半透明の恵美の霊の恵美=マリア=皇太后の何が朋子を勇気づけたのか、もひとつ紀子には分からぬが僅かながら回復の兆しの見えたことに、その介添えなりとできたことに少なからず歓びはあって今後も時間の許す限りは「夜んなっちゃうけど」訪れたい旨朋子に告げれば、ひとり閉じ籠もってると鬱ぐばっかだから「来て来て、マリア様もね絶対だよ」との快諾を得て半透明の恵美の霊とともに紀子が頷くと、しくじったというように首を竦めて「あそっか二人は一心同体だっけ」と照れ笑いつつもその半透明の恵美の霊を見つめる強い眼差しに信者らの恵美=マリア=皇太后を拝する眼差しと同質のものを見たような気がし、いずれ入信するだろうとの予感めいたものが掠めるが紀子にそれはさして問題でもなく、入信するしないに関わりなくリスタートする朋子を確と見届けたいということで、絶対に消えぬだろう河馬井の刻印とどう折り合いをつけるのか、しかも知恵美の灼かな霊験なしにということが自身に即してみても最大の関心で、被験者扱いしているようでしかしいくらか気が退けるものの紀子にしても切実な問題だからこの際勘弁してくれと内心詫びつつ「電話するね」と腰を上げたのだった。とはいえどれだけ多くの人を信仰へ導いたとしても自分だけはそれに乗り切れないとの思いが紀子にはあり、しかも日増しにその思いは強くなって小セミナーの巡歴を重ねるごとにそれは更新されているとあるとき気づくが、重なる疲労に上乗せするというよりは全然別種の疲労が同じだけの荷重で伸し掛かってくるというそれは感覚で、そのように乗算された疲労にさらにひとつ別種の疲労が追加されたように紀子は思い、その過重に潰されそうになりながら自分だけは救われないのだと紀子は思い、どうかするとそのような悲嘆に落ち込んでしまうのも知恵美の不在が根深く巣喰っているからだしそれがある限りこの先も度々このように落ち込むことは続くに違いなく、リスタートに向けて浮上しはじめた朋子を眼にしただけに尚更その思いは紀子を沈み込ませ、そのせいか二歩前を行く半透明の恵美の霊が街灯に青白くその輪郭を常よりもクッキリと浮かび上がらせてはいるものの全体影のようにも淡く虚ろで捉えがたく、マリアとより霊と呼ぶに相応しいその青白く縁取られた淡い像を唯一の頼みにそのあとに従いながら、ウソ寒い夜道が尚一層暗く沈鬱に延々と果てしもなくどこまでもずっとずっと続いているかに思えてきてこのまま自宅には辿り着けぬのではとの馬鹿げた思いがふと兆し、自分ちが分からなくなるほどの方向音痴ではないしこのまま道なりに行けば確実に自宅マンションに辿り着けることは分かっていながらなぜかそんな気がして紀子は急に怖くなり、泊まっていけとの誘いを辞したことがひどく後悔されるが夜分急に訊ねてそのまま泊まるなどできぬし断わるのが常識だろうし況して終電を過ぎてはいなかったから尚更で、あと五分もすれば自宅と思えばしかしなんてことないはずなのだが痴漢に遭うだの暴漢に襲われるだのいう現実的な恐怖ではないからか自身の想像の許す限りその怖さは無限に肥大し、とはいえそのような非現実的な妄想よりも現実に起こり得る可能性にこそむしろ恐怖すべきなのではと自身の感覚の狂いを非理性への顛落に直結する契機といくらか紀子は危惧しながらも眼前のそれに対処するのに手一杯でその妙な具合のズレを補正する余裕もなく、一心にというか無心にというか唯一の頼みの半透明の恵美の霊に縋るように、さらにはそこから通じているはずの知恵美に祈るように歩き、それが不意に街灯の光から外れて掻き消えるように視野からいなくなったから迷子にでもなったかにドキリとし、次の瞬間スポットでも浴びせられるかに茫と浮かび上がるのをオバケみたいと思いながらその同語反復に気づくこともなく、安堵とともに歩速を速めて横に並ぼうとするが滑るように前を行く半透明の恵美の霊との距離は全然縮まらず、そのたった二歩の距離がだから無限の隔たりにも思え、二度と見失うまいと懸命に追い縋りながらもそこには永遠に辿り着けぬような気がしてさらにも紀子は恐怖する。パニクってきているとの自覚はありながら巧いことそれを収められずにただ黙然と歩き続け、そろそろ着いてもいい頃合いなのに一向到着しないからもう駄目なのかと錯乱しそうになって元の世界とは違う別の世界にシフトしてしまったのかと通俗SFめいた妄想にまで発展し掛かるがそこまではリアリティーの面で落ち込むことはなく、その癖眼前の青白く縁取られた淡い像の存在というか非存在は信じて疑わないのだから我ながら矛盾していると紀子はいくらか常の自分を取り戻し掛けるが、そのうち雨が降りだして指先についた水滴を弾く程度のそれは小粒なもので、素肌に当たるその一粒一粒を正確に数えられそうなほどの、その気になればよけられそうなほどの雨なのにも拘らずその一粒一粒の衝撃がごつい槌のそれにも等しく感じられ、その臨界の近いのを紀子は強く意識しつつ回避する手立てもないまま止まったら死ぬとでもいうように一向に辿り着かない自宅マンションへと急ぐ。