何か急な用事だと八木から言づかった駒井からの連絡を携帯で受けた紀子がセミナー会場へ赴く前にひとり本部事務所へ立ち寄ると、皆会場へと出払っているのか事務所には駒井の他誰もおらず、常の忙しなさに較べて妙にそれが物寂れた感じに思えるからか総てが嘘のような気がし、そう思うと知恵美の存在までが嘘のように思えてくるのを嘘なものかと振り払うように態と靴音を立てて奥に進むと、「藤崎さん」と紀子に気づいて立ち上がってキビキビと歩いてくる駒井のその背後から八木が現れ、駒井ひとりとばかり思っていたから不意に現れた八木に紀子はひどく驚き、駒井を追い越して揉み手で出迎えるその日下に劣らぬ小商人めいた動きと弛緩した笑みが常のものとはいえいくらか緊張気味に構えていた紀子の意表を突いて妙に可笑しく、八木の用件なのだから八木がいて当然かとその短絡を思えばさらにも込み上げるものがあり、声を出して笑いたくなるのをしかし紀子が咳払いに紛らせたのは何らか意図あっての揉み手のようにも思えたからで、でなければセミナーの準備に忙しいときに呼びだすはずもなかろうと少しばかり距離を取りつつ紀子は慎重にソファに腰を下ろす。続いて向かいに腰を下ろす八木の皺深い手の立てるシャカシャカいう夾雑的な擦過音はしかし徐々に紀子の耳に不快に響きだし、空調による温気に弛緩することなく萎縮し強張っていく自身の筋肉を紀子は強く意識しながら八木の言葉を待つが、時候の挨拶やら世間話やらを次から次から繰りだしてなかなか用件を切り出さぬのにさらにも紀子は緊迫してこっちから訊ねることさえできなくなり、浮ついた会話を無駄に喋っていることに限界を感じだした頃、そろそろ会場のほうへ向かう時間だとの駒井の指示を受けて「分かってる」といくらか苛立ち気味に答えてから紀子に向き直った八木はまず深々と頭を下げて「申し訳ない」と言い、何のことだか分からぬ紀子が説明を求めれば「実は」と布教のための宣伝ビラというかポスターを大々的に製作することになったことを告げ、信者らとの共議の折に「専門家がいるんなら専門家に任せろって皆言いまして」とうっかり口を滑らせてしまったことを八木は侘び、一〇〇パーこちらのミスだから「こんなこと言えた義理じゃ」ないのは分かっているがこの埋め合わせは必ずすると言って土下座までし兼ねない勢いだったため仕方なしに紀子は引き受けたのだったが、懸念していた半透明の恵美の霊絡みではなかったという気の緩みからうかうか引き受けてしまったことがあとになって響いて余計な仕事が増えたと気が重く、製作に没入するとしかし蟠りが嘘のように消し飛んだのは制限なしに好き自由にできたからだし何より河井課長の拘束のないのが紀子の手足を身軽にし、却ってその身軽さに布教宣伝用ポスターという準拠枠を踏み越えそうになるのを自身抑えたくらいで、我ながらしかし出来栄えは好く、半透明の恵美の霊の称讃もあっていい仕事をしたとのかつてない満足感を、河井課長の元では半減せざるを得ない達成感を紀子は沁み沁み感じ、これが知恵美=メシア=天皇の灼かな霊験なのかとその淡い光を強烈に浴びつつふと思い、横で同じく淡い光に陶然としている淡い光の乱反射でいくらか透明度が減じて視認しやすい半透明の恵美の霊に「恵美の言ったこと、分かるような気がする」と紀子は言う。
何枚目かの恵美と知恵美のデッサンの最中でのその不意の問い掛けに脈絡を掴めぬらしく「え、何のこと?」と半透明の恵美の霊は言い、眼前にある淡い光の直射と輻射をパステルで写しとりながら「知恵美のノートにさ、書いてたよね、至福だって」と言えば霊的存在のそれが常なのか「そうだっけ、覚えてないな」と半透明の恵美の霊は言い、忘れようとしてしかし忘れることが紀子にできないのはつい四日前のことだからだし以後立て続けに夢での再現に魘されてもいるからで、それを振り払う意味もあって不乱にパステルを走らせているのだがこれといって効果は見られぬし周りは反故の山で、掃除するのもめんど臭いとそのデスク周りに散らかった書類束を隅に押しやって倒れてこないようポートフォリオを立て掛けて衝立にし、そうしてできた僅かな空間に向かう紀子に「やあいたの」などと偶然居合わせたような素振りだがひとり居残っているのを狙い澄ましてのことに違いなく、それだけに紀子を注視するその河馬の眼つきが陰険をよりは好色を示しているのが常にも増して不気味で、徐々に距離を詰めながら鶏でも追うみたいに迫り来るその屁っ放りの妙に不恰好な歩きように紀子は切迫を感じ、それ以上の接近を阻止せんとデスクに向き直るがその程度の拒絶に怯む河井課長ではなく、それでも普段なら項辺りを撫で摩るくらいで引き下がるのだが、誰の目もないことを思えばさらなる行動に出る可能性は否定できないと紀子は身構えるが手が伸びてくる気配は一向になく、不審に横目で窺えば真っ黒い爪を穿(ほじく)りながら「最近さ、変な噂聞くけど実際どうなの?」と唐突に言う。どこから知れたのかは紀子にも分からないが八木や駒井との連絡が頻繁になれば他に漏れる率が高くなるのは知れているし、いつまでも秘匿できると短絡していたわけではないものの、そのメシア志向における好色性が倫理的な拒絶に遭うことはあるかもしれぬが際立って反社会的な異端邪教でもないと積極的に秘匿する意志のなかったことも確かで、ただ知恵美のことが露見するのを紀子は怖れていただけで、それが唯一秘匿の理由なのだが、その予想外に早い露見に噂とはいえ紀子は驚き、この場を基底で支配している河井課長の好色な目論見に対する漠たる不安もあってさらにも紀子は混乱し、それに揺さぶりを掛けるように「カルトなんかに関わってたりするとこっちまでアレだよ、変に思われんだよね」と河井課長は一歩近寄り、「仕事にも差し障り出てくるよ」とさらに接近して「つき合い悪いってみんな零してるし」と言うがその酒の席での譴責の筆頭は河井課長に他ならず、その事実を暴露しようかと紀子は思うが怒らせるだけだと踏みとどまり、その話は後日伺うし説明もすると拒絶的に言えば「今じゃなきゃダメなんだ」と耳許で言われ、その生臭い息がねっとりと顔に貼りつくのを紀子は意識しつつ椅子の背凭れと背中の間に生温い掌がスルと差し込まれるのを感じて思わず「うわっ」と低い叫びを洩らすと、その叫びに呼応するように紀子の背中に密着した河井課長の五本の指は筋を引きながら腰のほうに下りていき、その不快に紀子は身悶えながら黒い爪垢の筋が背中に深く刻まれていくのを何か消しがたい刻印のように思い、前に廻り込んでデスクに肘杖ついた河井課長はその陰険且つ好色な河馬の眼で睨め廻しながら「そのカルトさ、セックス教団なんだってな」と毎日毎日取っ替え引っ替え「オマンコし捲ってんだろ?」と露骨に言い、その好色な下卑た笑いに猶予ならぬと紀子は絶望的に思いながらも逃れる術を探るが、退路は完全に断たれていて逃げることは叶わず、背中を弄っていた生温い掌を腋から乳房のほうに侵入させつつ「オレもさ、仲間に入れてくれよ、何なら今すぐでもいんだ」と言ったそれが最後通牒で、次の瞬間露わになった乳房に河井課長が吸いついているのを眼にしたのが最後の確かな記憶であとの記憶は錯綜しているが、整理しようとすれば嫌でも現前してくるため整理する気にはなれず、手つかずのまま放置されているが叶うなら消去してしまいたいと紀子は思う。
その抑圧下にある限り大成することは絶対にあり得ないだろうし自身をも喪失すると紀子は思い、ふとパステルを動かす手をとめるとただのセクハラオヤジと化した、いやそれ以上に狂暴さを露わにした最早矯正できぬ存在など見限るべきと「辞めよかな会社」と呟き、じっと見据えていた画面から眼を離すと徐ろにそれを破いて丸めて背後に放り投げ、新たな真っ白い画用紙にパステルを置くが描く気は疾うに失せていて、小さな溜め息とともに「ダメだ描けない」と画用紙を卓に置いて閉じるとその上に重石のようにパステルを乗せ、「他に当てとかあるの?」との半透明の恵美の霊の問いに「ない」と紀子は答えるが、宗教じゃ飯は食えぬと思いながらもここに籍を置くことでとりあえずは食い繋げるだろうとの短絡があり、その紀子らしからかぬ短絡に自身驚きながらも現況を鑑みればここより他避難所はないとの判断は一応尤もで、耳障りなシャカシャカいう揉み手で「大歓迎です」と賛意を示す八木のその賛意を素直には受け入れがたいがいくらか安堵しているのも事実で、あとはただ一時も早くその陥穽から脱することだけだが如何にそれを解すべきか自身分からぬながらも信仰なるものに深く連結してしまったことを紀子は強く意識し、引き返し得ぬ地点にまで来てしまっているのではと危惧するが後悔というのではなく、出家ではないにしろどこか世を捨てるという感覚に近いためそれに付帯する俗世への未練や何かなのだと紀子は思い、その境界を越えることができたのも中心で機能している知恵美の存在が緩衝としてあったからで、そうでなければ信仰にこれほど深くコミットすることなどあり得なかったと紀子が言えば、訝しげに「それって感謝してるの?」と知恵美は言い、「感謝してるよ陛下」と紀子は答える。