一度だけ鞍村は席を立って給湯設備のある隣室に行って皆のために茶を用意して戻るが、その間三老婆は黙ったきりで何も語らずそれこそ置物めいた不気味さで、心霊にはいくらか免疫のある田尻もその生身の不気味さには対処できぬらしく不快げに視線を逸らしているし半透明の恵美の霊もその違和を感じているらしく視線が定まらず落ち着きなげで、それだけに鞍村の素振りが際立って見えるし出された緑茶さえ何か特別な効能でもありそうに思え、異様な空間装置と三老婆という道具立ての前に下手に抗っても無駄と紀子は一先ず伝道師の役を脇へのけて聞き役に徹し、田尻もまた紀子に倣ってマネージャー然と控えて鞍村の喋るに任せ、そのように十全に舞台装置の整ったことを察した鞍村はそれまでの抑制の利いた口振りに変わりはないもののいくらか上気したように口端に溜まる白い泡状の唾液を手にしたハンカチで時折拭いながら教団に対する不審を率直に述べそれ自体知恵美派のような過激な見解ではないにしろ教団内に蟠る不安なり不満なりの湧出に他ならず、放置しおくべきものでもないと紀子は思うのだった。鞍村の言うには吉田時子を筆頭にメシアによって癒された方の話は聞いているし、一度だけだが参加した大セミナーでその淡いが強烈な光を遠目ながら拝見もしているから知恵美=メシア=天皇が「偽物だとか言うんじゃないんです」とその点諒解はしているらしく、殺到する者らの勢いに圧されてすごすごと身を退いてしまったからその折救済を願い出ることは叶わなかったが次にその機会の訪れるのを待ち望んでもいるらしく、メシア=天皇にまみえたのはしかしその一度きりで以後大セミナーにメシア=天皇の姿はなく、その神聖性から気安く人々の前に姿を現わさぬというのも分からぬではないがそれに期待を掛けている信者からすればそのように期待を持たせるよう誘導したのが抑も教団側なのだからそれに答えてくれねば困るし答えられぬというのならそこに何某か責任を認めるべきではないのかと手厳しく、知恵美不在の現在棚上げされたままになっている救済の可能性はその奪還の果たされぬ限りゼロに等しく、その譴責の総ては知恵美を奪われた当人の紀子に集中すべきはずだが不在の事実を秘匿しているため教団が楯となっているような状態で、というより教団を楯にしているというのが実際の紀子の認識で、自身その卑劣に苦しみいっそ総てを暴露してしまいたくなるが紀子自身はそれで気が晴れても教団が危地に追い込まれるのは必至だからそれはできず、苦しみはだから増していくばかりでどうにもしようがなく、恵美=マリア=皇太后が最後の砦でこれを否認されればもうあとはなく、とはいえそれも知恵美の帰還が前提のはずだからどのみちそれをクリアせねばならないのだった。真相を知らぬ鞍村は紀子の苦悩を他所に語を続け、第二第三のメシア=天皇だのマリア=皇太后だのと新戦略を打ち出すのはいいとしても一向救済の果たされぬのに危惧を懐いたのも確かで、それら新戦略に韜晦的な意図が透けて見えるような気もしたからただ待っていたのでは埒開かぬと「先週でしたか、事務所のほうにですね、伺ったんです」と日下に談判した顛末を述べ、連絡も何も取らなかったのは断わられるのを怖れてのことだが運よく日下は出所していて気さくさが信条だからかすぐ奥に通されたのはいいが「知恵美=メシア=天皇のそれが意向なんだから」とにべもなく、そう言われてしまえばそれ以上追及もできないが訊かずに帰るわけにもいかぬから「この世界の救済はどうなってるんですか?」とズバリ訊けば、その問いに理解を示すかに小刻みに頷きながら「着々と進行中です」と日下は即答し、この世界全体の救済ともなればしかしメシアと言えども難事業に違いなかろうから「このところお疲れのご様子でしてね」と渋面を作り、それが如何にも芝居っぽいが日下的身振りの典型でもあるため真偽は量りがたく、続く言葉に注意しつつ聞けば休息も必要だろうと大セミナー列席は控えているのだと告げて「前にも言いましたっけ、メシアに縋るだけじゃなくてメシアを乗り越えるべく努めることこそ」肝要なのだと日下は言い、盲目的に従うだけではだから不充分だし堕落だとさえ付言してこの終末を乗り切るにはそれなり努力が必要と程度の低い熱血教師みたいなことを言う。全体芝居染みているせいかどうにも納得できず、も少しきちんと説明してくれと執拗に食い下がれば、その目配せに追い立てられるかに忙しげに立ち掛けていたのを駒井のほうに待ったを掛けつつまた腰下ろして喋りはじめ、仏は無数存在するがその説くところの教えはひとつとの一仏乗「とかいうんでしたか、私もね詳しくは知りませんが仏教のほうにありまして、こういうのは私なんかより鞍村さんのほうが詳しいんじゃないですか」と下卑た笑いに紛らしつつそれと同一とは言えぬながらも「まあそれに近いものと思ってくだされば」と日下は言い、何もメシアがひとりでなければならぬ必然性はないし一旦メシアが顕現すればそれで総てが完了したかに思うのは「如何にも短絡じゃないですか」とそれ以後の祈念にこそ真の救済があるんじゃないかと言われてなるほどとその場は丸め込まれてしまったが思い返すたびどこか腑に落ちず、私らは救済されるのかされないのか、いやそれ以前にこの教団における救済とは何なのかその定義がいまいち分からぬし、メシアの顕現とともに教団はその本質を「私自身も含めてですけど」見失ってしまったようにも思うと鞍村は言い、この機会にきちんと伺って理解したいのだとその柔らかな眼差しで紀子を見つめるのだった。
紀子にそれが答えられようはずもなく、救いを求めるように自身に向けられた鞍村の視線を田尻のほうに流しやればそれを受ける形で田尻は口を開くもののそれに答えることは田尻にも厄介らしく、何を以て救済とするかというのは難しいが教団に統一見解というものはなく、各人がそれぞれ思い描く救済が即ちそれなのだと曖昧で、いやその総体が教団としての見解でとかそれがまた各個人へとフィードバックされてとか、幾度も言い直しながら結局何も言い得ずして口籠ってしまい、一瞬空調のモーターが高鳴ったような気がするがそうではなく、皆の沈黙に際立って聞こえただけで回転音は変わりなく静かで、送風口に向けていた視線をゆっくりと巡らしつつ車座に坐って俯き加減の眼前の顔を紀子はひとつひとつ順繰りに眺め渡し、半透明の恵美の霊から田尻を経てその差異を見分けにくい三老婆でいくらか停滞したのち鞍村に至るが、ひとり上品さを纏ったような鞍村がこの場にはやはりどことなく不似合いだというのがそのようにしてひとりひとり比較することでよく分かり、その原因は何かと最前聞いたその被爆体験をも加味しつつさらに追求せんと注視しているとその視線と唇が動いたから何か言うと紀子は身構える。軽い咳払いで鞍村は発話のタイミングを計ると最前の田尻の支離滅裂な説明にあからさまな反発を示してというのではないものの「そういうことではなくてね」とその不備を僅かに顰めた眉にのみ示して、というより他の部位は巧みに隠し果せたがそこだけはどうにも意のままにならぬというように顔の中心部に向かってほんの数ミリ程度にすぎないが顰められた眉に直接的には田尻の言説への総体としては教団上層部への反発が露わに露呈され、少なくとも紀子にはそう思え、この場に不似合いながらも維持されていた上品さを一見それは破綻させたように見えなくもないが全体としてその上品さは保たれていて、その僅かな逸脱が却って上品さを際立たせていると紀子は思いつつ当人自覚しているか分からぬその逸脱した部位から視線を逸らすと、鞍村はその顰めた眉をゆっくりと常態に戻しながら教理に暗い者を伝道に派遣すること自体理解を絶するとでも言わぬげに田尻と紀子を交互に見返し、祈ることのうちに救済があるというような祈り=救済との図式がいまいち理解できぬと言う。最終的な到達点をつまり救済後の世界像なり何なりを示さずして論を閉じてしまっている循環的なその図式に納得がいかないのらしく、それが今の流行りなのか若者にはそれが受けるのかと訊かれて紀子は「そういうことでもないと思いますけど」とそのズレた問いに何と答えたらいいのか戸惑いつつ唯一の拠り所を喪失したその不安は分からぬでもなく、それを解消すべく打ち出したのが今回の恵美=マリア=皇太后なのだしその行幸なので、それが視認されればその一助ともなって伝道もしやすいし理解も進むと思うのだがそのような徴候はまるで見られず、鞍村はおくとしても不思議な雰囲気を醸している三老婆ならその気配くらい感知できそうにも思うのだが三者ともにそれを感得している素振りはなく、その完全無視になかばふて腐れたような半透明の恵美の霊は不意に椅子からフワリと浮き上がるように離れると車座に配置されたパイプ椅子の周縁をハンカチ落としでもするかにゆっくりと反時計回りに廻りだし、時折ひとりひとりの耳許に口近づけてマリア降臨を囁いたりするのだが、そうまでしても鞍村含め三老婆がその声どころか呼気すら感じぬらしいのに「何なのこの人たちバカにしてる」と切れ掛け、それでもチエミ教の信者かその灼かな霊験を信じることができないのかと叱責とも嘆息ともつかぬ半端な物言いで呟くように言うと真ん中の老婆の体を突き抜けて座の中央に出てその場にしゃがみ込み、「もいいから坐ってな」との紀子の嗜める声と手招く身振りと視線とでその間近にいることを察して皆覗き込むのだが視認はやはり果たされない。