とほぼ等しいのに紀子は間違いないと確信して「それどうしました、今もあります?」と訊けば「もう返した」とのことで、「それよかさ」と話頭を転じようとするのを押しとどめて「何が入ってるとか訊いてません?」と問い糺せば「知るかよそんなの」ただ預かっただけだからと素っ気なく、それでも何か気づいたことはないか「何でもいんです動いたとか音がしたとか、いやあの例えばですけど」と執念く詰め寄ったのはこの機を逃したらあとはないとの焦りがあることも確かだがその素っ気ない態度がどこか嘘臭くて核心を突かれるのを怖れているかに思えたからで、実際その問いを聞いた瞬間麻那辺はいくらかたじろぐふうで「箱が動くかよ」虫でも入ってたのかと胡麻化そうとするが、口元に薄く浮かべた笑みは硬直していてその嘘が露呈しているのが分かる。自身そのことに麻那辺も気づいてか「でもほらなんか気色悪いじゃん」と吉岡の両手を仔細に観察したらしいのだが指はちゃんと全部揃っていたから安堵して預かりはしたものの一旦懐いた不安はそうは拭えぬから触れることもできなかったし「何入ってるかなんて怖くて」訊けなかったと尤もらしいことを言い、それなり辻褄は合っていなくもないが信憑しきれるものではないし、いや、嘘に決まってると紀子は根拠もなくそう思い、そうとすればそれは何かを隠蔽せんがためだしその何かとは知恵美をおいて他になく、ある期間ここに確かに知恵美はいたと思うと不在というその無限の隔たりがいくらかなりと短縮されたような気がして着実に自分のほうに手繰り寄せていると紀子はその延長上にある再会を想像して嬉しくなり、一方でしかしこの先ずっと擦れ違い続けることのそれは予兆なのかもしれぬとの危惧を懐きもし、恵美のようには楽観できぬから最終的に危惧のほうが優勢となってそれは紀子を揺さ振り、知恵美との交信を為し得たとの最前の確信がグラついたというよりは現実に知恵美との再会が果たされねば自分の救済は完成しないのだとの思いに囚われて交信の無意味を思い、何かそれを裏づけるためにこそ麻那辺が現れたようにさえ思えてくるのだった。そんなことあるわけがないとしかし紀子は否定してその危惧を振り払うにはもっと詳細な情報が必要とその滞在期間がどれくらいなのかそしていつここを離れどこに運ばれていったのかそれに吉岡以外の者が介在していないかと矢継ぎ早に紀子は問い掛けるがどれひとつとして真面に答えは返ってこず、というよりその立ち入った問いに麻那辺はなかば苛立ちを露わにして「そこまで答える義務ないと思うけど」とドアに背を凭せ掛け、その退屈したような身振りにもう帰れと言外に示しつつ「そんな大事なもんならちゃんと仕舞っとけよ」と要らぬ説教までされて腹を立てたのはしかし田尻のほうで「そういう言い方ないだろう」と食って掛かるのを紀子はまた背後から抱え込んで脇へ押し遣って麻那辺の発言にか田尻の失言にか「すいません」と一言詫び、こんな奴に詫びることなどないともうほとんど喧嘩腰の田尻の物言いに切れたのか麻那辺は凭れていたドアから起き直って一歩前に出ると「ていうかさあ、あんた失礼だよ」と田尻の胸元を軽く小突いて挑発し、紀子にそれは明らかにゴングと聞こえ、双方とも肉体派という感じではないが一旦始まれば紀子に止められようもないから何とか回避すべく取りなして引き分けると再度麻那辺に詫びを言い、頼むから混ぜっ返すなときつく叱って「すいませんつい」激昂したと田尻もともに詫びる。