六畳のリヴィングが一転ヴァニラの甘い香りに被覆されたのはしかし延子手製の新たに焼き上がったサブレが運ばれてきたからで、友梨真希ともに「うわスゴおい」と歓声を挙げて卓に置かれるのを待ち、新たな紅茶も用意されて総て一から仕切直しとでもいうように整えられるとふたりはすぐ手を伸ばすし皆もそれに倣うが、功次ひとりただ傍観するのみで身動きひとつできないのはその転換の早さについていけないからだしこの場のこの状況における自己の役割がまるで把握できないからで、ただのゲストとして一座の末席に連なっているだけの功次にそれはひどく苦だし居心地悪く、そのただのゲストに何某か役を割り振ろうとするかのホスト連の真意が掴めぬから延子の「梳井さんもどうぞ」との勧めにも真面に応対できないが、再三の勧めに断るわけにもいかぬと「頂きます」と功次は中央にアーモンドの乗っているサブレを一枚取って口元まで持ってくるが、手の動きがそこで止まってしまったのは頻りに「美味しい」と褒めながらいくつも頬張っていた友梨と真希の声が不意に止んだのに何げに顔を上げた功次が不自然に自分に集中している皆の視線に気づいたからで、「何か?」としかし功次が言う前に皆の視線は逸らされるし「旨いよ梳井くんコレ」と卓造に言われて機を逃し、何かまた新たな芝居がはじまったような気がしつつ右手に摘んだ色好く焼けたサブレを眺めていると、ふとこのサブレに何か仕込まれているのではとの疑念が兆し、例えば催淫を促す薬か何かが仕込まれていて功次を乱パに引き込まんとしているのかもしれぬと最初の思惑に立ち戻り、やはり何か淫らな行為がこれから行われるのかと功次が一座を見廻せば、皆何か含みのあるような笑みを薄く浮かべている。卓造と友梨の最前の遣りとりも総てがそのため振りと思えば頷けるし、いきなり露骨に仕掛けるのは確かに相手を警戒させるだけだろうからこれは賢明な手で、初っ端の友梨の直截な発言を卓造が窘めたのもそれを危惧してのことと思えば腑に落ちるし全体芝居染みていたのもそのせいなのだと功次は思い、この手で吉岡も嵌められたのかと窺えばそうだと言わぬげな笑みを吉岡は返し、自分がしかしこの展開を望んでいるのかいないのかが今ひとつ功次にも分からず、分からぬながらも手にしたサブレを功次は口に入れて期待とも不安ともつかぬ思いで咀嚼し咽喉を鳴らして飲み込めば、含み笑いで「でど?」と訊いてくる卓造にさらにも確信を強めるが今飲み込んだばかりですぐに効くものなのかと訝り、曖昧に「はあ」と答えるとあとを受けるように「美味しいでしょ?」と訊く友梨に「え、ああ美味しいです」と答えると、こっちのヤツはどうかコレもいけるぞと勧められてどうともなれと次々口にするが甘ったるいサブレに胸焼けするだけで性的昂奮の昂進される気配は一向になく、これで終いなのかと訝りつつ吉岡を窺うと「これが旨いんだ」とにこやかに言って一度にふたつを頬張って旨そうに食べ、本当にこれだけなのかとさらに窺い見るがそれより他言うべき言葉を失ったように「旨い」と言うのみで、これではただの茶飲み話ではないかと何もかもはぐらかされたような虚脱感に功次はグタリと背凭れに全身を預けると「ほら卓さんがあんまりアレもコレもって言うから胸焼けしたんだよ」と友梨が心配げに大丈夫かと功次に訊き、何でもない大丈夫と答えるとほら見ろと言わぬげに「クッキーの一〇個や二〇個で胸焼けするか」と卓造が薄く笑い、その妙な薄笑いはしばらく功次の耳朶奥に残響する。
なぜか妙に気になってその卓造の薄笑いを再度想起すると核心に近づこうとする功次の前にそれは障壁のように開って嘲笑うかに思え、サブレが「甘い」との言もだから符牒めいて聞こえ、初手からいい目見られると思うなと窘められたように思え、そう簡単に核心まで迫ることなどできぬと思えば期待は逆に膨らむし思わせ振りな吉岡の態度とも相俟って一層淫らな妄想に憑かれるしで、全体あれは何だったのかと思い返すたび功次は釈然としないが、あのはぐらかしのうちに何らか意味が込められているとすればその手口は巧妙で、はぐらかされればされるほどその核心に触れずには済ませられぬと吉岡の誘いがあるたび欠かさず出掛けるようになり、出掛けるたびしかし何事も起きないのをフリーセックスとは名ばかりと難じればそんなことはないと吉岡は否定して「みんな精進してる」と言い、おれも精進したいと言えばすればいいと交わされて「そうじゃなくて」と言い募ると「あそうか大セミナーだな」と勢い込んでそうならそうと早く言えと功次は肩を小突かれ、手にしていた串カツを危うく落としそうになる。直前で啣え込むがつけたソースが撥ねてシャツにつき、咀嚼しつつおしぼりで叩くが染みになって取れぬのが妙に不愉快で、なかばしかし諦めてカツとともにビールで流し込むが指は無意識に染みの部分を擦り続けているのを吉岡に指摘され、すぐにしかし話頭を戻して「次の大は確か」と先へ進めるのを功次は訝って「それはちょっと」と濁すと「何で?」とすぐ切り返されて返答に困り、さらなる精進のためには大セミナーに参加するのが何よりと言われては返す言葉もないしそこを通過せねば期待していたものが手に入らぬと言うならば返答はもう決まったようなものだが、酔っているのか妙に艶めいた素振りで「ね一緒に行こ」と多村友梨に誘われてもいまいち歩踏み切れないのは一二〇〇円の金が惜しいからではなく、大セミナーに参加したら最後後戻りできなくなり深みに嵌って抜けられなくなるのではとの不安が一抹あるからで、「心配性なんだから」と明るく友梨は笑うもののこの二択が決定的なしかも引き返し得ぬ岐路と思えば躊躇せざるを得ず、急速に酔いの醒めていくのを意識しつつ「急に言われても」と猶予を乞うても「急もゆっくりもないさ」と怯まず、向かいからその隣に席を移して「また変なこと考えてんの?」と二の腕で功次を揺さぶって屈託なげに笑う友梨の笑いは功次の真面な思考を若干麻痺させ、吉岡と友梨との間に挟まれてその友梨の笑いの幻惑とも相俟って左右からの誘いが功次には果てなく続きそうに思え、二人に押し切られる形で捨て鉢というのでもないがどうともなれと観念して「分かった」と大セミナーに参加することになったのだが、深入りはしかししないと腹に決める。いくらか後悔はあったものの約した以上は撤回もできぬとなかば連行されるように友梨吉岡とともに出向くが、そのホームルームめいた雰囲気に緊張は次第に解れていき、その和やかな雰囲気に眠気をさえ覚えるが、八木の改まった声にふと眼を向けたそこに知恵美の姿を認めたときは「心臓止まった」と功次は言い、しばらく放心して何も考えられないし思考力が回復しても落ち着きを取り戻すことがしかしできずに尚一層の恐慌に落ちていくようなのは論理的思考がまるでできないからで、あり得ないとまず否定することから初めて論理を手繰り寄せつつ考えるがいくら捏ねくり廻しても現前しているものを否定することはできず、この唐突な知恵美の出現は自分を呪うために他ならず恵美のそれは呪詛なのだと功次は思い、その短絡を嘲りつつもそれは否定しがたく功次を捕らえ、皆に遅れまいとしてかすぐ隣にいる友梨が「天子様あメシア様あ」と嬌声を上げるのもその端的な表れとしか思えず、その知恵美に向けられた焦点の定まらぬ虚ろな視線のうちに恵美の尖兵としての様相が覗けてしまい、それからは一切顔を向けられなくなって取り乱さぬよう平静を装うことは辛うじてできたもののいつセミナーが終了したのかも功次の意識には定かでなく、確かなのは数軒呑み歩いた果ての屋台のおでん屋からで、右隣に常に友梨のそして左隣に時折吉岡の気配があったことは朧に記憶にあるものの全体としては断片的な記憶が無秩序に羅列しているのみで、友梨の説明も吉岡の説明もだから功次には他人事のようにしか思えないのだった。
恵美の呪縛からは逃れられぬということを思い知って総てを引き受けるより他ないのだと功次は腹を括り、「何もかも解消したってわけじゃないけど」いくらか平静を取り戻したと締め括るがその場には紀子もいたはずで、自分には気づきもしなかったのかと紀子は思うが一遍会ったきりだから覚えていないのも無理ないかと口にはせず、訊かれるまま自身の来歴を紀子が言い掛けると駒井の「梳井くんちょっと」という声が響き、その一言に弾かれたように立ち上がった功次は一旦行き掛けるが急に振り返って「食事どう?」と飯を掻っ込む身振りとともに言い、訊くだけ訊いて自分が一切語らぬままでは気が退けるし日を置けば置くだけ負い目としてそれは固着すると特に予定もないと紀子は承諾するが「呪ってなんかないのに」と紀子とともに総てを聞いていた半透明の恵美の霊が嘆くのを身振りで宥め賺し、「恵美さんですか?」と駒井に訊かれて「ええまあ」と苦笑する紀子に駒井は妙な目配せをする。その意を汲みとれぬ紀子が訝りつつ駒井を注視していると、指示を与えて功次を退室させた駒井はそこに恵美の霊が座っていないことを確認のうえ紀子の隣に身を沈めて半身を紀子のほうに近寄せながら「その、恵美さんのことなんですけど」と切りだし、次いで虚空に向かって「恵美さんにも聞いて頂きたいんですが」としかし的確に半透明の恵美の霊のいるほうに顔を向けて駒井は言い、また紀子のほうに向き直ると「紀子さんはアレですか、メシア様のお力で恵美さんが顕現されたとお考えですか?」と訊かれて「ええまあ」と紀子が答えると、「それってひとつの奇蹟と見做せるんじゃありません?」と駒井は続け、そのどこか尋問めいた問い掛けに紀子はいくらか警戒して「そうとも言えますね」と答えつつ背後にある八木や日下の目論見を透かし見れば、その実利主義から知恵美のメシアたる証としてさらにはその宣伝に半透明の恵美の霊を利用せんとしていることは明白に思え、「そうなんでしょう?」と逆に問い返せば「まあそういうことです」とあっさり駒井は認め、すでにその線でのシナリオも二、三できているしお披露目のプログラムも組んであると明かし、あとは紀子と当の恵美の霊に諒解を得るだけだと駒井は言う。最後まで秘しておいて済し崩しに容認させることも可能な権力の座にありながら事前に諾否を訊ねる八木や日下の律儀なやり方に紀子は宗教者らしい一面を見る思いがするが、それが手なのかもしれないと一方で警戒は解かぬながらも彼らにそれだけの政治性があるとは思えず、その楽観が心的余裕を生じさせるのか「用意がいいですね」としかし皮肉ではなく紀子が言えば「それが仕事ですから」と揶揄的ではない軽い笑みで駒井は返し、過たず恵美の霊の位置を察知してそのほうを向く駒井になかば紀子は驚きながら向かいに腰掛け聞いている半透明の恵美の霊に「どうする? これは恵美の問題だから、私がどうしろとか言うわけにもさ」と訊けば、「私は別に知恵美のためだったら」と半透明の恵美の霊は言いながら「でも知恵美がさ」とそれについての知恵美の考えが知りたいというのも尤もで、ポシェットから桐箱を紀子は取りだすとテーブルに置く。左手で箱を押さえながら右手で蓋を開ければその淡い光が紀子を駒井を半透明の恵美の霊を等しく照らし、浄化を齎すとの誇大な宣伝に自ら嵌り込んだように眺め入って言葉なく、その沈黙は延々と続くかに思えたが紀子の不意に思い出したような「聞いてたと思うけど」に破られ、身を乗りだした紀子が「どう思う? 知恵美は」と間近に訊けば「ううん」と僅かに黙考ののち「賛成かな」と甲高に答える知恵美は淡い光を僅かに瞬かせ、それで総てが決したようなものだが「それにしても凄いわね」と感心したように駒井は言い、「こう言っちゃ悪いけど、今まであまり信じてなかったのよね」ともっとよく見定めようと身を近づけるが淡い光が眩しいというように眼を細め、「日下さんも八木さんもほら、アレでしょ、だからてっきり」仕掛けか何かあるように思っていたらしく、「だってほら二人して訪ねてきたでしょ、あれからして変だって思ったもの」とまるで総てが巧妙に仕組まれたものでもあるかのように駒井は思い、事前に何も知らせなかった二人に対する信頼をだから一度失い掛けたし、そのこと自体を後悔しているのではないが日下との八木とのセックスが何か不浄なもののように思い出されもし、そのように不浄なものを見るようにして蔑んだ耕一の無表情が次いで思い出され、諄々と説けば説くほど自分から離れていく耕一をそれでも何とか繋ぎとめようと「違うのそうじゃなくてメシアが」とその世界像を展開したところで失笑されるだけで、終いには「訳分かんないこと言うな」と卓を拳固で叩いて「誰とでも好きなだけやりゃいい」と出ていったきり帰ってこない耕一が言っていたようにメシア顕現のためというのは単なる口実でただやりたいだけではないかと一時は脱会も検討した駒井だが、知恵美と身近に接して淡い光を浴びるうち徐々にその真正性に気づいて自己の粗忽を思い知ったのだった。その干涸らびたミミズのような作り物めいた華奢な手足のそれでいて淡桃色の艶めかしい肌合いを持つ卵生のゆえに臍がなく蛹化し脱皮する知恵美にこそ、そのグロテスクな相貌の内にこそメシアの特質は秘められてあるのだと駒井は思うに至り、信仰にその身を捧げるとまでは言わぬが少なくとも顛落しないだけの確かな足場を見出したようには思い、「でもほら符牒だって言ってるでしょ、そこのところがね、まだよく分からなくて」と一抹の不安はあるにしろこの知恵美=メシア=天皇がいずれ導いてくれると「今はね、信じてる」と締め括り、「なんか、つまんないこと喋っちゃって」と恐縮するが洗い浚いぶちまけてむしろ晴れやかで、却って紀子のほうがその唐突な信仰告白に「つまらないなんて、そんな、全然」と戸惑い、「それじゃそういうことで」と駒井は席を立つと事務に戻り、事態を把握できない紀子は元の通り知恵美を桐箱に納めポシェットに仕舞いながら「何あれ、どういうこと?」と知恵美にとも半透明の恵美の霊にともつかぬ素振りで問い掛けるが、「さあ」と半透明の恵美の霊も首を竦めるだけで何も答えてはくれないのだった。