その名を口にするのさえ嫌悪してか一貫して「あの男」と朋子の言う河井がそのように卑怯な手を使って罠を張り巡らしておきながらその作為を捨象し、そこに落ちたのを何か合意でもあるのように言う「あの男の神経って」狂ってると朋子は断言し、同意を示しこそせぬが否定もしないのは朋子を気遣ってというのではなく紀子も同じ認識だからで、その顔面に付着した唾液なり精液なりが今尚残存していて拭っても拭っても消えぬというかの不快感にしてもある意味で紀子にも共有のものだから通底するものはやはりあるとの思いを懐きつつその朋子の吐き気に同期するかに紀子も不快を眉間辺りに僅かに示し、口内まで上がってきたゲロを再度押し戻すかに酸っぱい顔で唾を飲み込むとさらにも不快に顔面強張らせて嘗められた部位を「この辺り」と示しつつそこに着床した河馬井菌としかいいようのないものから河馬井が直接ウニョウニョと生えてくるって気色悪い夢を幾度見たかしれないが、いや、夢だけじゃなくて覚醒時にも下手するとそんな気配を皮膚表面に感じることもあったりするから症状はむしろ悪化してるみたいで、何か自分が自分じゃなくて単なる菌の培地と化したかのような思いに捕われもして、放っとくとどんどん怖いほうに流されちゃいそうな気さえしながら何の対処もできず、周りにはだから随分迷惑掛けたみたいだけど今はそれでも「大分マシんなったけど」油断してると出そうな気配はまだあって皮一枚下に菌糸が張り巡らされてる「って感じでなんかさムズムズすんだよね」と朋子は幾分荒れた肌合いの頬に両掌を宛って何もないのを確かめるかに撫で摩り、いくらか安堵したように両掌を離すとミニ卓の端っこに軽く添えるというより指先だけ引っ掛けるようにして置き、すぐに自重で膝の上に落ちてしまうが再度引っ掛けることはなく膝に置いたまま問い掛けるかの視線を寄越し、そこまで行くとしかし紀子の理解の埒を越えてしまうからいくらか相槌もぎこちなく明らかに困惑しているのが見て取れもしたからこの皮膚感覚が伝え得ぬ感覚なのだと朋子は知り、分かってもらうべく尚も突き進むって手もあるがこれ以上に困惑させるのはむしろマイナスと独り善がりの言説はそこで切り上げて一息つき、膝の手を脇に廻して後ろ手に体重掛けるようにして身を退けば、次は自分の番かといくらか紀子は焦って言葉を探すが急に振られても何の用意もないから他愛なく同じ手口と頷きつつ示すことしかできず、それが如何にも情けないが掩護を求めるかに左後方へと首振り向けてしまいそうになるのだけはしかしギリギリ抑えつける。そのようにしていくらかなりと自分を抑えることができたのはそれなりに同意を得られたからで、総ての鬱積を吐きだしたってわけじゃないにしろ共有する部分があるとの確証を得られただけでも随分楽にはなったしそれまでの妙な気負いも抜けて総ての筋肉が二割ほど弛緩したような気がし、そのヘナヘナした脱力具合が心地いいのか悪いのか自身分からぬながらも端的に来てもらって好かったと朋子は思い、時間にして一時間にも満たないが濃いい内容に疲れたというように等しく脱力している紀子をミニ卓向かいに捉えてそこにお座なりじゃない真摯な対応を見出しもして嬉しくなったことも確かで、それに自足することで良しとするわけでは全然ないにしろ今だけはこの嬉しさに浸っていたいし少なくともそうする権利が自分にはあるんじゃないかと思い、誰が認めなくても眼の前の藤崎が認めてくれるとそう朋子は思い、なかばその歓びに浸りながら一方でしかしこれを端緒にこの苦境から脱するとか全的な慰撫に至るとかいうような期待は全然ないしその可能性すら信じてはいないから、その歓びのうちに紛れるようにして暗い翳りの秘められてあることも朋子は把握していて、茫洋として捉えがたいのに確かにそれはあると痛切に感じるどこか生理痛にも似たその不快感はだから常に基底部に蠢(うごめ)いていてその神経なり精神なりを徐々に蝕んでいるのを強く意識してもいる。それが朋子の表情を笑顔とも憂い顔ともつかぬ捕えどころのない無表情に近いものにさせていて自身何となく気づいてもいるが、無理に笑みを作ろうとしないのは無理すれば翳りのほうが表出しそうだしそうなったらまた一段底が抜けたりとかすんじゃないかってなんか怖いし、鶴瓶じゃないけど笑ろとけ笑ろとけ笑ろとったらええねんってわけにもだからいかなくてどうにも中途半端でどこにも落としどころなく、嬉しいのにも拘らずそれが変な具合に内的にも外的にもいびつに歪んでしまうのを朋子にはどうすることもできず、いい加減藤崎も訝しげな眼差しでこっち見てるからどうしようとか思ったけど今笑っても引き攣ったりとかしそうで却って硬直してしまい、これ以上の長居は却って負担のようだし所期の目的はそれなり果たせたようにも思うから改めて出直すことにして「あんまり遅くなってもアレだからそろそろ」と帰る旨紀子が切りだすと異常なほどの狼狽を示して「ええだってまだ全然ほら」と引き止められ、それを振り切るだけの勇気はないからも少しだけと坐り直すが、あの男への憎嫌悪を煽ったところでこっちが疲弊するだけだし「割合わないからもう」止そうその話はと切りだせば「そうなんだけど」と同意を示しつつも納得いかぬげなのは僅かに引き伸ばした「けど」の余韻に明らかで、それを禁じられたら他に話すこともなくなってしまうからだがその言うところはよく分かるしなぜか知らぬがまだ帰してはいけないような気もしたから随分蟠りは残ってるし言いそびれたこともあるが素直に朋子はそれに従ったのだった。
すっかり温くなってしまったお茶に手を出したのは端的にその禁じ手のせいで間が持たなくなったからで、それでも渇きを感じていたことは確かだからその中途半端な温さもさして気にはならず、一息に飲み干したらしかし間繋ぎの用を為さないからゆっくりと少しずつ啜り込んで咽喉を湿しつつ「濃いねコレ」と何とはなしに感想を言っただけなのに「濃いのダメ?」と答えも待たずに替えてくると朋子が立ち掛け、何だか文句つけたみたいで嫌な客になってると気が退けたから「いいっていいって」と席に着かせるが、時間稼ぎとしても流れを変える意味でも一旦座を外さしたほうがこの場合むしろ好かったのだと紀子は気づき、朋子もそれを狙っていたとすればえらいしくじりだと凹むがすでに遅く、浮かした腰の持って行き場を探すかに立て膝を維持したまま「え、ああ、そう、うん」と視線を泳がせつつ朋子は言い、再度クッションの窪みにスッポリと尻を嵌め込みながらその一瞬乱れた空気の隙間を縫うようにして不意に「さっきからずっとさ、気んなってたんだけど」大したことじゃないがどうにも訊かずにはいられないと切りだし、さらには紀子を飛び越してその背後が気になるというようにチラチラ窺ってもいることからこの先の展開は容易に予想できるが、見えたら見えたでそれは仕方ないにしろズバリ訊かれたとしてなんて答えたらいいのか紀子は一瞬迷う。自分には見えぬで押し切ったとしても見える朋子に疑問は残るだろうしそれが心的に影響を及ぼさないとも限らず、いや、むしろこんなときだからこそ僅かな染みが却って目につくし後あとまで響くことにもなるだろうからやはり何らか説明は必要で、そうかといって朋子は信者ではないからマリアという符牒はそれこそ禁じ手だしそれ自体知恵美を前提しているからやはり説明困難で、不審を懐かせるようなことだけは避けねばならぬがそうなると知恵美抜きに説明することは多分できないだろうからそのときは腹を決めて諄々説くより他ないと紀子は思い、できるならしかし巧いこと胡麻化せればと思惟を巡らしつつ「何?」と返せば「あのね」と言いにくそうに二点間を往復するように視線を泳がせるからやはりそうなのだと紀子は覚悟するが「誰から聞いたの?」と訊かれて「何を?」と何のことか分からず訊ね返せば「いやだからほら私のこと」どこから知れたのか「ってやっぱ気になるじゃん」と朋子は言い、半透明の恵美の霊のことじゃなかったととりあえず安堵しながらも熟慮を要する問いということに変わりはなく、どう答えたものか紀子は迷うが嘘は言えぬからある人から聞いたんだけどそうと知らずに会っていて話を聞いて初めて知ったのだが「お祖母ちゃんなんだ、佃田の」との答えに一瞬朋子は怪訝げに「え、何で? 知り合い? うちのお祖母ちゃんと」と状況が呑み込めず困惑したように考え込み、まるで接点が掴めぬから嘘かとも思いつつすぐバレるような嘘をつくとも思えないから事実なんだろうが、説明抜きではやはり諒解しがたいというように見つめるから「ていうかほら、知ってるかなお祖母ちゃん宗教とか入ってるでしょ」と言うとそれは聞いているがそれと「どういう?」関係があるのかとさらにも疑念が深まったように苦しげに「えええ? 分かんないよ何?」と首を捻るのだった。